思いが転じた間奏曲《インテルメッツォ》
自身の身体にのしかかる熱と重みが消えてから五秒数えたあと、ナタリエは閉じていた目をゆっくりと開いた。窓から差し込む月の青さが、真っ暗だった彼女の視界と心を現実へと引き戻す。
すぐ隣では皇太子カイオスがおもむろに起き上がったところだった。裸体のまま、ベッドサイドに置かれた水差しに手を伸ばして水を注ぐ。
ぼんやりと眺めていたことに気づかれたのか、「君も飲むか?」と声をかけられた。さして乾きを覚えていたわけではないが、「いただきます」と答えてシーツをかき寄せる。
夜半の夫婦の寝室には情事の余韻が燻っていた。ぬるくなった水を一口含むと、するべきことはすべて終えたとばかりに、カイオスが隣でどさりと横になった。
結婚して一年半、彼は後宮とナタリエの元を規則正しく一日おきに訪れている。背後にはロクサーヌ皇妃の厳命があった。かの皇妃は息子を溺愛しているが、その血を継ぐ胎は誰でもいいとは考えていないようだ。
自身が手にいれることが叶わなかった「エルネスト」のミドルネームを、今度こそ正しく公爵家の血筋に受け継がせたいという思いは、もはや妄執の域に達していそうだった。あれだけたくさんの愛妾がひしめく後宮から懐妊の報が上がってこないのは、きっとそういうことなのだろう。
当のカイオスはというと、後継のことにはどこまでも無頓着だ。エルネスト皇家の血が色濃く出た彼に、我が子を欲する気持ちが湧いてこないのは仕方のないことだろう。
ナタリエの実家も皇家からさほど遠くないが、父や兄や叔母には現れなかった皇家の血がなぜ自分にだけ顕現したのかなんて、わかるはずもない。そしてそんな自分が愛を知らぬ皇太子の妻になった因果についても、思い悩むほどの興味は湧かなかった。
ナタリエはいつだって、彼らの言いつけを素直に聞くのみだ。彼らの中には当然カイオスも含まれる。彼が求めれば応えるし、そうでなければ何もない。
愛を知らない者同士がたまに肌を合わせて、終わっていく。今日過ごした夜も過去に繰り返されたものとなんら変わらず、いつも通りこのまま朝を待つだけだ。
そう思っていたのに。
「そういえば義兄上が毒に倒れたらしいよ。でもまだ生きているんだってさ。ちょっと残念だな」
すでに眠ったとばかり思っていたカイオスが、何かを思い出したかのようにぱっと目を見開いた。その知らせを自身も掴んでいたナタリエは、夫の物言いに驚いて動きを止めた。
「ディラン殿下に興味がおありだったのですか?」
欲望以外のあらゆる関心を持たぬはずの彼から、身内の安否に関わる感想が出たのが意外だった。半分だけ血のつながった兄が生きていようが死んでしまおうが、カイオスにとってはメインディッシュの付け合わせ程度の興味すらないのではなかったか。
だがカイオスの好奇心の先は義兄その人ではなかった。
「義兄上にはないけど、義兄嫁にはあるね」
その名を聞いて、ナタリエの冷えた指先がぴくりと反応する。
「後宮に入れれば華やぐと思わない? 以前攫おうとしたんだけど、失敗してしまったんだ。せっかく君にも協力してもらったのに」
「え……?」
「ほら、どっかの合唱団が来た日だよ。君は友人と話がしたいから、先にリシェルだけ帰すつもりだって言ってたじゃないか。だから彼女の寝室に母上の犬を差し向けたんだ。義兄上がいない隙を狙ったのに、予定より早く帰ってきてしまったみたいで、全員返り討ちにされたよ」
話を聞きながら、自然とシーツを掴む指に力がこもった。歌劇場でヴィクトリアと久々に再会することが嬉しくて、軽い気持ちで予定を打ち明けただけだったのに、そんなことになっていたとは。
ナタリエの心に、またひとつ重いものが沈んだ。水底のように静かな彼女の胸は、それを波ひとつ立てずに飲み込んでいく。
