死と愛が交錯する幻想曲《ファンタジア》2
二週間後、約半年ぶりとなる皇軍の出陣式が執り行われた。
滅多に公の場に姿を見せぬゼノス皇王が、将軍であるディランに皇国の紋章が入った軍旗を与える。その光景をリシェルは皇族席から遠巻きに眺めていた。
皇王の顔を見るのはこれが初めてだ。まだ四十代のはずだが、それ以上に老け込んで見えた。ディランとは似ておらず、皇太子カイオスと髪色が同じというくらいしか共通点が見当たらない。
ゼノスは皇家の血が非常に強く顕現した存在だ。愛することを知らず、欲望以外のあらゆることへの興味関心が薄いのがエルネスト皇族に共通する特徴だが、人によって偏りはあるようで、歴代の皇王の中には権力闘争や侵略行為に欲を覚え、国を富ませてきた者もいた。皇家が滅亡せず強固なまま存続してきた理由がそこにある。
ゼノスやカイオスのような者が皇王として立った場合には、ロクサーヌのように影に日向に彼らを支え、時には牛耳る者たちの存在があったのだろう。ああ見えて皇妃は、愚王の代わりに辣腕を振るってこの国をうまく導いている。惜しむらくは、生さぬ仲の息子とその実母への憎悪、そして実家である公爵家への権力集中が露骨過ぎる点だろうか。ディランさえ生まれなければ、何一つ曇りのない我が人生だったと思い込んでいる節は、ある意味彼女にも皇家の血が流れている故かもしれない。
第一皇子を暗殺することに限界を感じたロクサーヌ皇妃は、彼が十三の歳から戦場へと送り続けた。今もまた、エルネスト皇国からゆうに二ヶ月はかかる東方の、さらに奥地で起きている、毒にも薬にもならないような現地紛争に介入する方角へと舵を切った。
今回の出陣命令は、ロクサーヌの甘言に従わず、ディランに毒を盛らなかったリシェルのせいかもしれない。そう彼に打ち明ければ、「まさか」と笑われた。
「皇妃は君のことをただの元伯爵令嬢だと信じている。一介の令嬢にそこまで期待するはずもないさ。僕に新たな死に場所を与えたくてうずうずしていたのは、今に始まったことじゃない」
さすがに皇子妃をあてがってすぐ出征とすれば、軍属派からの突き上げだけでなく、貴族派の中にも眉を顰める者が出ただろう。そのためにしばらく自由を与えられていただけのことだと、彼は割り切っているようだった。
皇妃の権力は厄介だが、その裏がこれほど見えやすい存在もない。ディランを排除したい思惑があからさまで、今も跪く彼を笑顔で見下ろしている。公衆の面前でさすがに「死んでこい」とまでは発言しないが、その瞳は実に雄弁だ。
ディランの背後ではロートレイ第一軍団長以下、六軍のトップが同じく膝をついていた。彼らとは軍事演習の見学を通じて面識はあるが、ここもまた一枚岩と言い切れないことはリシェルも当然知っている。
ディランはロートレイに絶対の信頼を置いているが、リシェルはそうではなかった。自分が狙われたいくつかの事件に彼が関与していないとは言い切れないと思っている。
なぜならロートレイには明確な動機があった。かつてのヴィクトリアはディランの婚約者候補ではあったが、仮に二人が思い合っていたとしても、その関係が結実する未来はやってこなかっただろう。ロクサーヌ皇妃がロートレイ侯爵家と第一皇子の結びつきを許すはずがないのだ。
だが今となっては事情が違う。事故で障害を抱えることになったヴィクトリアは、令嬢としては“疵物”と見なされるようになった。そんな彼女であれば、皮肉にも容認される可能性が出てきた。寝たきりとなるほどの状態ならばさすがになかった話だろうが、車椅子ながら社交場に姿を見せられるまでに回復した今なら、あり得ない未来ではない。
その未来の唯一の暗雲が、リシェルという存在だ。後ろ盾のない元伯爵令嬢一人消し去ることで愛娘の恋心が実るならと、彼がリシェル排除に動いたと考えることは十分できた。
まさかディランを狙うことはないだろうがと、話し込む二人の姿を訝しげに観察していると、自分を呼び止める人があった。
落ち着いたアルトの声質は振り向かずともわかる、つい先ほどまでリシェルの思考の中心にいたその人。
「ヴィクトリア嬢……。いらしていたのですね」
「父も出陣いたしますので。見送りをと思いまして」
「そうですか。侯爵は殿下と打ち合わせ中のようですが……あぁ、ナタリエ様ならあちらに。お呼びいたしましょうか」
彼女とできるだけ顔を合わせたくない意識が働いてしまったのか、ついそのように誘導すれば、ヴィクトリアは「いいえ」と首を振った。
「リシェル様とお話をしたかったのです」
「私、ですか?」
こちらは話したい気持ちは欠片もなかったが、追い払うわけにもいかない。逡巡したその隙に、彼女はいつもの護衛兼介添人の騎士に下がるように命じた。騎士は何か言いかけたが、主家の令嬢に逆らえるはずもなく、話が聞こえぬ距離に控えた。
