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軍神殿下と暗殺令嬢は、愛することをまだ知らない(旧題:死にたがりな貴方を愛する方法)  作者: ayame@キス係コミカライズ


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狙われた初デートの小夜曲《セレナーデ》3

 大道芸人の紙芝居や的当てといった子ども向けの遊びまで楽しんでいるうちに、空が茜色に染まり始めた。通りを照らすランタンが石畳に影を作って、昼間とは違った雰囲気が街を包んでいく。露天商たちが店じまいを始め、代わりに酒場や飲食店が慌ただしく看板を掲げ出した。楽師の奏でる夜の調べがどこからともなく聞こえてきて、夕闇に溶けていく。


「殿下、日も暮れて来ましたが」


 少し離れたところからアゼルが控えめに声をかけた。ケイもこちらを見ている。


「ああ、そうだな」


 周囲を見渡して場所を確認したディランが、リシェルに問いかけた。


「リリィ、せっかくだから夕食も街で取っていかないか?」

「いいわね」


 リシェルも素直に頷く。串焼きに果物にホットチョコーレト、昼の間に食べた物はすっかり消化され、お腹も空き始めていた。


「それじゃあ、僕のお勧めの店に招待するよ」


 自信満々にそう言うと、ディランは大通りを外れ、細い路地へと入っていった。表の喧騒とは打って変わって静かな通りには、陽の光を遮るような古びた建物が並んでいる。


 こんな裏通りまで知っている皇子も珍しい。アゼルが落ち着いてついて来ているところを見るに、見た目ほどの危険はないのだろうと、リシェルも黙って後に続く。


 路地の奥、煉瓦造りの建物の前で、ディランが立ち止まった。木製の看板にはやや色褪せた文字が書かれている。建物自体は古びているが手入れは行き届いているようで、窓や真鍮製のドアの取手が鈍く光っていた。中からは男たちの豪快な笑い声と、ジョッキがぶつかり合う音が聞こえてくる。


「ここは...」

「軍の仲間とたまに来る店だよ。しばらくご無沙汰だったけど、まだつぶれていなくてよかった」


 ディランは懐かしそうに言った。


「安酒しか置いていないけど、おつまみが絶品なんだ。離宮の料理とはまた違うおいしさがあるよ」


 言いながら重厚な木の扉を押せば、ギィ、という古い蝶番の音とともに店内の熱気と喧騒が一気に押し寄せてきた。低い天井、壁に飾られた武具、燃え盛る暖炉の火が爆ぜる音に、煙草と料理と汗の混ざり合った匂い。お世辞にも上品とは言えない場所だが、それが妙に心地よく感じられた。


 店内に並んだテーブルの八割ほどがすでに埋まっていた。仕事帰りの男たちがジョッキを片手に大声で談笑している。店の隅ではカードゲームに興じている群れもあり、銀貨が飛び交っていた。


 自分たちが入ると何人かが顔を上げてぽかんとした。ディランを見知っているのか、それとも見惚れているのか。だがすぐに視線を逸らして仲間の輪へと戻っていく。思った以上に健全な店のようだ。


 ディランは奥の比較的静かな席へとリシェルを案内した。木のテーブルは使い込まれて飴色に光り、椅子は多少磨り減っているが座り心地に問題はない。


「君たちも座るといいよ」


 ディランに言われてアゼルとケイが椅子を引けば、顎鬚を生やした店主と思しき男が近づいてきた。


「注文は」


 明らかにお忍びとわかる一行を見ても顔色ひとつ変えない無骨な接客が、返って安心感を生んだ。


「そうだな、まずはエールを二つ。こっちの二人は飲めないから炭酸水を。食べ物はおつまみの盛り合わせと、何かお勧めはあるかい?」

「今日はいい鹿肉が入ってる。シチューだな。あとはミル貝」

「いいね。両方いただくよ」


 無言で頷いた店主が店の奥へと戻れば、すぐに料理と酒が運ばれてきた。ジョッキからは麦の芳醇な香りが立ち上り、冷たく弾けた泡が伝い落ちている。おつまみの皿に並ぶのは素朴な一品料理。香草とニンニクで香り付けされた燻製肉、カリカリに揚げたジャガイモ、濃厚なチーズの塊、酢漬けのピクルス、そして店の名物だという、秘伝のスパイスで味付けされた焼き鳥。離宮で口にする優雅な前菜とは大違いだが、その香りだけで唾液が湧いてくる。


「まずは乾杯だな」


 ディランがジョッキを掲げたので、リシェルもそれに続いた。久々のエールに口を付ければ、ほどよい苦味と麦の甘みが喉に心地よく、アルコールが全身へと染み渡っていく。


 思わず「おいしい」と呟けば、ディランが「だろう?」と嬉しげに頷いた。


 世間一般の伯爵令嬢はエールなど口にしない。リシェルもそれをわかっていたが、ここまで来れば取り繕う方が馬鹿らしい。


「なんだか私たちだけ申し訳ないわね」


 炭酸水を舐めるように飲むアゼルを見てそう呟けば、「いえ、私が飲めないのは本当のことなんです」と返事が返ってきたので驚いた。


「そうだったの。元軍人と聞いていたけど、それじゃあずいぶん苦労したんじゃない?」


 軍での娯楽といえば酒と女だ。娯楽とまではいかなくとも「俺の酒が飲めないのか」と詰め寄ってくる上官は大勢いたことだろう。


「私の上官はディー様でしたから、そのような無茶からは逃れることができました。むしろ私の代わりに盃を受け取って片付けてくださったほどです」

「なるほど」


 向いで静かに飲んでいたディランのジョッキはすでに三分の一程度に減っていた。離宮でもワイン一本程度ではけろりとしているから、かなり強い方だ。リシェルも決して弱いわけではないが、強いとまでは言えない。ディランにつきあっていたら潰れてしまうため、毎回自分のペースを保つようにしている。


