生か死かを惑う間奏曲《インテルメッツォ》1
毒に倒れたリシェルはすぐさま離宮に運ばれた。
犯人の捜索や毒の混入経路などを解明するために現場に残ったアゼルと別れて、ケイはディランとともに離宮に戻り、意識のない女主人の世話をすることになった。
ディランが信用を置いている軍属の医療班がただちに呼ばれ、診察に当たる側で、ケイは妃殿下を心配するメイドの表情をしながらも、彼らの一挙手一投足を見逃すまいと意識を研ぎ澄ませていた。
あらゆる事態を想定して準備することが得意な彼にとっても、今回の出来事は不測すぎた。自分はリシェルの譜めくり係であり、彼女の指示に従って動くよう黒鍵から命令されている。だが当の演奏家が任務遂行不能に陥った場合は、その指示系統から外れることが許される。
つまりは譜めくり係ながら、演奏家無しでも譜面通りに演奏を終えるための最も適した方法を自身で考え、実行しなければならない。
ただし、もうひとつ別の選択肢もあった。その手段に出るべきか——ここが今回の演奏旅行の分岐点だと、ケイは悟った。
適切な手段を講じるためには情報が必要だ。
ケイが見守る前で、一通りの診察を終えた皇国軍の医長がディランを振り返った。
「おそらくなんらかの毒物の影響かと思われますが……今まで見たことのない症状です」
「どういうことだ。意識が混濁したり高熱が出たりといった症状は、別に珍しくもないだろう」
ディランが言い返せば、医長は首を振った。
「殿下のおっしゃる通り、意識混濁、高熱、手足の振戦、吐血……どれも毒の作用として珍しくはありません。しかし、すべてが重複して発症し、かつ一口の摂取でこれほど重篤な状態に陥るものとなると、思い当たる物がないのです」
医長を含め、部下たちも一様に困惑顔だった。皇国軍の医療班ともなればトップレベルの知識を備えた医師たちの集まりだ。そんな彼らでも経験のない毒と言われ、部屋に漂う空気がさらに重くなった。
「まずは毒の解析から行うことになります。解毒薬の作成はそこからとなりますため、一週間はお時間をいただくことになるかと」
「三日でやってくれ。それ以上は待てない」
「……かしこまりました。医療班総力を上げて対応させていただきます。妃殿下にはそれまで水分の摂取をこまめに願います。毒を薄めることができるかもしれません」
「わかっている」
いつもは飄々としているディランが努めて平静を保っていることを、ケイも含めたこの場の全員が察していた。医長と部下たちは深く礼をし、足早に立ち去っていった。
ケイと皇子と二人が残された部屋で、ディランは早速枕元の水差しを手にした。グラスに注いだ水をリシェルの口元へ運ぶが、意識が曖昧な彼女はそれを飲み込むことができない。
唇からこぼれ落ちる様子に小さく舌打ちしたディランは、自らグラスの水を口に含んだ。そのままリシェルの唇を覆うように口づけて、ゆっくりと飲み込ませる。リシェルの小さな喉がこくりと嚥下する様子を、ケイは押し黙って見ていた。
「リシェル、いい子だ。もう少し飲んでくれ」
一口ずつ口移しで水を飲ませ、半分ほどあったグラスが空になったときだった。
激しい咳き込みとともにリシェルの口から何かが溢れた。飲んだと思った量かそれ以上のどす黒い血が、彼女の首元をたちまち濡らした。
「リシェルっ!」
吐き出した血で窒息しないよう、ディランがリシェルの顔を横に向け、布を押し当てる。みるみる血の色に染まる様子に、ケイもまた慌てて新たな布を差し出した。
「くそっ、飲ませてもその分、血で戻してしまう」
水分を摂らせることで毒物を吐き出してくれるならまだいい。ただし吐血となれば話は別だ。一定以上の血が失われれば命に関わる。
とはいえここまで容体が悪化した状態で、水分無しで持つのはせいぜい三日。ディランが三日でなんとかしろと命令したのは、こうした事情も考慮してのことだろう。
自身もまた唇を噛み締めながら、ケイは静かに切り出した。
「あの、殿下。リシェル様の着替えをさせたいのですが……よろしいでしょうか」
リシェルの格好は未だ街歩きの衣装のままだった。何度か血を吐いたことで変装用のワンピースは見るも無惨に変わっている。血に毒が含まれていることを考えてもこのままにはしておけない。
自分の性別はとっくに目の前の皇子にバレているが、背に腹は変えられないはずだ。もちろん自分とて、不埒な思いなど抱きはしない。
