生か死かを惑う間奏曲《インテルメッツォ》3
「——僕と、取引をしないか?」
「……取引? なんだよ、それ」
一切の警戒を緩めないまま反応するケイに対し、ディランは端的に要求を示した。
「リシェルを助けてほしい」
想像していなかった答えが返ってきたにも関わらず、ケイは少しも驚かなかった。自分も大概ほだされたのかと、つい舌打ちしそうになる。本当にこの男は、人の神経を逆撫でするのが上手くて腹立たしい。
「それで? リシェルの命だけじゃ取引にならないだろ。ふっかけすぎだ」
リシェルの命に見合う対価など、相当なものでないと受け取れない。そうでなければ彼女の命を諦めたりなどしなかった。見えないところで拳を握りしめながら、自分の方がまだ優位だと言い聞かせて相手の出方を待つ。
「もちろんだ。君がリシェルの命を助けてくれるならば——今後一切、君たちの正体を追求しないと約束しよう」
「……は?」
またしても想像の上をいく返答に、さすがのケイも今度は固まった。自分たちの正体を追求しないと、ディランは言った。それはつまり、黒鍵について調査をせず見逃すということだ。
ケイが命をかけて守らねばならないもの。リシェルの命よりも上だと位置付けたものを、一国の皇子でしかない彼が見逃すことが条件だと言う。
「はっ、馬鹿言え」
二度目の「ふっかけすぎだろ」という言葉は、なぜか喉に張り付いたまま出てこなかった。思いつく似た言葉や悪態はたくさんあった。ふざけんな、信用できない、口だけだろう、対価として安すぎる、こちらのメリットにならない、聞いてやるいわれはない——。けれど、どれも喉元に引っかかったまま、出てくる気配がない。
息が出来ない魚にでもなったかのように口を開け閉めしながら、馬鹿馬鹿しくて話にならないと切り捨てようとしたとき、ディランがさらなる言葉で詰め寄ってきた。
「君たちの行動は制限されない。好きなだけ僕の周囲でも皇国の内情でも調べればいい。外部と連絡を取り合うのも、助っ人を呼ぶのも自由。殺すのは言わずもがなだ。つまり——今までと何も変わらない」
思えばこの男は、リシェルが偽の花嫁だと知った後も、ケイが普通の十二歳でないことに気づいた後も、何かを制限してくることはなかった。アゼルとともにこそこそ嗅ぎ回っていることは掴んでいたが、権力から遠い身分の皇子が黒鍵や聖主国に行き着けるはずもない。用心こそしていたものの、泳がせていたのはこちらも同じだ。
表向きは馴れ合いながら、裏では腹の探り合いをしてきたこの三ヶ月。それをまた繰り返せばいいと、ディランは言っている。それこそ馬鹿な話だと思った。
いったいいつまで続けると言うのだ。自分たちとこの男が相容れる日など、永遠にこないのに。これではただの問題の先送りだ。
けれど。
「何よりこの条件を飲めば——リシェルが救える」
皇子との間にはまだ数歩の距離があるのに、その言葉で喉元に喰いつかれた気がした。唸りを上げる赤き瞳の獣の幻覚に、本能が逃げろと警鐘を鳴らす。だがケイの足は縫い付けられたかのように動かない。
立ち尽くすケイの脳裏に過ぎるのは、ダークブロンドの艶やかな髪色。熱に浮かされたあのときだって触れることはしなかったのに、まるで自分の手に足に絡みついてくるかのようだ。
死の淵に立つ彼女の背中を、ケイが確かに押したはずだった。あの日縋りついた手は、あの日だけの思い出として、とっくに手放したはずだったのに。
「ケイ。決断しろ。今夜ここを去るか、それとも——残るか」
白き悪魔の姿に、なぜかリシェルのそれが重なる。ケイでなく今度は彼女が手を伸べてくる番だった。
その手を掴むのはいったい誰の役目なのか。自分にその資格が、まだあるのか。
——迷ったのは一瞬のこと。決断を目線に込めて、ディランを睨み返した。
「……勘違いすんじゃねぇぞ。あんたがリシェルを救うんじゃない」
皇子がなぜこんな馬鹿げた取引を提案してきたのかはどうでもよかった。自分がリシェルを救える手段を隠し持っていることになぜ気づいたのかも、この際いい。
リシェルの命を左右するのがこの男であることが、どうしても許容できなかった。一度は呑まれそうになった赤い瞳につけた難癖は、どうにも子ども染みていて、ダサいことこの上ないとわかっていても、だ。
そんなケイの葛藤など気にするでもなく、ディランは迷いなく頷いた。
「当たり前だ。僕には彼女は——救えない」
そんな権利などないとばかりに自嘲する彼が肩の力を抜く。
ケイもまた楽器を前に、張り詰めた緊張を解いていた。リシェルのことを笑えない自分に、呆れを通り越しておかしささえ感じる。
