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軍神殿下と暗殺令嬢は、愛することをまだ知らない(旧題:死にたがりな貴方と殺したがりな私の輪舞曲)  作者: ayame@アンジェリカ書籍化決定


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死に焦がれるパルティータ

長らく放置で申し訳ありません。私事ですが引っ越しと転職が年末年始にあり、ネットも即通せずてんやわんやでした。

てんやわんやついでに……拙作「ヒロインなんかじゃいられない!!男爵令嬢アンジェリカの婿取り事情」が第9回アース・スター ノベル大賞にて銀賞受賞となりました。初・書籍化!です!!

こちらの作品ともどもよろしくお願いいたします。

 近づいてくる小さな足音に気づき、ディランはうっすらと瞳を開けた。ひたひたと気配を殺して忍び寄るそれは、訓練された類のものだ。普通の人間なら感知できぬほどの存在に敏感になれるのは、幼い頃から人々の悪意に晒される中で生き延びてきた故の勘か、それとも自身にかけられた呪いの副産物か。


 足音はディランの独房の前で止まり、カタリと別の音を立てた。扉のすぐ横に備え付けられた小窓が開き、盆が差し出される。載っているのは皇子に相応しい豪華な晩餐ではなく、グラス一杯の水とパンがひとつきり。彼がここに囚われて以降、毎日同じメニューが日に二度差し入れられていた。十分な量とは到底言えないが、不十分すぎて死ぬほどでもない。ぎりぎりのラインで攻めてくる辺り、この組織はひと思いに殺すだけでなく、精神的な攻撃も心得ているようだ。


 食膳を置いた足音が遠ざかるのを待って、ディランはゆっくりと立ち上がった。のろのろと一歩を進めるたびに、左足につけられた足枷がジャラリと音を立てる。鎖の先は窓枠の鉄格子に括り付けられていて、この部屋の中を動ける範囲の長さに設計されている親切ぶりだ。


 その場に座り込んでまずはグラスを手に取った。舐めるように水を一口だけ含むのを三回繰り返して、片手大のパンを小さく千切る。食べなければ人は死ぬ。けれど自分はどうせ死ねないだろうから、だったらわざわざ拒否して飢えに苦しむのも馬鹿らしいと、出されたものには口をつけてきた。誘拐されて移動する際に睡眠薬は盛られたようだが、それ以外は特に何もないことを幸いとするべきかもしれない。


 胃腸を労わるようにゆっくり咀嚼と嚥下を繰り返しながら、壁にもたれて薄暗い天井を見上げた。年季のある染みを数えるのにもはや飽きて、ひとり膨大な時間を持て余している。栄養が足りていないせいか頭はぼんやりとして、それが心までも蝕むように嫌な記憶を呼び起こしていった。


 ディランの一番最初の記憶は、生温かい感触だ。まばゆい光の中、彼は精一杯に声をあげて泣いていた。それはこの世に生まれ落ちたことを嘆き、懺悔する声だったのかもしれない。彼を包む生温かいものは、母親の血だった。動かない白い指先が自分の頬に触れていたのに、彼はそれを母だと気づけぬまま、それが永遠の別れとなった。


 次なる記憶は自分をあやす女の優しい声と、肩車をしてくれた男の逞しい肩だ。亡き母の従姉妹にあたる女とその夫が、誰からも見放された皇子の世話を買って出た。夫婦の間に生まれた子が歳をとることなく亡くなったこともあってか、二人はとても献身的に仕えてくれた。だがその献身は年月を経る中で、皇族への敬愛から子に捧げる深い愛へと変わってしまった。関係者は誰も立ち入らぬ離宮で、乳母夫婦がディランを実の子のようにかわいがるのを咎める者もない中、疑似家族を演じ続けた二人は、ディランが二歳を迎える頃、流行病に罹り、相次いで亡くなった。


 碌に世話もされない皇子が、呪いのために死ぬことなく生き残り、次に出会ったのが庭師の老人だ。もともとは内宮に勤めていたが、足が不自由となり、離宮へと追いやられた寡黙な男だった。寂れた離宮の庭をひとりで世話するその大きな背中に、かつて自分を肩車してくれた乳母の夫だった男の面影を追ったディランは、いつしか彼の後をついて回るようになった。下層の使用人は本来、主人の目に触れてはならない不文律がある。物言わぬ庭師は、初めはディランを見かけると姿を消していた。だが、自身を見つけては様子を窺ってくる幼な子に情が湧いたのか、いつしか隠れることをやめた。見よう見まねで己の真似をする皇子が怪我をするよりはと思ったのだろう、無言のまま道具の使い方を見せてくれるようにもなった。そうして二人の距離が縮まり、器用な彼が木彫り細工を作ってはディランを喜ばせるようになった頃、木の剪定のために登ったはしごが壊れ、ディランの目の前で落下した彼は、意識を取り戻すことなくそのまま亡くなった。


