女神が奏でる鎮魂歌《レクイエム》1
足枷に囚われたディランを見下ろしながら、彼の全身をざっと確認したリシェルは、心の中で安堵していた。衰弱は激しそうだが、目立つような暴力や傷の跡はない。思っていたよりはまだ持ちこたえているようだ。
安心ついでに、気持ちとは裏腹な言葉が口から飛び出してしまった。
「いい姿だわね。足枷をはめられる気持ちが少しはわかったかしら」
初夜の翌日の忌々しい出来事を思い出してそう口にすれば、ディランもまた懐かしそうに笑った。
「こんな無骨な足首よりも、君の白くて健康的な足の方がよく似合っていたよね。今でも脳裏に美しく焼き付いているよ」
「今すぐ忘れて!」
黒鍵のエースである自分が囚われた過去は恥辱以外の何物でもない。
こんな物が目の前にあるから嫌なことまで思い出してしまったのだと、いらいらしながら解除に乗り出せば、座ったままのディランは後ずさってリシェルの手を逃れようとした。
「ディラン?」
「君にまた会えて嬉しかったよ。だけど、もういいんだ」
口元に浮かべた笑みはそのままに、けれどきっぱりとした拒絶をされ、リシェルはしばし混乱した。
「何を言ってるの? 足枷がそんなに好きとか? 趣味が悪すぎるわ」
「これ以上、僕に近づかない方がいい。だから……もう帰ってくれ」
赤い瞳は少しも揺るがず、リシェルをまっすぐに射抜いていた。だというのにその輝きはあまりにも陰鬱で、彼が自分を見ながらも本心では目を逸らしていることに気づいてしまった。
「……それは、私が死ぬと思ってるから?」
虚だった彼の瞳が、一瞬だけ明滅する。
「ヴィクトリアに聞いたわ。あなたを愛した者は皆——死ぬと」
ディランから最後まで聞かされなかった、もうひとつの呪い。その場所へようやく辿り着いたのに、彼が少しも喜んでいないことは明らかだった。
「そうか。知ってるんだな。だったらなおさら僕のことは助けなくていい」
貼り付けたような穏やかな笑みが、あからさまな自嘲に変わる。
「僕がこのまま戻らなければ、君が皇子妃の位に縛られる必要もない。好きにすればいい。あのとき逃げ出そうとしたように、今すぐ立ち去ってくれ」
彼がそこに込めた願いの切実さ。けれどそれはかえってリシェルの怒りに油を注ぐことになった。
「なんで私を追い返そうとするのよ! あなたは私に愛してほしいんじゃなかったの?」
「気が変わったんだ。それに、僕を殺すために近づいてきた君が、そもそも僕を愛してくれるはずもない。ヴィクトリア嬢ならともかく」
痛いところを突かれ、思わず黙り込む。嫌いな女性の名前と並列にされても腹立たしいと思えぬほど、リシェルもまた追い詰められていた。
ディランの言い分は本当だ。黒鍵の命令とは別にしても、リシェルに愛はわからない。恐れていると言ってもいい。
そして自分よりはるかに長く「愛」という呪いに翻弄されてきた彼に、愛について語ることがどれほど愚行か、よくわかっている。
彼のことを救えず、助けることもできない。暗殺者たる自分に、その資格はない。
ただ唇を噛み締めることしかできないリシェルから、ディランがふと目を逸らした。伸びた前髪に隠れて、その瞳の色が完全に見えなくなる。
途切れた視線の先で、彼は吐き捨てるように呟いた。
「そもそも僕には、愛なんてわからないからね。君が何度も突きつけてきたように……」
「嘘つき!!」
かっとして叫んだリシェルは、踏み込んだその足で彼の胸倉を掴んだ。
「リシェ……っ!」
苦しそうに咳き込むディランの顔を無理矢理自分の方に向ける。紅玉の瞳が一瞬だけ光を取り戻した隙に、彼女は全身全霊で畳み掛けた。
「閉架図書室で女神に関する記述を見つけたわ。呪いは三つあると。ひとつは“呪われた皇子を愛した者にしか彼は殺せない”、もうひとつは、“皇子を愛した者は皆死ぬ”……」
ここまではリシェルも把握していた内容だ。だが、ディランを追いかけて辿り着いた先にあったのは、三つ目の真実だった。
「あなたは——“愛すること”を知っているのね」
エルネスト皇族にかけられた呪い——皇家の人間は愛を知らないというもの。
だが、女神はたったひとり例外を設けた。それが“生まれ変わりの皇子”だ。
