死と愛が交錯する幻想曲《ファンタジア》1
「ほら、リシェル、早く食べさせて」
「…………」
「どうしたの? スープが冷めてしまうじゃないか。病人に冷たい料理を食べさせるつもりかい?」
「あのっ! アゼルを呼んでくるから、代わってもら……」
「アゼルは今回の毒殺未遂事件の取り調べで朝から出かけているよ」
「ならケイにやってもらうわ。それか他の使用人にでも」
「ケイは君の専属メイドだろう。僕の世話をさせるわけにはいかない。それにこの離宮は慢性的な人手不足だ」
「だったら増やせばいいでしょう! それか、いい加減自分で食べなさいよね。目が覚めてからもう三日も経ってるじゃない。誰かに食べさせてもらう必要なんて……」
「仕方ないだろう、まだ腕が痺れていて、うまく動かせないんだ」
言いながらベッドの上で右手を持ち上げかけたディランだったが、少し動かしただけで力無く腕を落としてしまった。その様子を目の当たりにしたリシェルは、思わず唇を噛む。
そんなリシェルを見たディランは、実にさわやかな笑顔を浮かべた。
「ね? だから君に食べさせてほしいな、リシェル」
「————っ!」
スプーンを握りしめた彼女は、観念したようにスープをひと匙掬ってディランの口元へと運んだ。手つきがやや乱雑になってしまったことは許してほしいと思う。乱れた手つきにもかかわらず、器用に匙を受け取った夫は「もう一口」と甘えるようにリクエストした。以降は心を無にして機械的に食事を運び続けた。
リシェルの解毒が成功して意識が戻ったのは三日前のこと。それと同時にディランが倒れた経緯についてケイから知らされ、飛び起きた彼女は隣の部屋へと駆け込んだ。くらくらする頭を支えながらもなんとか見開いた己の目に映ったのは、生気のない顔で横たわる夫の姿だった。
咄嗟に縋って揺り動かそうとしたリシェルを、看病していたアゼルが止めた。
「殿下は先ほどおやすみになりました。どうかお静かに」
「容体はどうなの? 毒は!?」
「問題ありません」
「問題ないって……だってこんなふうに意識を失うほどの毒なんでしょう? それが問題ないっていうの?」
「いえ、毒の影響は特にありません。殿下はただ眠っておられるだけです」
「…………は?」
「最近眠りが浅いとお困りだったのですが、ケイが精製した解毒薬がいい具合に効いたようです。意識を失うように眠りに落ちて、一度目覚めたのですが、まだ寝足りないとおっしゃって、ベッドに戻られました」
「…………」
話を総合すると、毒にもなる解毒薬を口に含んだディランは、リシェルにそれを与えた直後、崩れ落ちるように倒れたらしい。すぐさま医師に診察させたが、生体反応はしっかりあり、ただ深い眠りに落ちているだけだったとのこと。
その後リシェルが意識を取り戻す前に一度目を覚ましたが、「まだ眠い」と言ってベッドに舞い戻り、今のこの状態なのだと言う。
「捕まえたネズミで実験したときはあっという間に死んじまったんだけどな。やっぱ人間だと反応が変わるんだな」
背後でぴゅうっと口笛を吹きつつ「ちゃんとデータに残しておかねえと」とメモを取るケイめがけて、つい暗器を投げつけてしまった。病み上がりだったせいか見事に躱され、憤懣やる方なしだ。
そして実に十時間も眠り続けたディランが、ようやく目覚めて開口一番に告げたのが「おなかがすいた」という言葉だった。すぐさま食事が用意されたわけだが、まだ身体が本調子ではないと言ってリシェルに介助を頼んだ。
毒の後遺症かと焦ったリシェルは、初日こそ我を忘れて甲斐甲斐しく世話をしたが、三日もあれば己の本分と羞恥心を取り戻すに十分だった。
今この部屋にはリシェルとディランだけだからまだいい。昨日まではアゼルやケイが見ている前で彼に食事を食べさせていたことを思うと、顔から火が出る思いだ。