 呪われた皇子の近くにいると死ぬ。ロクサーヌ皇妃が嬉々として広めた噂は真実ではない。


 ディランの周りの者が皆死ぬのではない、ディランを愛した人間が皆死ぬのだ。


 その愛に、親子の愛情か恋人への恋情かなどの区別がないことは、自分に近づいたヴィクトリアがその犠牲になりかけたことからも明らかだった。父親のロートレイや侍従のアゼルが無事なところを見るに、ただの忠誠や敬愛とは違う何かの基準があるのだろう。


 もっと若い頃は、それを究明したいと思ったこともある。ヴィクトリアの研究に一縷の望みを賭けようとしたことも。だが彼女もまた呪いに蝕まれ、ディランから離れていった。残念だというよりも「やはり」という気持ちの方が大きく、虚しささえ感じなかった。


 ロートレイとヴィクトリアがディランを一切責めず、今では立ち直りつつあることだけはありがたいと思う。そうでなければ死んでも死にきれなかった。


(僕には、誰かに愛される資格なんてない……)


 命を賭してまで愛することなど不可能だと、ぼんやりとした頭の中で女神の嗤う声がこだまする。知らず知らずのうちに求めた愛は、すべて誰かの死に置き換えられた。


(もう、終わらせてくれ)


 歴代の呪われた皇子の末路はどれも似たり寄ったりだ。愛のない世界で、多くの人間を死に追いやって、やがては狂い、それでも強靭な肉体を持っているが故に病に冒されることなく、自死さえ許されず、孤独の中で老衰するまで生きながらえる。


 生と死が曖昧なその終止符を、ずっと探し求めてきた自分。戦場へと行軍する最中に届いたのはあるメッセージだった。


 ポケットに忍ばせた黒いカードを引き出せば、あの日、野営していた天幕で、夜半に紛れて忍び込んできた不審者からもたらされた、甘美な毒の味が広がる。


『女神の名の下に、貴方の死を讃える鎮魂歌(レクイエム)を演奏します』


 白いインクが、独房の暗闇の中でも鮮やかに踊っているかのようだ。


 本当かどうかわからない。騙され痛めつけられ、人質へと落ちぶれるだけかもしれない。それでもこのメッセージに縋らずにはいられなかったのは、女神の呪いは、女神の名の下でしか成就できない気がしていたからだ。


 願わくば己の最初で最後の望みが与えられますよう——そのためなら女神の足にだって口付けしてやろうじゃないか。自分が触れたいと願うのも、口付けたいと焦がれるのも、もはや彼女だけだった。


 薄れゆく意識の中で、最期に思い描こうとした女神の姿は、なぜか神々しさよりも猛々しさが際立っていた。女神を描くことすら不敬だというのに、そのしなやかな肢体は匂い立つようで、美しいダークブロンドの下から覗く瞳は鮮やかな青色だ。


 いったいなんの欲が湧いてきたのかと自嘲する。けれど滑らかな肌の手触りも、感情に満ちた青い瞳も、火傷しそうなほど熱い唇の温度も、ずっと前から知っている気がしてならない。


(女神に呪われた僕が、女神の腕に抱かれることを望むのか)


 不敬だと罵られたとしても、こんなに美しい相手なら仕方ない。


 生きている誰かの命を犠牲にせずに死ねるなら本望だ。この無様な生を終わらせてくれるなら、なんだって飲み込もう。呪われた皇子のための鎮魂歌(レクイエム)とやらは、どれだけ荘厳な響きをみせるのか。


 そんな高まる期待とは裏腹に、目の前に広がるのは冴えない独房の風景だ。カビた匂いと、足枷が織りなす粗雑な効果音しかない世界。これが特等席だというなら、女神はとんだ凛気女だと、つい本音が溢れる。


「本当に、最期まで碌でもない女だな」


 自分はつくづく女運が悪いと再び天井を仰いだ、そのときだった。


「誰が碌でもない女ですって?」


 もたれた石壁が震えるほどの衝撃とともに、固く閉じられていたはずの扉が吹き飛んだ。目を丸くしたディランの視線の先に現れたのは、黒づくめの細身のシルエット。扉を蹴飛ばした衝撃で黒いフードが取れ、闇を照らすほどの強さを持った鮮やかな金の髪が(こぼ)れ出た。


「わざわざ助けに来た妻に、ずいぶんな言いようだわね」


 自分を見下ろす女が発した“妻”という言葉に、はっと目が覚める。そうだ、自分は結婚したのだった。忌まわしくも崇高な女神の名の下に夫婦の誓いを交わした、その相手の名は——。


「……誤解だよ、リシェル」

「何が誤解なのか、じっくり聞かせてもらおうじゃないの。いったいどこの女のことを考えていたのか」


 きらりと光る青い瞳には、怒りと生への強い意志が漲っていた。勢いのまま踏み下ろされた足の先で、ディランを捕える足枷の鎖がジャラリと新たな音を立てた。


*******

パルティータ

独奏用の組曲。複数の舞曲で構成されたものが有名。


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