生か死かを惑う間奏曲《インテルメッツォ》2
記憶の奥底に沈む、小さな思い出たち。あれはきっと、子どもの頃の自分だ。七つだったか、八つだったか──黒鍵の一員として、毎日のように厳しい訓練に耐えていた頃。
高熱と吐き気で朦朧とするケイの額を、やや乱雑に撫でる手。いつもは温かいはずのその手が、今はひんやりと心地よく感じられる。もっと触れていてほしいと思うのに、熱に浮かされた身体の自由は効かず、己の不甲斐なさを忌々しく思った。
「まったく、やりすぎなのよ、あんたは。同世代の中でも飛び抜けてチビなんだから、分量は加減しろって神父様に言われたでしょう」
咎める声は、けれどどこか優しくて。とろんとした瞳が捉えたダークブロンドの髪色を、本当はいつだって美しいと思っていたのに、面と向かって褒めることはできなくて。
六つ年上の彼女は、黒鍵の中でも一際輝いていた。高い身体能力、マキシム神父にすら楯突いていく根性、返り討ちにされてもなお立ち上がる負けず嫌い。彼女のことを煙たがる連中もいないわけではなかったが、慕う人間の方が圧倒的に多かった。そんな稀有な演奏家。
ケイもまた、彼女を慕っていたひとりだ。だが素直にその気持ちを伝えることはできず、ことあるごとに言い返したり逆らったりしては反発していた。生意気な態度で彼女を揶揄うたびに、相手が年下だということも忘れて本気で怒り出す彼女を面白おかしく扱うのが常の日々。
その日、毒の耐性訓練でミスをした自分の元に駆けつけてくれたのは、例の如く彼女だった。油断と、ほんの少し行き過ぎた好奇心とで、指定された以上の毒を摂取し倒れた自分を馬鹿にする仲間もいたのに、彼女だけは違っていた。
自分の側にいてくれる人がいる。揺れるダークブロンドの髪色に手を伸ばす力は残っていなくとも、綺麗だと思う感性はまだケイの中で生きていた。
焼けるような激痛に苛まれる中、この命がもう終わりだというなら、最後にそれを伝えてもいいかと、柄にもなく思ってしまった。
「……れい、だ」
「え、何? 苦しいの? そりゃそうよ。毒を飲んだんだから。いい? いくら耐性をつける訓練だからって、順序ってものがあるの。生意気なあんたもこれで懲りたでしょう。今後は無茶をしないことね」
だがケイの声は、いつものお説教に飲まれて消えていった。そのことを残念に思うとともに、やっぱりいつものリシェルだと笑ってしまう。
「ちょっと、何笑ってるのよ。あんた今、致死量の毒に冒されてるのよ? 呑気に笑ってる場合じゃないでしょう。ほんと、無茶しかしないんだから。……あれ?」
額に置かれた布を取り替える間に、確かめるように触れた彼女がぱっと声を明るくした。
「熱、ちょっと下がってる? さすがケイ、チビのくせに体力だけは人一倍ね。私がこの耐性訓練をしたときは、一週間は寝込んだものだけど」
冷たい水でしぼった布を取り替えながら、リシェルがケイの手を握りしめた。
「訓練だから解毒薬はもらえないけど、あんたは絶対に大丈夫よ。だから、今は休みなさい」
さらりと揺れるブロンドが、ケイの何かを絡め取っていく。欲しいのは安心じゃない、夢や希望でもない、賞賛ですらない。まして彼女自身でもない。
ただ——今この手を失えば、自分はきっと後悔する。
絶対的に欲するモノを持ってはいけない。それはいつか、自身の演奏を狂わせる。
だから、ケイが欲するのは今このときだけでいい。毒が抜け、熱が下がれば簡単に手放せるはずだから。
そう言い訳しながら、ひんやりした手に誘われるように、意識のさらに奥へと潜り込んでいった。
◆◆◆◆
はっと気がつけば、そこはベッドの脇だった。かさり、とシーツが擦れる音がする。
目を見開いたケイの視線の先で、リシェルが眠っていた。頬からは赤みが消え失せ、生気の感じられない青白さが闇夜にぼんやりと浮かんでいる。
看病をしながらうたた寝してしまったのだと気づいて、窓から差し込む月の光を目で追った。眠った時間はせいぜい十分程度だと見当をつける。
リシェルが倒れてから丸二日が過ぎた。彼女の意識はまだ戻らない。
