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出会いの結婚行進曲《ウェディングマーチ》2

 夫となった男の麗しい美貌がリシェルの唇に近づきかけたとき、ふと彼が問うた。


「これは……何か(こう)でも焚いてる?」


 ぎくりとリシェルの背中が震えた。


「……よくお気づきになられましたね。 “祝福”と呼ばれる香ですわ。ほとんど無臭のはずなのですが」

「僕は割と鼻が効くんだ」


 にっこりと眼前で微笑まれ、リシェルもまた微笑み返した。


「我が祖国の古い習わしなのです。この香に包まれて初夜を送る花嫁は、未来永劫幸せになれると。実家の母が持たせてくれたものなのです。それに……」


 恥ずかしくて言葉を迷うという素振りを見せながら、リシェルは顔を赤らめた。


「祝福に包まれた赤ちゃんが宿りやすくなる、とも。なんの財も持たぬ敗戦国の私が殿下に差し上げられるものとしたら、これくらいしかありませんもの」


 自分は愛され望まれた花嫁ではない。軍功を上げ続け、はからずも軍属派閥からの人気を得ることになってしまった第一皇子の勢いを削ぐために、エルネスト皇国ロクサーヌ皇妃によってあてがわれた存在。


 婚姻という手段で有力貴族と縁を繋ぐことができなくなった第一皇子は、ますます皇位から遠のくことになるだろう。


 自分はいわば、第一皇子の枷。それを弁えているのだと、台詞に滲ませる。


 リシェルは夫の出方を待った。花嫁にここまで言わせたのだ、次の返事があるはずだ。「その通りだ、まったくもって煩わしい」と突き放すのか、「君がそんなことを気にする必要はない、すべては僕の責任だ」と花嫁を気遣うのか。


 ——いずれにせよ、香から意識は反らせられる。


 わざと身動ぎして、夜着の肩紐を落として見せた。襟元がずれて、リシェルの豊満なバストがあと少しで見えるかという、絶妙な位置。夜着に細工をしてくれた、中身はともかくとしてあれこれ優秀なメイドのことを思い出しながら、リシェルは守りの姿勢で攻めた。


 リシェルの考え尽くされた周到な攻撃。だがディランの反応は「ふぅん」という呟きだけだった。


「殿下?」

「いや、なんでもないよ」


 彼の手がリシェルの脇腹をさらう。胸まであとわずかという場所。リシェルが想定した答えは返ってこなかったが、どうやらヤることはヤるらしい。


(軍神殿下だろうが呪われた皇子だろうが、男であることには変わりはないってことね)


 彼の手がより不埒な動きを見せ始めたことに、やはり想定通りだと心の中でほくそ笑む。


 それでも、自分は初夜の花嫁だ。ぎりぎりまで演じきろうではないか。


「や……殿下。恥ずかしいので、明かりを……」


 点けようが消そうが本当は関係ない。初夜は——()()()()()のだから。


 初心な花嫁の言を無碍にするほど冷たくも腐ってもなかったらしい夫は、一度身体を起こしてランプを消してくれた。


 暗闇のヴェールが天蓋付きのベッドを包む。どれだけ暗くても、訓練されたリシェルの夜目は美貌の花婿の姿を捉えて離さない。彼の白い髪はすでに乾いて、形のいい額にさらりと影を作っていた。


紅玉の瞳がとろんと溶けそうなほど濃くなって、ゆっくりと瞬く。


「なん、だ……。どうしたんだろう、すごく、眠い」

「まぁ、それは大変ですわ、殿下。長い一日でしたもの、お疲れが溜まったのでしょう。どうぞお休みになって?」

「いや、しかし……花嫁を前にして」

「私のことはどうぞお構いなく。ちゃんとひとりで…………逃げられますので」


 リシェルの本音が伝わる前に、ディランの身体が力をなくしてぱたりと沈み込んだ。事に及ぶ最中だったこともあり、リシェルは見事に彼の下敷きになった。


「……重いわね」


 さすがは軍人殿下。鍛えているのは本当のようだ。どうにか彼の下から抜け出したリシェルはそのまま立ち上がり、ベッドにうつぶせになったまま深く寝入った夫を見下ろした。


「安心なさって、旦那様。この香は眠るように死ねる、とても優しい毒ですの。一夜とはいえ夫だった方ですもの。花嫁からのせめてもの()です」


 なんの感慨も持たずにそう呟いた足で、ベッドの下に仕込んであった服に着替える。軍服がディランの制服なら、リシェルの制服はこの真っ黒な動きやすい上下服だ。


 暗闇で目立つダークブロンドの髪を付属のフードの中に押し込めて、最後にもう一度振り返った。


「さようなら、旦那様。愛しておりましたわ」


 小さくキスを投げて、寝室のベランダへと続くガラス扉に手をかければ。


「初夜をすっぽかそうとするなんて、イケナイ花嫁()だね」


 たった今、ベッドに毒の力で沈めたはずの夫の声が響いて、ぎょっとした。


 振り返ろうとしたリシェルの顎を、力強い手が塞ぐ。ふわりと漂うのは無臭のリシェルにとっては慣れた毒ではなく、確かな熱。


 先ほどリシェルの脇腹や太腿を辿ったのと同じ熱い手触りに、身体がぞわりと反応した。


「自己紹介が中途半端だったようだね。僕に毒や薬の類いは確かに効くんだけど、効果は限定的なんだ。一般人なら一晩寝込むところを、数分で抜け切ったり、ね」

「———!!」


 眠るように死ねるあの毒で目覚めるなんてこと、あるはずがない。あの毒はリシェルが所属する組織の専売特許だ。一般には出回っておらず、解毒薬もない。リシェルたちは幼少の頃から少しずつ毒に慣れて耐性をつけているから大丈夫なだけに過ぎない。


 秘中の秘であるその毒が効かないと口にする男は、振り解けぬ力でリシェルの腰と顎を掴んでいた。長い足で彼女の太腿を押さえつけるところまで、完璧な拘束だ。


(嘘でしょう!? “黒鍵(こっけん)”のエースとまで言われたこの私が、失敗するなんて!)


 戸惑いながらもなんとか演奏≪あんさつ≫を完遂する方法がないか、頭は目まぐるしく回転する。


 だがそんな彼女の耳元に、ディランがつい、と唇を寄せた。


「君の祖国の風習を大事にしてあげたいと思ったから、怪しい香も受け入れることにしたんだ。妻の習慣を無闇に邪魔するのはよくないと、“夫の心得”の教本四十二ページにも書いてあるし」


 なんの話だとさらに混乱するリシェルの耳元に、「だから」と続きが降ってきた。


「譲歩した夫のために、君も歩み寄りを見せてほしいな。我が国の初夜の作法では、日の出を迎えるまで二人が同じベッドで休むことになっているんだ」


 そうして夫は彼女の形のいい耳をペロリと舐めた。押さえつけられた口元の奥でリシェルが悲鳴を飲み込んだ直後、彼女の首元に衝撃が走った。


「————っ!」


 急所に手刀を入れられたのだと理解する間もなく、花嫁リシェルの意識は遠くなった。





*****

結婚行進曲ウェディングマーチ

結婚式における花婿・花嫁の入場時に演奏される行進曲。




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