裏切りのカデンツァ
中央神殿の鐘が深夜零時を告げる頃、ひとつの影が古びた建物に忍び寄った。施錠の甘い窓を見つけてするりと内部に侵入した影は、小動物のような素早さで目的の部屋へと駆けていく。灯り一つない暗がりを迷いなく進み、地下への階段を抜けて小さな扉の前で立ち止まった。
黒いフードの下からピンを引き抜いた際、彼女の鮮やかな金髪が一房溢れ出た。それを仕舞い込む時間も惜しいと、素早く解錠を試みた彼女は、軽い手応えを感じて扉を押し開けた。
蝶番が微かに軋む音が、静かな空間に響く。この建物は夕方七時には閉館となり、夜は無人になることを彼女は知っていた。子どもの頃から叩き込まれてきた教育には、大陸中の書物や言語に精通するというカリキュラムもあった。彼女にとってこの図書館は、大して好きではないものの馴染みのある場所だ。
(とはいえ、閉架図書室があったとはさすがに知らなかったのだけど)
彼女が通っていたのは、一般人にも解放されている開架図書館の方だ。閉架図書室についてはヴィクトリアに教えてもらった。過去に聖主国を訪れながらも、閉架図書室の閲覧申請を却下されたという彼女の情報と、黒鍵時代に見知った建物の間取り図を組み合わせ、目的の部屋は建物の地下にあることを突き止めた。
黒のボディスーツに身を包んだリシェルは、今、その閉架図書室に立っている。日の光が一切差し込まぬ地下で、いくら夜目が効くとはいえ、このままでは何も見えない。
誰かが入ってくることはないだろうと、入り口に備え付けられていた燭台に火を灯せば、付近がぼんやりと明るくなった。定期的に虫干しでもしているのか、カビ臭さはほとんど感じない。部屋の広さは二十畳ほど、幾つもの本棚が立ち並ぶ様子が浮かび上がったのを見て、リシェルは思わず嫌なため息をついた。
「まさか、この大量の本の中から、呪いに関するものを見つけ出せって?」
いくら朝まで人がいないからといって、数時間ですべてを確認するのは骨が折れそうだ。
額に手を当て、ヴィクトリアから貰った助言を思い出す。
「優先的に探してほしいのは、古代女神語で書かれた資料です」
古代女神語は聖書に用いられている言語だ。大陸の共通語の元になっているものだが、もともと音声言語はなく、文字言語としてしか利用されていなかった。そのためすっかり廃れて、現代では神職者や一部の学者しか使用していない。
聖主国行きにヴィクトリアが同行を申し出たのには、そんな理由もあったようだが、リシェルは彼女の提言を断った。理由は——リシェルもまた古代女神語に精通していたからだ。
「当時は“なんでこんなカビが生えた言葉の勉強しなくちゃいけないのよ”ってイライラしていたものだけど……どこで役に立つかわからないわね」
そう、黒鍵での教育の中には古代女神語の授業もあった。マキシム神父自ら教鞭を取る、思い出せば身震いしたくなるような、ちっともありがたくない時間だった。
「でもあの授業って、全員が必修じゃなかったのよね。受けてたのって私とミレーヌとケイと……あと二人くらいだったかしら」
やがて完全に習得したミレーヌが卒業し、リシェルとケイ以外の二人はいつの間にかいなくなっていた。黒鍵は本人の特性に合わせてカリキュラムが組まれる仕組みだから、別の授業に振り替えられたのだろうと、不思議にも思っていなかった。
「ミレーヌやケイはともかくとして、なんで私が選ばれたんだろ。まさか私に神父になれとか言うつもりだったとか? うわぁ……」
いつも微笑んでいる口元とは違って、一切笑わぬ神父の糸目を思い出し、ぶるりと身体を震わせる。彼とも会っていろいろ確認しなければならないが、兎にも角にもディランのことが先だ。黒鍵の根城に人を収容するような場所はなかったから、どこにいるのかを探らねばならない。
その前にやるべきことは、呪われた皇子の呪いについて解明することだった。マキシム神父がいい加減な譜面を書く人でない以上、今回の演奏の真意について探りを入れるためにも、こちらの手札を増やしておきたい。