毒の解析も思うように進まず、その場しのぎで似た症状向けの解毒薬が処方されたが、すべてリシェルが血とともに吐き出してしまった。下手に刺激しない方がいいという結論に達し、今は水分すら与えることを控えている状況だ。
昨日のうちに店から戻ってきたアゼルの報告によると、店主と店を手伝っていた息子は白だとのこと。だが、半年ほど前から下働きとして入っていた女が、事件後のどさくさに紛れて姿を消したそうだ。店主の妻の古い知り合いで、一人で子どもを育てているという事情を哀れに思って雇ってやったとのことだったが、妻に事情を聞いてみると、古い知り合いなどではなく近所の女将に紹介されただけとわかり、その女将を訪ねてみればまた別の紹介で、と、どれだけ辿っても、その女にも子どもにも行き着くことはなかった。
半年前ならすでにリシェルの輿入れが決まっていた頃だから、狙いは彼女だったと考えることもできた。だが生粋の伯爵令嬢と思われていた花嫁が場末の酒場を訪れる可能性など無いに等しいから、やはり第一皇子の方を狙ったのだろう。
半年間、獲物が来るのをじっと待っていた犯人の狡猾さは、そのまま黒幕の周到さや根深さにも通じる。件の女を、憲兵のほかに軍でも追っているとのことだが、果たして辿り着けるかどうか。皇妃の毒が使われたとあっては、軍はともかく憲兵には期待できそうにない。
犯人は皇妃かその一味であることを、ケイだけが気づいていた。だが彼はそれを己の胸にしまったまま、自室のキャビネットにある例のモノと一緒に今も隠し続けている。
月明かりが差し込む中、紙のように白いリシェルの顔色を窺う。子ども心に綺麗だと思ったブロンドは、毒に倒れて以降、栄養が行き届いていないせいかパサついていた。
黒鍵が総力を上げて作り上げたリシェルという演奏家の命が、まさに尽きようとしている。
このまま息を引き取れば、彼女はエルネスト皇国第一皇子妃として葬られることになるだろう。それは名も無き演奏家として闇に葬られるのが常な自分たちの死に様より、ずっと幸せなことかもしれない。
自分たちは所詮孤児あがりだ。死んでも誰も悲しまないし、誰かの記憶に残ることもない。だが今のリシェルなら、その美しさと呪われた皇子の花嫁という悲哀が語り継がれ、皇国民の記憶の中で長く生き続けることができるかもしれない。
それもまたひとつの幸せなのではないかと、物言わぬ彼女に問いかける。眠る相手から答えが返ってくることはない。
任務遂行不能となったリシェルに代わって、ケイには譜面通りに演奏を続ける義務があった。そこにはケイが直接手を下すという方法が含まれるが、撤退を決断するという選択肢もある。
三ヶ月も楽器の側にいれば、ディランが自分の手に負えない相手だと察するに十分だった。
自分が立ち去り、リシェルが死ねば、また時間をおいて別の演奏家が派遣されるだけの話だ。むしろリシェルの失敗を元に、次の者はもっとよくやれるかもしれない。マキシム神父はリシェルのことを黒鍵のエースだと持ち上げていたが、身体能力は高くても演奏家としての能力が卓越しているというほどではない。彼女よりも凄腕の演奏家は大勢いるし、一度の失敗程度で黒鍵が揺るぐはずもない。
リシェルか黒鍵かと問われれば——間違いなく黒鍵だ。
立ち上がったケイは、物心ついたときから知っている相手を無表情で見下ろした。彼女も理解してくれるはずだ。理解できなかったとしても——別に構わない。
自分はもう彼女の死を選んだ。過去のケイが「綺麗だ」と思ったブロンドの髪色も失われつつある今、これ以上ここに留まる必要もない。邪魔にしかならないお仕着せのスカート部分を切り離して、バルコニーへと続く扉を開ける。
月が明るいことが気がかりだが、抜け出せないことはないだろう。
思い返せば三ヶ月前の結婚式の日も綺麗な月夜だった。本来ならあの日にすべてが終わっていたはずなのだ。それが少しばかり長引いて、逃走するのが自分ひとりになってしまっただけのこと。
振り返らない、まして言葉をかけもしない。リシェルのことだってすぐに忘れる。かつて自分とともにあり、いつの間にか姿を消していた仲間のひとりとしてカウントされておしまいだ。