だがケイの提案にディランは首を横に振った。
「僕が着替えさせる。君はベッドを整えてくれ」
言いながら彼は弱りきったリシェルを軽々と抱えて歩き出した。行き先は内扉を通じた自身の部屋だ。リシェルが襲撃された日、彼によって蹴破られた扉はすでに修復されていた。
ケイが慌てて先回りし、鍵を開け扉を大きく押し開いた。初めて足を踏み入れる第一皇子の居室。リシェルを抱えたディランは淀みない足取りで自身のベッドに近づき、彼女をそっと横たえた。
「扉は開けたままでいい。こっちのベッドが汚れたらそちらにまた移すことにする。君も自由に出入りしてかまわない」
それはつまり、ディラン自らリシェルの看病をするということ。
驚きが顔に出そうになるのを咄嗟に堪えたケイは、「かしこまりました」と頭を下げ、ひとり主寝室へと舞い戻った。
◆◆◆◆
リシェルの毒殺未遂という想定外の出来事で騒がしい頭の中を整理するために、ケイは無心で汚れたベッドを整えた。その際、床に落ちていた血のついた布を回収することも忘れない。
新しい布で幾重にも覆ったそれをポケットに忍び込ませたところで、一度息を整える。抱えたシーツは毒が付着している可能性があるため、洗濯室には運べない。このまま処分するしかない。
リシェルの血を得た医療班はすでに毒の解析に入っていることだろう。汚れたシーツを処分場に運びながら、ケイもまた頭の中で分析を行なっていた。
リシェルが倒れたときの様子を思い出しながら、現在生じている症状を重ね合わせていく。
意識障害を起こすのは神経に作用する毒。手足の震えもまた然り。熱はその副作用。さらに吐血となれば内臓が冒されている証拠。造血作用のある臓器が毒物に反応し、体液とともに体外へ排出しようと働いているのだとすれば、すべての説明がつく。
何より、リシェルがまだ生きていた。摂取しただけでは致死とならないが、じわじわと内臓を腐らせて死へと追いやる毒に、ケイは覚えがあった。
処分場から取って返したその足で、一旦自室へと戻る。備え付けのキャビネットの引き出しの奥、二重に細工した板を、誰かが触った痕跡がないかを確かめた上で外していく。隠し板の奥から出てきたのは二つの小瓶。片方には粉末が、片方には液体が入っていた。
そのうち液体の蓋を開けたケイは、ポケットから取り出した布を広げて、その上に慎重に垂らした。
ケイが予測した通り、血に濡れた布の一部が徐々に薄くなっていく。
「間違いねぇ。これは……皇妃の毒だ」
かつて、ロクサーヌ皇妃に謁見したリシェルが、彼女から手渡された毒。ディランを殺すようにと託された毒の解析を頼まれたケイは、初めて見る毒物に興味が湧き、解析ついでに解毒薬まで製作していた。
十二歳ながら譜めくり係としてマキシム神父からの信頼も厚いケイのもうひとつの顔は、毒のエキスパートだ。演奏能力や経験値はまだまだ同僚たちに及ばないが、毒の知識だけは黒鍵でも一、二を争うという自負がある。
リシェルが陥った症状から毒の見当はついていた。ディランや医療班の連中にも覚えがないという事情から、皇国由来のものではないと確信した。
常に戦場にあった第一皇子の仕事は戦うことのみだ。戦に勝てば、後の敗戦処理は文官の仕事になる。皇王に代わって彼らを束ねるロクサーヌ皇妃は、誰よりも他国の事情に詳しい。自国には出回っていない毒物の一つや二つ隠し持っていてもおかしくはない。
遅効性のこの毒は、徐々に内臓を蝕みながら血を失わせ、死に至らせるタチの悪いものだ。内臓が焼けるような痛みと全身に血が行き渡らないことによる意識障害で長患いすることになる。リシェルが泣き叫んだりせず、意識を失うだけで済んでいるのは、あらゆる毒に慣らされている上に、痛みにも強いからだと思われた。
この解毒薬さえあれば、彼女を救うことができる。遅効性の毒と違ってこちらは即効性が期待できる優れものだ。毒を含んだ血が打ち消されたこともそれを証明していた。
今すぐこれを持っていき、リシェルの口に含ませればいい。
小瓶を握りしめたケイは——しかしそれをポケットに入れることはせず、粉末の小瓶とともにもう一度しまい込んだ。二重板をはめて表からは見えないようにしたあと、引き出しごとキャビネットに正しく収める。
自身もまた変装のままだったことを思い出した彼は、いつものメイド服に着替えて身なりを整えた。そのままキャビネットを振り返ることもせず、手ぶらのまま部屋を出た。