ケイがマキシム神父から貰った司令は「どんなときでもリシェルとともに行動を共にすること」だ。だから、毒に倒れた彼女の傍に残ると選択することは、譜めくり係としても間違ってはいない、ぎりぎりのラインだ。
だから。
(もう少しだけ付き合ってやるよ、あんたにも……リシェルにも)
飲み込んだ本音ごと照らす月は、それ以上何も暴こうとはしなかった。
◆◆◆◆
ケイが取り出した小瓶をディランとアゼルが凝視する。意識のないリシェルのベッドサイドには夜半の月が長い影を作っていた。
「それが解毒薬か」
ディランの問いに、ケイは首を振った。
「そうとも言えるし、そうでないとも言えるな」
「どういうことだ?」
「これは解毒薬であると同時に、毒でもあるんだ。皇妃の毒が回っている身体には良薬のごとく作用するが、そうでない者にとっては毒となり、身体を蝕むことになる——いわば諸刃の剣ってやつかな」
今更でしかないメイドの変装を解いたケイは、軽く小瓶を振ってみせた。瓶の中で透明な液体がちゃぷんと揺蕩う様を、これでもかと見せつける。
ケイが解析し精製した解毒薬は、確かに皇妃の毒に効くものだ。リシェルのようにその毒に侵された者は、たちまち中和されるだろう。
だがこの解毒薬自体は、別の毒薬とも言えるものだった。アゼルが何かを考えるように口を開く。
「毒で毒を打ち消すということでしょうか。それならリシェル様に飲ませる分には何も問題がないということですよね」
「あぁ、その通り。だから問題は“どうやって飲ませるか”だ」
そう指摘すれば、アゼルははっと顔色を変えた。意識のないリシェルに何度か水や薬を飲ませようとしたが自力で嚥下できず、ディランが口移しで飲ませていた事実にようやく思い至ったようだった。
あれからさらに悪化したリシェルに薬を含ませても、口元から溢してしまうだけだろう。
彼女を救うためには、誰かが口移しで解毒薬を飲ませなければならない。ただしその“誰か”は、新たな毒を口に含むことになる。そしてそれを打ち消す解毒薬はない。
「その解毒薬は、どれくらい摂取すれば毒として作用するのですか。自身は飲み込まず、すべてリシェル様に移してしまえば……」
「さあな。そこまで実験はできていないからさっぱりだ。ただ皇妃の毒は、オレが知っている中でもトップレベルの猛毒だった。そこから抽出した材料を元に作った新たな毒だ。同じくらいか、それ以上の威力を持っていると言えるかもな」
皇妃の毒には一口の摂取で身体機能を失わせるほどの威力があった。それを打ち消す解毒薬が生優しい造りだというのは、あまりに希望的観測が過ぎるだろう。
自身が飲み込まなくとも、口腔内の粘膜を通して吸収される毒もある。
限られた時間と設備しかない状況で、ケイの実験は完全とはいかず、この地点止まりだった。
「というわけで、どうする? 皇子サマ。あんたがリーダーなんだから選べばいい。——誰を殺して、誰を救うか」
ニイっと笑ってみせた横で、慌てた様子のアゼルが口を挟んだ。
「急ぎ囚人を手配します。それでリシェル様に……」
「いや、必要ない」
止めたのはディランだった。ケイが指で挟むように掲げていた解毒薬をむしり取っていく。
「殿下、なりませんっ!」
「余所の男にキスさせるだと? 冗談じゃない。彼女は僕の妻だ」
「そういう問題ではないでしょう、ただの人命救助です。気になるというなら女性の囚人もいます」
「必要ない。どうせ僕は死なない。……残念なことにな」
そしてディランはアゼルの静止を振り切って瓶の蓋を開けた。なんの迷いもなく一気にあおったかと思うと、齧りつくようにして意識のないリシェルに口づける。
こくりと音を立てる、リシェルの青白い喉。月光の中で唇を重ねる男女の姿は、緊迫しているはずなのに、ぞっとするほど美しかった。与えているのか、奪われているのか、救われているのか、殺しているのか——。生と死の狭間で交わされる口付けに、煽ったケイの方が息を止めて見入ってしまった。
最後の一滴までリシェルに捧げ切ったディランが、流れる動作で彼女の頬を撫でる。赤い瞳がもどかしそうにその意識の先を辿っていく。
「リシェル、君は……死んではいけない」
静かながらも強く言い切ったディランの身体が、突如としてベッドの上に崩れ落ちた。
「殿下っ!」
「大丈、夫……、だ。リシェ、ルを……」
頼んだ、なのか、救ってほしい、なのか、それとも——愛してほしいのか。
呪われた皇子の最後の叫びは、誰にも届くことはなかった。