燭台の火の扱いに注意しながら、本棚を順番に眺めていく。大陸共通語のほかに、馴染みのない文字もいくつか見えた。その合間に、画数の多い複雑な古代女神語の背表紙がぽつぽつと埋もれている。それを一冊ずつ引き出して中身を確認しつつ、関係ないと判断したものは読みやめて元に戻していく。
そうすること——約三時間。リシェルは自分の立場も忘れて思わず声をあげた。
「全然行き当たらないんだけど!」
部屋の中央に設置された小さな机に突っ伏して、皮表紙の本をぱたんと閉じる。古代女神語で書かれているだけあって、慈愛の女神を讃えるものが多いが、それだけだ。中には古の神官が古代女神語の練習のために書いた日記なども混ざっており、知りたくもない誰かの日常を覗き見るはめになった。
慈愛の女神に関するものは概ね禁書扱いされているとヴィクトリアは言っていた。あまりにも崇高であるがために、女神について語ったり文字に残したりすることすら不敬という考えのもと、表の世界で出回っているのは聖書や論文のみ。ここにある書物が禁書扱いなのは、そうした事情から表に出せないだけであって、内容が著しく不適切だったり、秘匿されていたりというわけでもなさそうだ。
「さすがは女神様。徹底してるわね」
聖主国育ちで、女神信仰は徹底的に叩き込まれているが、そこは黒鍵の血も混ざった身。死について独特の観念を持つ自分たちの女神信仰は、どこか不均衡だ。
いや、おかしいのは自分だけかもしれない。同世代の中で懲罰房歴ナンバーワンのリシェルの罪状には、「女神信仰をないがしろにした」というものが多くあった。
「そんなに大したことしてなかったわよ。礼拝に行くのが面倒で仮病を使ったとか、お祈りの時間に厨房がガラ空きになる隙を狙って食べ物をくすねたとか、その程度だったはずよ」
左耳をぺたんとつけるようにして頭を横に返す。蝋燭が溶ける音まで聞こえてきそうな静寂に、自然と息がこもる。
自分が今、生まれ故郷に里帰りしているという実感がなかなか湧かない。初めて忍び込んだ場所だからだろうか。まとわりつく重苦しい空気に憶えはあるし、馴染んだボディスーツに身を包んでもいるのに、ぎこちなさすら感じる。
揺らめく燭台の炎をぼんやりと眺めているときだった。その先に小さな棚があることに気がついた。立ち上がって近づいて見れば、本の表紙が見えるように陳列されるタイプの書棚だった。
「これは……絵本?」
扉を大きく押し開ければ隠れてしまう位置にひっそりと置かれた棚には、数冊の絵本が差し込まれていた。表紙に祈るような姿のイラストが書かれているものがあるところを見るに、子ども向けの女神信仰に関する本かもしれない。
読みやすそうな大陸共通語の本をひとつ手に取ってみると、その後ろから一回り小さい絵本が現れた。
表紙に書かれた文字を見て、はっとする。
「これ、古代女神語だわ。タイトルは……『天から降りた少女と三つの愛』?」
古代女神語は大陸共通語の元になった言語であり、習得自体はさほど難しくはない。ただ数字だけは独自表記で癖が強く、少々難解だ。
三つという数字を二度確かめたリシェルは、その場で絵本を開いた。
◆◆◆
はるか昔、少女は、まだ国を持たぬ若き王に心惹かれた。
彼の理想と勇気を讃えた少女は、聖なる力をもって彼を助けた。
王はその加護を得て国を興し、外患を駆逐し、人々の信頼を集めていった。
しかし王は、少女が思ったような男ではなかった。
王が求めたのは少女の愛ではなく、ただの力だった。
国が形を成したとき、王は名家の令嬢との婚姻を選び、少女にぬれぎぬを着せ、処刑場へと追いやった。
死の間際、少女は本来の姿を現し、王とその子孫にある願いを託す。
「愛することを永遠に失え」
少女の願いはたちまち効果を発揮した。
王は妻子に心を向けることができなくなった。
王が死して天へ昇ろうとも、彼の心は空のまま──天に還った少女を見ることもない。
それでも少女は、どうしようもなく彼を愛した。
その妄執はやがてひとりの子を生む。
