狙われた初デートの小夜曲《セレナーデ》1
冬の終わりの城下町は大勢の人で賑わっていた。
石畳の通りにはたくさん屋台が立ち並び、商人たちの威勢のいい声が響いている。焼き栗の香ばしい匂いが漂い、花屋の店頭では冬咲きの花が揺れていた。隙間を縫うように走る子どもたちに驚いた鳥が、空へと力強く羽ばたいていく。見るもの、聞く音、感じる風、すべてが新鮮で、五感がたっぷりと満たされていくようだった。
「さすがはエルネスト皇国の皇都ね。賑わいがすごいわ」
「気に入ってくれて嬉しいよ」
愉快そうに答えたのは隣を行くディランだ。平民の装いに身を包み、染粉で髪色を変えながらも溢れる存在感は隠せていないが、今日の街歩きのために身なりに気をつけた様子が窺えた。自分たちの数歩後ろを、ケイとアゼルが控えめな距離を保ちながらついて来ている。
二月最後の週末、リシェルとディランは皇都散策に来ていた。二人して平民を装い、最低限の従者だけを連れて出歩くことになった原因は、例の如く夫愛読のあの教本にあった。
「リシェル、どうか言い訳をさせてほしい」
ロートレイ家でのパーティの翌日、朝からリシェルの部屋を訪れたディランは開口一番にそう謝罪した。てっきり昨晩の不可解なやりとりについてかと思って身構えたが、残念ながらそんな高尚な事情ではなかった。
「僕は第一皇子で、君は皇子妃だ。だからときに自分たちの望みよりも優先しなければならない事情がたくさんある。僕は突然の結婚で軍務の調整に忙しかったし、君も公務や社交の予定が目白押しだった。だからこれは仕方のないことだったとわかってほしいんだ」
「殿下、いったい何を言ってるの?」
意味不明な言い訳を羅列する夫に訝しげな視線を向ければ、珍しく焦った表情の彼が一冊の本を取り出した。この三ヶ月で嫌というほど見せられた例の教本だ。
「これは実に優れた教本だと思っていたんだが、内容が一般人に寄りすぎている。皇子である僕には不可能なことも書かれていて、参考にしにくい点も多いと気づいてしまったんだ。まったく、タイトル詐欺もいいところだよ。 “庶民や一般貴族の夫の心得”に改題すべきだ。もしくは“夫の心得〜ただし皇子は除く“という但し書きをつけてほしかった」
「……続きはもう結構なのでお引き取りいただけます?」
真面目に取り合わなくていい類の話だと判断したリシェルは、入ってきた夫を押し出そうとその身体を押した。
「待ってくれリシェル。どうか話を聞いてほしい」
「嫌よ。その教本が絡むとろくなことにならないんだから! 聞きたくありません!」
「あぁ、やっぱり君も腹立たしいと思っていたんだね。大丈夫、同じ過ちに陥る者がこれ以上出ないよう、著者には抗議の手紙を送っておいたよ」
「まさか本名で抗議してないでしょうね!? 権力の使いっぷりがむしろ過ちだわ!」
過去に何度もリシェルを苛立たせた本だが、ハウツー本を出版しただけなのに皇国の皇子から抗議の手紙を受け取る羽目になった著者のことを思うと、もはや同情心しか湧いてこない。なお、こういうときアゼルはまったく防波堤にならないことは学習済みだ。
できることならスルーしたい案件だが、残念ながら教本を握りしめているのは楽器となる相手だった。安易に距離を取るわけにもいかない。
観念したリシェルはこめかみをぐりぐりと揉みほぐした。
「それで。朝からいったい何をそんなに慌てているのよ」
「そうだった。ほら、ここを見てほしい。“夫の心得”九十六ページ目。新婚の場合は休みのたびに妻をデートに誘うべきだと書いてある。だけど僕は一度も君とデートをしたことがない」
該当箇所を指で弾いたディランは、それはそれはさわやかな笑顔でリシェルに迫った。
「皇子と皇子妃だから事情が異なるのだと、これ以上言い訳を重ねて夫婦の危機に発展させたくはないんだ。だからリシェル、僕とデートをしよう」
ぱたん、と教本を閉じたディランに腕をとられ、あれよあれよという間に外出準備をさせられるのだった。
◆◆◆◆
完全に明後日の方向に振り切った夫による突然の思いつきではあったが、今回はリシェルも素直に従うことにした。単に王都散策に興味があったのだ。
メイドに扮しているケイは何度か離宮を抜け出して探索したことがあるそうで、目を瞑っても歩けると豪語していたが、皇子妃を演じているリシェルにそんな機会はない。
演奏を忘れたわけではないが、たまの息抜きくらい許されると思いたかった。それに自らの足で歩いたエルネスト皇都の情報は黒鍵にとっても有意義なものとなる。聖主国が白鍵合唱団を各地に派遣しているのも情報収集を兼ねてのことであり、裏組織・黒鍵もまたその役割から外れてはいない。