(いったい私は何をやってるのよ。ただの演奏家と楽器のはずなのに。これじゃあ……本当の夫婦みたいじゃない)
病に倒れた夫を看病する妻という役割は、本来ならリシェルのものではない。ただ、自分のせいで彼はまだベッドの住人なのだと思うと、突き放すことも躊躇われる。
なぜならリシェルはまだディランに解毒の礼をしていなかった。三日の間に何度も伝えなければと思ったが、いざとなると口が縫い止められたかのように動かない。そしてディランもその話題に触れないから、二人はまるでままごとのように、病床の夫と献身的な妻を演じている。
「リシェル、どうしたんだい? ほら、次は苺が食べたいな。つやつやしてとても美味しそうだ」
今もまた完全に手が止まった自分に、ベッドの上でクッションにもたれた彼が声をかける。生気のない顔に一度はぞっとしたが、この人はもともと色白だ。触れる指はいつも冷たいから、体温も低いのだろう。
「あの……私、その」
毒で倒れた自分のために、毒かもしれない解毒薬をあおって助けてくれた人にお礼を伝えるのは、単なる礼儀だ。演奏家として育てられたこととは関係なく、人としての仁義は通したい。それなのに、面と向かって口にするのが難しいのはなぜなのか。言いかけては口籠るこの姿は不自然だし、自分でもすっきりしない。
ひとりで悶々と悩むリシェルの口元に、突如としてそれが差し出された。何を、と思う間もなく反射的に開いた口に入れられたのは、憶えのある味だった。
「これ……」
みずみずしく甘酸っぱい果汁が口の中に広がる。以前もこうして彼に苺を食べさせられたことを思い出した。街歩きのときだ。それだけではない、結婚式の翌日、初めてバルコニーで二人して朝食をとった朝も、こんなふうに苺を差し出されて、唇を冷たい指でなぞられた。
記憶の波に飲まれてぼうっとするリシェルに、静かな影が近づいてくる。はっと気づけば、彼の顔と唇がすぐ近くにあった。薄くすべらかな唇の感触を思い出した身体が、ぞくりと震える。
だが——それより早く、リシェルの本能が呼び覚まされた。
「何が“本調子じゃない”よ! 腕も身体も十分動くんじゃない!」
先ほど力を無くして落とした腕が、リシェルの口元に伸びていることがいい証拠だった。
「なんだ、バレたのか。……残念。妻の献身的な看病ほどクるものはないって、“夫の心得”の後書きに書いてあったけど、ほんとだったな」
少しも反省していないディランは、白い指先でひょいっと苺を摘むと、自ら口に放り込んだ。リシェルの唇に触れたその先まで綺麗に舐め取り、艶やかに微笑む。
「ごちそうさま、とてもおいしかったよ」
「————っ!!」
なぜだか色々負けた気がして、掴んだクッションを全力で投げつければ、器用に躱した夫が腹を抱えて笑った。
ケイといい彼といい、最近リシェルを馬鹿にしすぎだ。毒に倒れたことは確かに面目ないが、自分はマキシム神父に認められた黒鍵のエースだ。演奏の経歴や成績だってそれなりなものを残してきた。今回の演奏旅行こそ長引いてしまっているが、ディランが規格外のレアケースなだけであって、相手が彼でなければ百回は殺せている。
死なない夫を殺すために何が必要なのか、考えることが苦手なリシェルでも考えざるを得ない事態に陥っている。そして行き着くのは、初手で彼から知らされた「殺すためには愛さなくてはいけない」という呪いだ。
そんな馬鹿げた事情なんてと、あのとき呆れて憤ったものだが、今になってその事情をより噛み締めるようになった。
呪われた皇子は、今回も死ななかった。毒のエキスパートであるケイが「危険」と評して、それ以上の調査をいったん保留にした、解毒薬という名の新たな毒でも。
ディランの語る呪いが本当だとして、今回も彼を殺せなかった理由はただひとつ。
(だって、私は彼を——愛していないもの)
