死と愛が交錯する幻想曲《ファンタジア》3
間の悪いことはなぜこうも続けざまに起こるのか。人目を避けるように外へと向かったリシェルの前に、次に現れたのは皇太子カイオスだった。
「……皇太子殿下にご挨拶申し上げます」
「そんな他人行儀な礼はいらないよ。俺たちの仲じゃないか」
流れるように手をとってキスを落とす仕草は、ただのよくある挨拶に過ぎないのに、押し殺した不快感が顔に出ないよう努めなければならなかった。カイオスとの関係は建前の域を出ず、従って会話を弾ませる必要性も感じない。ロクサーヌ皇妃の傀儡でしかない彼から、有益な情報が得られるとも思えない。
「ディラン殿下が待っておりますので、私は一足先に参らせていただきます」
夫の出征に傷心の妻という配役中の今なら、この程度の失礼も許されるだろう。踵を返そうとしたリシェルの手を、けれどカイオスは離さなかった。
「待て。せっかくの機会が巡ってきたんだ。おまえにとっても悪くない話だぞ」
「どういう意味でしょう」
「相談したいことがあると、前にも言っただろう。その話の続きだ」
カイオスと会話を交わしたのは、ロクサーヌ皇妃に初めて謁見したあの日だけだ。呼ばれもしないのにナタリエを伴って乗り込んできた彼に、出口までエスコートされた。
(あのとき交わした会話は確か……)
リシェルが思い出すより先に、カイオスが答えを提示した。
「俺が皇太子を辞退する代わりに、おまえが俺のモノになる——そういう話だよ。心配するな、正式な愛妾にするつもりはない。おまえは皇太子妃として、義兄上の隣に立ち続ければいい」
「何かと思えば……お戯れを。そのような大それたこと、考えたこともありませんわ。口に上らせるだけでも不敬なこと。皇妃様やナタリエ様がお許しになるはずもありません」
「そうだな、その通りだ。俺には必要ない肩書きでも、あの人たちは諦めないだろうな。だが協力のしようはあるだろう? 一緒に考えていけばいい」
そう艶やかに笑むカイオスは、見た目だけは極上の部類に入る相手だ。だがリシェルには欠片も響かない提案だった。
「皇太子妃の座に興味はありませんので、交換条件としては成り立ちませんわね」
そう言って無理やり手を振りほどけば、カイオスは軽く肩をすくめてみせた。
「弱ったな。俺が持つ最大の価値を、こうもすげなく振り払われるとは。いったいどんな条件なら、おまえは頷くんだ?」
「そうですね……私のことを本気で愛してくださるのなら考えます」
くだらない冗談でリシェルを引き止めるカイオスに繰り出した、痛烈な皮肉。愛を知らぬ彼が激昂してリシェルに手を上げる可能性もあったが、この場から抜け出せるなら願ったり叶ったりだ。むしろ彼との不和の噂が広がる方がありがたい。
だがカイオスは緩やかに笑うのみだった。
「それは無理だな。おまえたちは何かにつけて“愛をくれ”と口にするが、そもそも愛がなんたるかを知っているのか? 本当に愛を信じている? ディラン義兄上を愛しているわけでもないくせに」
予想もしなかった切り返しに、息を呑んだのはリシェルの方だった。
「なぜ、そんなことを……」
「なんでわかるのかって? 俺たちは愛がわからない分、他人の愛には敏感なんだ。愛してもいない夫を涙ながらに見送る茶番に飽きたら、いつでも連絡するがいい。愛がなくとも満足できるくらい、かわいがってやるさ」
あっさりと引き下がったカイオスの背中を、リシェルは呆然と眺めるしかなかった。誰にも知られぬよう胸の奥に閉じ込めていた思いを見破ったのが彼だということが、俄に信じられなかった。
自分は驚いているのか、それとも——傷ついたのか。
答えがわからず立ち尽くすリシェルの耳に、軍の出立を知らせるラッパの音が高らかに響いた。
(ディランが、行ってしまう……)
はっと眼前を見渡せば、人の多さに酔ってしまいそうなほどの喧騒に溢れていた。視線を彷徨わせてディランを探すが、一番目立つはずのその存在がどこにも見当たらない。
伝えなければならない言葉があった。何度も喉元までせり上がってきては、結局飲み込んでしまった思いの数々を。
だが今し方カイオスに投げかけられた問いが、リシェルの足をすくませていた。
これは恐怖ではない——怒りだ。
(どいつもこいつも愛・愛・愛! 愛がなんだっていうの? そんなもののために人生を決めるだなんて、馬鹿げてるわ)
自分は違う。そう言い聞かせるように、止まった足を叱咤する。大切な友人の愛に手をかけてしまったあの日、愛という不確かなものに二度と惑わされないと誓ったのだ。
だが。
ディランに向かって「愛を知らないくせに」と言い放ったものの、本当はリシェルだって知らなかった。その上で、知りたいとも思わない。
(だって愛は——怖いから)
鳴り響くラッパの音が、春先のまだ冷たい空へと吸い込まれていく。あちこちで繰り広げられる、家族や恋人たちの別れの場面。
溢れるようなありきたりの愛が満ちる中、リシェルは黙ってラッパの音が遠くに消えていくのを見送った。