大勢の関係者が行き交う式典会場で、なぜか二人の周囲だけ波が引いたように人の気配がなかった。心なし喧騒までが遠くなって、春先とは思えぬ冷たい空気が辺りに満ちる。
「それで、お話というのは。なるべく手短にお願いしたいのですけれど。お互い時間もないことですし」
数刻の後にディランは出征してしまう。リシェルはまだ彼に助けてもらった礼を伝えられないままだった。偽りとはいえ妃殿下として妻として彼の前に立つのは、今このときが最後の機会かもしれず、けじめをつけたいと密かに決意していた。ヴィクトリアの横槍に付き合っている暇はない。
彼女とて父親と言葉を交わさねばならないだろう。そしてディランと別れを惜しみたいと願っているに違いない。
頭のいい彼女なら限られた時間の使い方を承知しているはず——そう思いながらヴィクトリアを見下ろすと、次に彼女の口から飛び出した台詞に目を見張ることになった。
「リシェル様は、ディラン殿下の呪いについてご存知なのでしょうか」
自分よりも低い座高の位置から、シルバーグレイの瞳が射抜くような鋭さでリシェルに迫ってきた。およそ貴族令嬢の会話としては相応しくない“呪い”という言葉は、リシェルにとって未だ癒えぬ傷のように深く刻まれたものだ。
「……えぇ、もちろん。だって有名な話でしょう」
そう、彼が呪われた皇子だという事実は、この国では誰もが知っていること。呪われた皇子の周囲にいると死ぬ——ご丁寧にもロクサーヌがわざわざ謁見の場で教えてくれた。
ただ、ディラン本人の言ではそれは誤りで、本当の呪いは「彼を愛した者にしか殺せない」というものだ。彼の周囲で人がよく死ぬのは、彼の暗殺に巻き込まれたためという理由の方が正しい。
呪いの本質は意外なほど知られていないのだと、かつてディランが言っていたことを思い出す。本人が積極的に広めていないのだから、それはそうだろう。リシェルとて彼の暗殺に失敗しなければ、知らされるはずもなかったことだ。
今更呪いがなんだというのか。リシェルを怖がらせて離婚に追い込みたいのかと身構える。それならばと、何も気にしていない風を装って品よく笑ってみせた。
「ディラン殿下の側にいると恐ろしい目に遭うそうですね。そう忠告くださった方もおいでですが……私はそのような迷信については考えないことにしているんです」
完璧な皇子妃の仮面。だがヴィクトリアは首を横に振った。
「そうではありません。世間では誤った見識が流布していますが、殿下の呪いは、本当はそのような内容ではないのです。そのことを、リシェル様はご存知かとお聞きしています」
皇子妃の仮面がぴしりと音を立てる。走った亀裂は、リシェルが隠したかった素顔の一部を曝け出しそうになった。
結婚式の翌日、ディランから知らされた呪いの本当の意味。それを、ヴィクトリアも知っている。ロクサーヌですら知らないことを彼女が知っている理由は考えるまでもない。
ディランが、教えたのだ。
ヴィクトリアには無理な話だと言ったあの唇が、リシェルの知らないところで彼女にそれを告げていた。その事実が、リシェルの仮面の亀裂をさらに深くしていく。
「えぇ、もちろん、知っています。私は彼の……妻ですから」
空虚なその言葉を噛み締めるように告げたのは、妻という名の矜持だったかもしれない。誰よりも仮初だと認識しているはずの自分がこんな風に演じるのは、呆れるほど滑稽だとしても。
だが今、この女性の前では虚勢でもなんでも張り続けたいと、そう思ってしまった。
皇子妃らしく微笑んでみせれば、ヴィクトリアは取り繕うことも忘れて盛大に顔を歪ませた。
「だったら、なぜ……。ディラン殿下はまた出征されます。あなただけが何も変わらず、こうして見送っておられるだなんて……そこに愛がないという何よりの証拠でしょう。殿下があまりにかわいそうです」
何よりも嫌いな言葉が、リシェルの頬を思い切り引っ叩く。
愛などあるはずがない。リシェルはまだ——ディランを殺せていないのだから。
ならばあなたなら殺せるのかと、彼女に切り返したかった。リシェルだけがディランの特別だったわけではなく、ヴィクトリアもまた彼と呪いの秘密を共有していたのなら、条件は同じなはずだ。
「……お話はそれだけでしょうか。それなら、私はこれで」
自分ができもしないくせにリシェルを責めて、その上でディランがあんまりだと嘆く。これ以上馬鹿にされる謂れはないと、リシェルは会話を一方的に切り上げた。
振り返りもせず歩み始めたものの、自分がどこに向かえばいいのかわからないでいた。ロートレイとの会話を終えたディランが誰かを探しているように見えたが、相手が自分だという確信が持てず、隠れるようにして人混みに紛れた。