まるで言い聞かせるように心の中で反芻すれば、その事実の切先が自分に跳ね返ってくるようだった。そのくせどこかほっとするのだから、自分の胸中ですら当てにならない。
今回の毒殺未遂事件について、使用された毒や状況から見るに、ロクサーヌ皇妃が絡んでいる案件だと推察された。ディランが行きつけの店で起きたこともそれを裏打ちしている。
ロクサーヌでは彼を殺せない。そのことに安堵してしまうのはきっと気のせいだ。彼は自分の楽器。だからこそほかの者に奪われたくないという、演奏家ならではの嫉妬だと自分を納得させる。
死の淵から帰還してきたばかりで、もう現実に戻りつつある時間をどこか他人事のように感じていると、にわかに廊下が慌ただしくなった。何かあったのかと二人して顔をあげれば、忙しないノックの音が響いた。
入室を促せば、メイドのお仕着せ姿のケイが珍しく焦った表情で現れた。
「第一皇子殿下に申し上げます。皇宮から使者の方がおいでです」
「皇宮から? ロクサーヌ皇妃か?」
「……使者様は、皇王陛下の玉璽が押された勅命書をお持ちです」
すなわちそれは、エルネスト皇国の頂点に君臨する為政者によって、なんらかの命令が下されたということ。ただ、政治に興味のない皇王は玉璽をロクサーヌに預けているともっぱらの噂だから、実質はロクサーヌ皇妃からの命令ということになる。
「勅命だなんてまた、えらく物騒ね」
何気なく呟いたリシェルだったが、振り返った先の夫の表情がこわばっているのを見て、息を呑んだ。
「どうしたの、何か、悪い知らせってこと?」
「というわけでもないかな。すごくいい知らせでもないけれど」
問答のような曖昧な言い方をしたディランは、着替えをしたいからと衣装室に歩いていった。三日ぶりにベッドから出たにしてはしっかりとした足取りだが、肩周りがやや細くなっているようにも見える。
やはり動けないというのは嘘だったかと腹立たしく思う気持ちもあったが、それよりも急に顔色を変えたことの方が気になった。
「ねぇ、ケイ。勅命ってなんだと思う?」
ディランの部屋を出ながら彼に問えば、ケイもまた顔を顰めていた。
「……ケイ?」
「周囲の連中が慌ただしいといえば慌ただしいんだが、どこか慣れている様子なんだ。第一皇子に勅命が下されることは珍しくないからといえばそうなんだろうけど、なんというか、“またか”って表情をしてるっていうか」
彼にしては珍しく歯切れが悪い。さらに問い詰めようとしたが、不確かなことは決して口にしないケイの性格からすれば、聞いても教えてくれなさそうだ。
ディランもまた勅命の内容に思い当たる節がある素振りだった。周囲もそれに慣れているということは、よくある話で、さほど重要な案件ではないという意味だろうか。
首を傾げながらも一足先に離宮の玄関へと急いだ。第一皇子への面会申込ではあるが、皇子妃である自分が立ち会ってもおかしくはないはずだ。
吹き抜けの二階部分から見下ろせば、仰々しい衣装に身を包んだ使者の一行の姿が見えた。ディランが来るまで自分が相手をした方がいいのだろうかと悩んでいると、着替えを終えた夫が歩いてくるところだった。
随分早いお出ましだと感心したリシェルは、ディランの格好を見て驚く。
「え、なんで軍服を着てるの?」
そんな自分の疑問に答えることなく、階段を降りた彼はまっすぐ使者の元へ向かい、厳かに膝をついた。
「皇王陛下のご下命、謹んで拝聴いたします」
跪く彼を見下ろした使者は、勅命書を開き、見せつけるようにして掲げた。
「エルネスト皇国ゼノス皇王陛下より、ディラン・エルネスト・ヴァインアート将軍に命ずる。東方諸国を悩ます蛮族の駆逐のために、すみやかに軍を率いて出征すべし。エルネスト皇国のために、命を賭して皇命を全うせよ!」
皇王陛下からの勅命——皇国軍を預かるディランへの新たな出征命令が、離宮の玄関ホールに響き渡った。