黒鍵に所属するメンバーは、嗜好や好みをなるべく持たないよう教育されている。ケイもまたその教えを遵守していた。
けれど。
「月の夜ってのは、この先も好きになれそうにねぇな」
そんな弱音を吐いた自分が馬鹿馬鹿しくて、小さく「ダッサ」と付け加える。
覚悟を決めて一歩踏み出そうとした、そのとき。
「どこへ行くんだい?」
ぞっとするほど平坦な声がすぐ横から響いた。反射的に飛び退きながら、髪のお団子から取り出した暗器を構える。
白い髪が、闇夜を煌々と照らしていた。いや、輝いて見えるのは月の光のせいだ。この男自身が光を発するはずはない。いくら呪われた皇子だからといって、そんな不可思議な現象を起こせはしない。
だが無に近い表情の中で爛々と光る赤い瞳には、すべてを押さえつけるような威圧感があった。どれだけ神経を研ぎ澄まそうとも、今この場から逃げ切ることは不可能——ディランの強烈な眼光がそう思わせた。
冷たい空気と光が満ちる中、凭れたバルコニーから身体を起こした彼が、ケイへと近づいてくる。一歩、また一歩と詰まるその距離に、ケイは指一本動かせない。
「なんで……」
問いたいことは山ほどあった。なぜバルコニーにいるのか。なぜ今このときまで自分を泳がせていたのか。なぜ一撃で仕留めないのか。
演奏家としてどれも真っ先に確認すべきことのはずなのに——乾いた唇から溢れた疑問は、そのどれでもなかった。
「なんで……リシェルなんだよ。あんたは、人を愛することができないんだろ? だったら……!」
呪われていようがなんであろうが一国の皇子だ。女などよりどりみどりだったろう。妻に迎える相手の毛色は選ばねばならなかったとしても、愛妾や恋人などいくらだって作れただろうに。
なぜこの男は、孤児出身の、黒鍵のリシェルを選んだのか。彼がリシェルのことを冷たく捨て置いてくれていたら——リシェルは変わらなかったのに。
愛すらくれない男のせいで死の淵に落とされた彼女が、あまりにも哀れだ。
その昔、朦朧とした意識の中で、繰り返し聞いたリシェルの声が蘇る。
『——ケイ、大丈夫よ。私が側にいるから』
毒に倒れた間抜けな仲間なんて放っておけばいいのに、リシェルは決まって頼まれもしない看病を買って出ていた。ケイだけでなくリシェルの手に癒されたメンバーは数えきれない。
そんな彼女が迷っているから——ケイはこの三ヶ月、根気強く付き合った。
けれど。
「もう、たくさんだ」
吐き捨てた言葉の先に佇む第一皇子は、まるで白く浮かぶ置物のようだった。血が通っているのかさえ定かでない相手に向かって、叫び倒したい衝動に駆られる。
この男のためにリシェルは倒れた。呪われるならひとりで呪われていればいいものをと、怒りなのか後悔なのか、名前のつけられぬ感情に喉が焼き尽くされそうだった。
「……あんたがリシェルを殺すんだ」
誓って自分ではないと胸の内で繰り返しながら、ケイは暗器を構え直した。この男を殺したいのかと問われれば、答えは是だ。それが黒鍵の命令だったし、今このときにおいて、命令以上にケイを突き動かすものがあった。
だが自分にはこの男を殺せないとわかっている。愛など初めから育てることを放棄してきたケイに、ディランやリシェルの悩みなどわかるはずもない。
吐き出した息が白く染まる中、赤い瞳だけをやたらと光らせて、ディランはまた一歩踏み込んできた。ケイの冷えた指先で、暗器がみしりと音を立てる。一矢報いることすら難しいとわかっていながら、ケイはもう逃げ出そうとはしなかった。
(こんな終わり方かよ。ほんと……ダッサ)
リシェルのことを笑えないと独りごちながら、果たしてあと何分生きられるかと算段をつけ始めた、そのとき。
ケイ、と彼から名前を呼ばれた。
足を止めたディランが軽く両手を広げる。まるでいつでも刺して構わないと言わんばかりの行為に、今度はケイの方が動きを止めた。
圧倒的不利な状況で、突然訪れた絶好の機会。それに驚くより早く、彼が信じられない言葉を吐いた。
「——僕と、取引をしないか?」
冴えた月の光を集めた白髪が、鮮やかに夜を彩っていた。赤い瞳に喰われる未来を思い描いたことも忘れて、ケイはしばしの間、白き悪魔に魅入られていた。




