一夜明けての諧謔曲《スケルツォ》1
目を覚ましたリシェルは、見覚えのない天蓋に思わず眉根を寄せた。テラスから差し込む陽の光から察するに、随分な時間だということも合わせて悟る。
自分がどこにいるのか呆けたのはほんの一瞬のこと。
「おはよう、花嫁さん。よく眠れたみたいだね」
飛び起きるのと同時にかけられた言葉に、今度は目を剥いた。
「な……っ!」
深い碧の瞳を見開いた先にいたのは、透き通るような白い髪に紅玉の目を持つ男。
それ以上の言葉が何も出てこず、まじまじと男を見つめれば、彼は小首を傾げた。
「おや、もしかして夫の顔を見忘れてしまった? なんとも薄情な花嫁だ」
見忘れるなどあろうはずがない。長い足を組んだまま椅子に腰掛けてこちらを眺めていたのは、昨日リシェルの夫となったディラン第一皇子、その人。
見覚えがないから呆けてしまったのではなく、ありすぎるからそうなってしまったのだと、叫び出しそうな口をかろうじて閉じたリシェルは、身動ぎした隙に足元に違和感を感じてそちらを見た。
「何、これ……!?」
「何って、足枷だよ。見たことない?」
今度は反対側に首を傾げてくつくつと笑うディランに、気持ち悪いものでも見るかのような嫌な視線を向けてしまったのは仕方のないことだろう。
「なぜこんなものを……」
「おや、それも憶えがないのかな?」
そう問い返されて、ないどころかありまくりの憶えに思い当たり、唇を噛んだ。
自分は昨晩、夫となった彼を殺そうとして、失敗したのだ。
となればこの足枷は当然の帰結と言えるが、それ以前に問い詰めたい出来事でいっぱいだった。たとえば、己の命を狙った女が眠るベッドの横でいったい何をしていたのか、などなど。
だが。
「私をどうするおつもりですか」
過ぎてしまったことをあれこれ詮索するのは性に合わない。リシェルは短気な方だ。
自分は任務に失敗した。ただそれだけのこと。
一国の皇子に手をかけようとして、無事ですむとは思っていない。つけ爪の下に仕込んである自決用の毒を取り出す隙を伺いながら、リシェルはディランの答えを待った。
ディランは長い足を組み直し、顎に指を当てて微笑んだ。
「そのことなんだけど……一応聞いておくよ。どうして僕の命を狙ったのかな」
「あら、随分と白々しいことをおっしゃるのですね。なんら咎のない我が祖国ラビリアンに攻め込み、散々踏み躙った挙句、領土までもぎ取っていかれた方のお言葉とは思えません」
「なるほど。ラビリアン王国のための復讐だったと、そう言い張るんだ」
「……言い張るも何も、本当のことですわ」
「ふぅん」
リシェルの祖国であるラビリアン王国は、一年前にエルネスト皇国軍の侵攻を受けた。宣戦布告こそあったものの、戦争の理由は取ってつけたようなもので、ラビリアン王国にとっては不運だったとしか言いようがない。
エルネスト皇国はここ十年で、大陸のあらゆる国々を制圧し続けていた。滅ぼされた国もあれば、属国となった国、ラビリアンのように国土の一部を割譲してかりそめの和平を繋いだ国など様々だ。
常勝を誇るエルネスト軍を率いるのが、第一皇子であるディラン将軍だ。その強さと果敢な攻めの戦略から、エルネスト軍内では「軍神殿下」との呼び声が高いが、敵対した国々では「白き悪魔」という呼び名の方が俄然通りがいい。
敗れたラビリアン王国から白き悪魔に一矢報いるために、花嫁として嫁いできたのがリシェル・オルディア伯爵令嬢だったと——そういうことになっている。
だから、最期のそのときまで、リシェルは伯爵令嬢でいなければならなかった。
自分の真の姿を、|標的≪ターゲット≫に気取られるわけにはいかない。
「白き悪魔を相手に本懐を遂げることは叶いませんでしたが、もとより覚悟はできております。こうなれば潔く、祖国とともに散りましょう」
毅然と顔を上げれば、ディランはまたしても悩ましそうに首を傾げた。
「うーん、理屈としては通ってはいるね。でもさ……」
不意に立ち上がった彼がベッドに近づき、リシェルの頬に手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、あらゆる事態を想定していたリシェルの思惑をはるかに超える爆弾発言が、彼の口から飛び出した。
「君、オルディア伯爵令嬢じゃないでしょ。ついでに言えばラビリアン王国人でもない。だからいろいろ不思議でしょうがないんだ」
「————!!」
何故バレたのかと問いかけそうになるのを飲み込み、咄嗟に唇を震わせた。