凪いでいくのは心なのか現実なのか——。ナタリエの内面など欠片も気にしない夫は、情事のあとにしては珍しく饒舌だった。
「だけど義兄上が死んでくれたら、彼女は未亡人だ。今更祖国や実家が助けてくれたりもしないだろうから、今度こそ手に入るかもしれない。もしそうなれば……どうやってかわいがろうかな」
横たわる彼の表情にあるのは下卑た色ではなかった。子どもが珍しいおもちゃを前にしたときのような素直な好奇心というのが適切だろうか。
少し毛色が違う猫を手懐けたいだけで、仮に手に入ったとしてもそのうち飽きるとわかっている。だが、それがリシェルだということが、ナタリエの気持ちを確実に逆撫でした。
(誰も彼もがお義姉様に夢中ね……)
ロクサーヌもヴィクトリアも彼女に少なからず執心しているし、ディランは彼女と思いの外うまくやっているようだ。そしてカイオスもまたこの調子ときている。
当のリシェルがどうかまでは知らないが、少なくともナタリエのことは見えておらず、王太子妃という調度品くらいにしか思っていないに違いない。
強く握った指先が血の気を失って白くなっていくのをじっと眺める。自分は苛立っているのだろうか。
(でも、何に?)
妻に関心がなく義務でしか抱かない夫に対してか、リシェルに強い疑念をぶつけてナタリエより彼女を優先したヴィクトリアに対してか、それとも——仕込んだ毒で死ななかった、彼女自身に対してか。
(ディラン殿下の密かな行きつけと聞いていたから、何かに使えるかと犬を忍ばせていたけれど)
ヴィクトリアがディランを好んでいるから、彼に手をかけるつもりはなかった。第一皇子やその周辺に関して役立つ情報のひとつでも拾えればロクサーヌのためになるかもしれないという、その程度の事情から網を張っていたに過ぎない。場末の酒場に貴族令嬢だった妻を連れていくなど想定していなかったが、もし現れたらそのときは——それくらいの曖昧な指示だった。
様々な偶然と幸運が重なってリシェルが毒に倒れたわけだが、状況としては悪くなかった。だが残念なことに彼女は回復し、代わりにディランが病床にあるという。情報を得ようにも離宮の中枢までは手が届かず、なぜそんな結末になったのかまでは掴めていない。
いずれにせよ二人とも命に別状はないらしい。やはりディランは手強い。長年に渡るロクサーヌの周到な刃を交わし続けているだけのことはあった。そして同じくらい、リシェルも手強い。皇妃に譲ってもらった毒は西大陸由来のもので、他国にはほとんど出回っておらず、解毒薬もないと聞いていた。
それなのに——今回も、死ななかった。
馬車の事故に続いて二度目——いや、それ以外にも何人か犬を送ったが、すべて隻眼の侍従に返り討ちにあっていた。元犬なだけに犬の特性をよほど把握しているようで、こちらもかなり手強い。
誰もが興味を惹かれるリシェルは、ナタリエには興味を持っていない。それが自分の心をざわつかせる。この苛立ちに名前をつけるとしたなら、それが「愛」ということにならないだろうか。こんなにも彼女のことを思っているのにと、カイオスの隣で横になりながら、無理矢理に目を閉じる。
「おやすみなさいませ、カイオス様。明日は後宮の日ですわね」
一日ごとにしか開かれぬ寝室で、明日はひとりで休むのだと、シーツをかき抱きながら息をつく。
誰も彼もが好き勝手に生きているなら、自分にもそれが許されるはずだった。だがナタリエに好き嫌いはあっても、心を揺さぶるほどの渇望はない。何を糧に生きているのかもよくわからない。
月明かりの下、今夜も眠れそうにない彼女は、瞼を閉じてどうにか眠ったふりをした。隣で響く夫の規則正しい寝息が子守唄になった試しは一度だってない。
まるで何事もなかったかのように時間が巻き戻ったベッドの上で、ナタリエの孤独な夜が、音もなく淡々と更けていった。