——白い髪、赤い瞳を持つ、“生まれ変わりの皇子”。
◆◆◆
「……え?」
突如として現れた憶えのある色彩に、文字を追っていた指が止まった。
「白い髪に赤い瞳って……“呪われた皇子”のこと?」
リシェルもよく知る彼は、初夜の席で自分のことをそのように蔑んだ。結婚生活を送る間にもそう呼ばれる場面にあちこちで出くわした。
だがここに書かれているのは“呪われた皇子”ではなく、“生まれ変わりの皇子”だ。
「それに、“愛することを永遠に失え”っていうのは……エルネスト皇家にかけられた呪いだと言えるわよね」
エルネスト皇族は愛を知らない。ディランやカイオスが明言していたのだからこれも確かな話だ。
この絵本のタイトルにもなった、“天から降りた少女”。彼女が抱いたとされる “愛することを永遠に失え”という願い。
「ここに出てくる“少女”は慈愛の女神のことで、“王”はエルネスト皇国の初代国王ってことになるわよね」
なぜエルネスト皇族に慈愛の女神の呪いがかけられているのか——その答えは初代国王が女神を貶めたから。愛した男に裏切られ、処刑され、天へと還る前に、女神が願いという名の呪いをかけて一矢報いたと、絵本は語っている。
だがまだわからないことがあった。
呪われた皇子がなぜ“生まれ変わりの皇子”と記されているのか。初代の生まれ変わりということなのだろうか。
驚きも冷めやらぬ中、まだある続きを指で追う。
「えっと、“少女の愛はあまりに強く、己をも縛ってしまった。生まれ変わりの皇子に与えられた愛は……三つ”」
表紙に出てきたのと同じ、複雑な綴りの数字が踊る。“三つの愛”がここで回収されるのかと読み進めたとき——。
リシェルの指が、そこで止まった。子どもの頃に、文字通り叩き込まれたといっていい古代女神語が、彼女があまりによく知る事実を謳っていた。
◆◆◆
“ひとつ——皇子を愛した者は皆死ぬ”
“ふたつ——死にたくなければ、皇子を殺さねばならない。ただし皇子を愛する者にしか彼は殺せない”
◆◆◆
ひっ、と飲み込んだ息で喉が圧迫され、呼吸が停止した。止まったのは息だけではなかった。時間と記憶と思い出と——あらゆるものが彼女の全身を圧迫していた。
「なん、で……どうしてここに殿下の呪いの話が」
言葉を吐き出した勢いで反射的に大きく息を吸えば、再び“三つ”という数字が目に飛び込んできた。
“三つ目の愛”、と書かれたその先を読むことを、リシェルは一瞬だけ躊躇した。なぜなら読むことで、己が犯した過ちがまたひとつ明白になってしまいそうだった。
毒に倒れた自分を助けてくれたディランに、まだ礼を伝えられていない。
それに加えてもうひとつ——彼に確かめなければならないことが増えてしまうかもしれない。
これはただの絵本だ。史実とは違う。
けれど。
絵本を手に目を泳がせるリシェルの前で、部屋の扉が音もなく開く。それに驚くことさえなく、リシェルは聞こえてきた声に耳を傾けた。
「やれやれ。書物にとってネズミは天敵だというのに、いったいどこから忍び込んだのだか」
追い詰められたネズミは、扉の影から現れた猫に向ける牙を持ち合わせてはいなかった。
噛みついても軽くあしらわれるだけ——いくら自分が黒鍵のエースだからといって、絶対的な存在の指揮者に敵うはずがないのだ。
なぜなら今のリシェルを作り上げたのは、目の前の男だった。
黒鍵所属の演奏家としてあらゆることを教えられ、独り立ちしたはずの己の前に、未だ巨大な壁として立ち塞がる存在。ただの一度だって、一対一の模擬戦で勝てたことのない相手。
その彼が、糸のような目でこちらを振り返った。
「やぁ、リシェル。——おかえり」
高位の神職者にのみ許された純白の神官服。シルバーのストラと女神のメダルも神々しいマキシム神父が、猫のような笑みを浮かべていた。
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カデンツァ
ソロの楽器や声楽家が、伴奏なしに即興で演奏するパートのこと