 今日もほどほどにした方がいいだろうと、おつまみに手を伸ばした。隣ではなぜかケイがアゼルに料理を取り分けてもらっている。この二人の関係性もなんだかよくわからない方向に発展していた。彼の本性もとっくにバレているはずなのに、アゼルはなぜか年相応の女の子としてケイのことを扱っている節がある。先ほども串焼きを購入してまずディランに渡した後は、ごく自然にケイの好みを聞いていた。


 それを平然と(見た目は恐縮するようにしながら受け取るときにはにかむという高等技を繰り出して)受け入れているケイについては、もはや何も言う気にはなれない。さすがはマキシム神父が認めた譜めくり係(アシスタント)だ。


 暖炉の炎がパチパチと音を立て、時折火の粉が舞い上がる。厨房でフライパンが焦げ付く音、がちゃがちゃと皿を洗う音、笑い声に話し声。全てが混ざり合う混沌とした場所なのに、なぜか落ちつく。


 リシェルもまた次々とおつまみを平らげていった。燻製の肉は噛み締めると深い旨味が口腔に広がり、濃厚でクリーミーなチーズはエールによく合った。揚げたジャガイモは外はカリッと、中はホクホクでちょうどいい塩梅だ。焼き鳥は複数のスパイスが効いていて、昼間食べた串焼きとはまた違った味わいだった。


「本当に、絶品ね!」

「だろう? 僕もここの味が好きなんだ。頻繁には来られないのが残念だよ」

「あなたも大変ね」


 皇子という立場に加えて常に命を狙われる身だ。呪いのおかげで死は免れるとはいえ、切られれば痛いし毒を含めば苦しむ。行きつけの店など作ろうものなら、耳聡いロクサーヌ皇妃の格好の的になってしまうだろう。


 何気ない会話を交えながら食事を続ける。エールが喉を潤し、おつまみが空腹を満たしていく。周囲では誰かが歌い始め、他の者たちがそれに乗り、賭け金の小銭が舞う。店主が新しい酒を運び、客たちが歓声を上げる。


「ほらよ、シチューとミル貝だ」


 無愛想な店主がどん、とテーブルに大皿と器を置いた。手つきとは裏腹に、皿の上にはつやつやと光る貝が優雅に並んでいた。漂うにんにくとバターの香りが食欲をそそる。


 エルネスト皇国には海もあるが、皇都からはやや離れている。足の速い貝類を仕入れるのは大変で、凍らせて運べる冬しかありつけない。リシェルの故郷とされているラビリアン王国は海に囲まれているため、魚介類は食べ慣れている設定だが、その実内陸である聖主国育ちの彼女には、滅多に食べられない魚介類が物珍しかった。


 鹿肉のシチューから立ち上る濃厚な香りも魅力的だが、まずは貝だ。


「ねぇ、ミル貝を先にもらってもいい? えーっと、ほら、いろいろ懐かしくて」


 すでにエールを慣れた調子で飲み干す姿を晒しておきながら今更だが、わざわざ設定を引っ張り出したリシェルを見て、ディランはおかしそうに唇を歪めた。


「なるほど。別に構わないけど、無理はほどほどにね」

「ありがとう」


 気遣いの仮面を被せた嫌味には無頓着で返す。隣でケイが小さく嘆息した気もするが無視だ。


 取り分けてもらったミル貝をまじまじと眺める。あんなにグロテスクな見た目なのに、口に入れるとなんとも言えぬ深い味わいに変わるのが、何度食しても不思議だった。とはいえ見た目と内面が激しく一致しない人間がここに四人も集っているのだからと、変な方向に解釈する。


 微かに残った磯の香りも合わせて堪能しながら、最初の一口を含む。ぷりっとした感触の後に、貝の旨みがじゅわっと口の中に広がった。期待を裏切らないおいしさだ。バターの濃厚さとにんにくの香りがさらに次の一口を誘う。


 だが次の瞬間。感じたのは——微かな違和感。


 わずかに舌が捉えた感覚に、身体が反応するより早く、訓練で研ぎ澄まされた本能が働いた。


 払いのけた小皿が宙を舞う。気づけば心臓は激しく打ち、ぜいぜいと息が上がっていた。口の中に残っていた何かが激しく喉を焼き、身体の奥から熱い物が込み上げてくる。


「リシェル!?」


 異変に気づいたディランが彼女へと手を伸ばした。瞳が合った瞬間、リシェルは最後の力を振り絞って、ミル貝の大皿ごと床に払い落とした。


 がしゃん、と派手な音が響く中、必死で息を吸い込む。口元を押さえようとしたが手が震えて上手く動かない。最後の力は大皿を払うことに使ってしまった。


 視界が揺れる。店内の音が、まるで水の中にいるように遠くなっていく。


「リシェ——っ」


 彼の声が遠ざかる。意識が急速に暗闇に呑み込まれていく。膝をついたリシェルが最後に見たのは、床に叩き落としたミル貝の料理。それを確認して小さく安堵する。


(良かった、これで彼は……)


 倒れるのは自分だけでいい。毒を飲んだのが自分だったら——それでいい。


 揺らめく暖炉の炎がかつてないほど熱く感じられた。彼女の意識は真っ黒に染まり、やがてぷつりと潰えた。



******

小夜曲(セレナーデ)

夜に窓辺で歌ったり演奏されたりする、恋人への愛をこめた曲。

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