初代皇王の生まれ変わりという意味か、それともかつて女神が注いだ愛と同じものを持たせたのだという皮肉なのか。事実はうやむやだが、女神はそれを「呪い」でなく「愛」と呼んだ。
三つ目の愛は——“呪われた皇子は、愛することを知っている“だ。
ディランはエルネスト皇族の一員にあって唯一、人を愛せる皇子だった。そんな彼にリシェルは何度も「愛を知らないくせに」と、冷たい言葉を投げつけた。
愛を知る彼は、今までどれだけのモノにそれを捧げてきたのだろう。そして——どれだけのモノを喪ってきたのか。
生まれてすぐの母親の記憶はないにしても、乳母夫婦や庭師の老人など、幼き彼の周囲で愛情を注いでくれた存在を、憶えていないはずがない。
きっと彼はそんな人たちを愛した。返ってきたのは愛ではなく、彼らの死だった。
呪われた皇子を愛する者は皆死ぬ。だからディランと誰かが相思相愛となり、共に人生を過ごすことは永遠にありえない。相手が死を免れたいと思えば、ディランを殺すしかない。
これこそが、初代皇王に裏切られ、儚く散った女神の奏でる、呪いの全貌だった。
「私に嘘はつかないで」
ディランに伝えたいことがたくさんあった。毒に倒れた自分を助けてもらった礼もまだ言えていない。「愛を知らないくせに」と詰ったことも謝らなければならない。同行しようとするヴィクトリアを押し留め、ひとりで聖主国に乗り込んだ理由だって、ちゃんと説明するべきだった。
けれどどうにかして絞り出したのは、まるで幼な子の我儘のような拙い台詞だった。嘘と言えば、彼よりも自分の方がたくさん重ねている。伯爵令嬢であることも、花嫁であることも、すべてが偽りで作り物だ。
そんな自分が「嘘をつかないで」と願うのはあまりに滑稽だ。けれどこれ以上、ディランに嘘を重ねさせたくなかった。
この気持ちが一体なんなのか、言い表すことができない。愛や呪いといった言葉のラベルを貼ることも今のリシェルには敷居が高すぎた。
力を失ったリシェルの腕の先で、ディランもまた押し黙ったままだった。勾留生活の影響か色艶を失った白髪の下で、赤い瞳が固まっている。いらぬことまでつらつらと語るのが得意なはずの唇がうっすらと開き、呼吸するたびに微かに震えていた。
互いにかける言葉を思いつけず、沈黙だけが流れていく。
静寂を打ち破ったのは、黒鍵の指揮者であるマキシム神父だった。
「そこまでです。演奏中の余計なおしゃべりは厳禁だと、何度も教えたはずですよ」
リシェルが蹴破った扉の向こうからゆったりとした足取りで現れた彼は、冷たい視線で二人を見下ろした。
「リシェル、あなたは私が与えた譜面通りに演奏を完遂することができませんでした」
「神父様、待ってください。どうしてこんな荒唐無稽な命令を出したんですか」
「荒唐無稽? 何を言うのかと思えば」
「だって、おかしなことだらけじゃないですか。呪いに関する情報は隠したままだったし、こんな誘拐紛いのことをしておきながら、私をここに誘導したり」
リシェルは図書館に現れたマキシムに導かれてここまでやってきた。扉の鍵は彼が持っていたにもかかわらず、漏れ聞こえてきた声に腹を立てて反射的に蹴破ってしまったが、神父はそれを咎めることなく、ただ傍観していた。
黒鍵の指揮者たる彼の描く譜面は、いつ何時も正しいはずだった。
けれど。
「この演奏は、明らかにおかしいわ」
立ち上がってそう突きつけたリシェルを、神父は一笑に付した。
「私の演奏はいつだって完璧です。おかしいというなら、それは演奏家の腕のせいでしょう。自分の力不足を棚に上げて、よく言えるものです」
「でも……っ!」
「リシェル。あなたの演奏はどうやら失敗に終わりそうですから、代役と交代させます。お馬鹿な弟子にはまだまだ手助けが必要なようですからね」
「代役ですって? 今更何を……」
「今更の話ではありませんよ。彼もまた、ずっと演奏家としての腕を磨いてきたのですから。あなたたちのすぐ近くでね」
言いながら目を向けた扉の先で、小さな影が動く。その姿をよく知っていたリシェルは、信じられない思いで彼の名を呟いた。
「ケイ……どうしてあんたが」
「どうしてって、それがオレの役割だからさ」
いつものメイド服でなく、リシェルとよく似た黒装束に身を包んだ少年が、得物を握りしめたまま、アーモンドのような瞳を険しく尖らせていた。