「……いったい何をおっしゃるのでしょう。私が、伯爵令嬢でないなどと」
「ラビリアン王国にオルディア伯爵家は確かに存在する。そこに十八になる令嬢がいることも間違いない。でもそれは君じゃない。ロクサーヌ皇妃を始め、今回の輿入れを企んだ全員をうまく騙したくらいだから、相当な後ろ盾がいるんだろうね。僕は君がなぜ正体を偽っているのかよりも、その背後関係の方が興味深いんだけど」
リシェルの頬から首筋をするりと撫でながら、ディランは紅玉の瞳を細めた。
「さすがに教えてはくれないかな」
「…………」
口を噤んだのは教えたくなかったからではない。もちろんそれもあるが、それ以上に背筋がぴりりと痺れるような、底知れぬ震えが立ち上ったせいだ。
固まるリシェルを前に、ディランは優雅な指先でリシェルの唇をなぞった。
まるでキスをされたかのように、唇の温度がかっと上がる。
「まぁ、今はいいよ。妻の秘密にはみだりに立ち入ってはならないって、“夫の心得”の教本二十六ページに書いてあったし、詮索はしなことにする。それに、多少の秘密があった方が結婚生活は長く続くらしいよ?」
「……どこでそんな知識を」
「本だよ。僕はこう見えてわりと読書家なんだ。夫婦の寝室にも本棚を用意するくらいにはね」
ディランが指差した先には、確かに小さな本棚が置いてあった。目を凝らして見れば、先ほど彼が口にしていた「夫の心得」という背表紙の文字が読めた。なおその隣にあるのは「拉致監禁の歴史」という本だ。
夫婦の寝室に置くにはあまりに残念なラインナップに頬をひくつかせると、ディランが「ところで」とリシェルを見下ろした。
「お腹はすいてる? 新婚初日はなるべく一緒に過ごすべしっていうのが教本の教えなんだけど、朝食を一緒にいかがかな? その前に身支度がいるね」
ちょうどそのタイミングで、ノックの音が響いた。「殿下、よろしいでしょうか」と男性の声がする。
「入っていいよ、アゼル」
「失礼いたします」
言われて入室してきたのは、結婚式でディランの介添人を務めた侍従のようだ。ベッドの置かれた角度と天蓋から落ちる重たいヴェールのおかげで、互いの姿ははっきりしない。
見えないとわかっていても薄い夜着の胸元を合わせ、シーツをかき寄せて足を隠した。ついでに豪奢な寝台に不似合いな足枷も隠す。
「殿下、おはようございます。なかなか出ていらっしゃらないので、奥様付きのメイドが困っておりました」
「それはすまないことをしたな。リシェルは今目覚めたばかりだ。君はたしか……ケイと言ったかな? リシェルが伯爵家から連れてきたメイドだったね。それにしてもずいぶん小さいな。まだ子どもなのに立派に働いてるなんて偉いなぁ」
アゼルと呼ばれた侍従とディランの会話で、昨日花嫁の介添人を務めてくれていたメイドのケイもそこにいることを知り、またしても目を見張った。
(嘘でしょ、あの子もまだここにいるの? 昨晩のうちに抜け出してるはずじゃ……)
リシェルが本物の伯爵令嬢でないのと同じく、ケイもまた伯爵家から連れてきたメイドではない。ケイもリシェルと同じ組織に所属する者だ。昨晩リシェルが首尾よくディランを仕留めて逃走する裏で、同行していたケイも別行動で屋敷から姿を消す手筈だった。
仮にリシェルが任務に失敗したとしても、ケイは二度とここには戻らない。組織に戻ってリシェルの不首尾を報告する義務がある。片方だけでも生き残って最善を尽すのが鉄則だ。
そう取り決めていたはずなのに、なぜここに残っているのか——。
混乱するリシェルに、ディランが気安く声をかけた。
「僕は一旦失礼するよ。ケイを中に入れるから身支度するといい。朝食の準備ができたら声をかけるからね」
そして戸口にいたアゼルを促し、二人は部屋を出ていった。
静かになった寝室で、ケイの声がおずおずと響く。
「おはようございます、お嬢様。お加減はいかがですか?」
「……最悪よ」
天蓋から降りてくるヴェールを片手でざっとかき分けると、そこにはメイドのお仕着せに身を包んだ少女が、洗面用の道具を持って佇んでいた。
まだ十二歳のあどけない少女が驚いたように目を丸くしたかと思うと、次の瞬間、アーモンドの形をした愛らしい瞳をキッと吊り上げた。
「リシェル、おまえいったい何やってんだよ? それでよく暗殺組織“黒鍵”のエース名乗れたな。……ダッサ」
抱えていた洗面具をサイドボードに乱暴に置けば、張られていたお湯がぴしゃりと跳ねて、初夜を終えたばかりのベッドのシーツを濡らした。