行きたいところはあるかと聞かれて「貴族街ではなく庶民街を散策したい」と伝えたことで多少の変装が必要になった。呪われた皇子の風貌として有名すぎるディランは髪色を変えたが、リシェルは髪を編み込んで簡素な服に着替えたのみだ。演奏家として訓練された自分なら町娘に化けることも十分可能だったが、ディランがどう見てもお忍びの貴族青年といった域を抜けないため、自分もそれに合わせて「庶民に変装しつつもなりきれていない貴族令嬢」でいくことにした。
屋台が立ち並ぶ通りを物珍しく歩きながらも、最低限の警戒は怠らない。ディランは刺客誘発灯だし、自分を襲った犯人も不明のままだ。ただ今日は自分とディラン、それにケイとアゼルの四人での行動だ。一個師団程度の攻撃力を持つ精鋭に襲いかかる強者がいるとしたら、むしろ犯人の方が哀れだろう。
そう考えると少しだけ肩の力が抜け、周囲を楽しむ余裕が出てきた。正午前の路地は香ばしいソースや香辛料の匂いに溢れ、食欲を大いに刺激してくる。
「ディー。せっかくだから何か食べましょうよ」
「いいね。リリィ。皇都名物の串焼きなんかどうだい?」
あらかじめ決めていた偽名で呼び合いながら、ディランの勧め通り串焼きの店を物色した。数年前の軍事遠征で南方の国を制圧してから、あちら原産の香辛料が安く流通するようになったそうだ。それらを使った料理が瞬く間に広がり、皇都の新たな名物が生まれたのだと説明され、なるほどと頷いた。
戦争は一般的には悪とされるが、文化や技術が伝播する効率的な方法でもある。ディランの活躍が国を栄えさせていることは確実で、ロクサーヌ皇妃が彼のことを憎々しく思いながらも手を下しきれない理由は、呪いだけでなくこんなところにもあるのかもしれない。
そんなことを考えながら、アゼルが購入してくれた串焼きに口をつける。「庶民に変装しつつもなりきれていない貴族令嬢」だから、大口を開けたりはしない。一口齧った肉からは肉汁が溢れ、つんと鼻をつく香辛料が後を引く美味しさだ。
「おいしいわ! 今まで食べたことがない味ね」
聖主国にも香辛料は出回っていたが、一般市民に行き渡るほどではなかった。初めて味わう味に、エールかワインがあれば最高なのだがと思いながら夢中で齧り付いていると、同じように串焼きを分けてもらっていたケイの手元に目がいった。
「あら、ケイが食べているのはまた別のもの?」
「こちらですか? 岩塩で味付けしたものですね。珍しさには欠けますが、おいしいです」
「へぇ……」
たっぷりの香辛料で焼き上げられ、黒く焦げ付いているリシェルの串と違って、ケイのものは素材をそのまま生かしたシンプルな焼き加減が新鮮だった。興味深く眺めていると、不意にディランがリシェルの頬に触れて自分の方に引き戻した。
「他の男が口づけた物を欲しがるなんて、なんて浮気性な妻なんだ。僕は悲しいよ」
「な……っ、違うから! それにケイは女の子よ!」
「あぁ、そうだったね。変装に変装を重ねているおかしな状況ではあるけれど」
今日のケイはいつものお仕着せではなく、商家にでも仕える少女の風情だ。
本性がとっくにバレていることはさておき、前回の間男発言といい、馬鹿らしい誤解はしっかり払拭しておかねばならない。
「あのね、何度も言ってるけど……」
「ほら、リリィ、こっちも食べてごらん」
目の前にずいっと別の串が差し出され、思わずかぶりつけば、甘辛いソースの味が口の中いっぱいに広がった。
「これもおいしいわ。こっちの方が好みかも」
「それはよかった。どれ、僕も味見してみよう」
そしてディランはリシェルの小さな歯型がついた肉にかぶりついた。
「うん。この味はいつ食べても変わらないな。エルネスト皇国の味だ。おや、リリィ、どうしたの?」
「な、なんでもないわ……」
まさか自分が口づけたものを躊躇なく食べられたことが恥ずかしかったなどとは口が裂けても言えず、押し黙るよりほかないリシェルを、ディランは甘い表情で見下ろした。
「甘いもののあとは塩辛いものが食べたくなるんだけど、リリィの串を分けてくれる?」
「え……えぇ!? 無理、絶対無理。自分の分で我慢してよ。それか、ケイに分けてもらって……」
「おや、夫にほかの女性との間接キスを勧めるだなんて、僕を試そうとしてるの? 大丈夫だよ、僕は君一筋だ」
ディランが顔を寄せてくるのに驚いて、思わず目を固く閉じた。薄い唇の感触と冷たい温度を憶えている身体がぞくりと震える。
だがリシェルに触れたのは彼の唇ではなく——美しい形をした指だった。
「な、なに……」
「ソースがついているよ」
唇の端を掠めた彼の指は、確かに茶色いソースを拭っていた。瞳を見開くリシェルの前で、彼はその指をぺろりと舐めとった。
「うん、甘い。ごちそうさま」
舐めた指で再びリシェルの唇に触れる。その間、彼の視線はずっとリシェルの瞳に留まったままだ。何一つ見落とさぬと言わんばかりの距離感に、己の頬がかっと熱くなった。
「リリィ、喉がかわかない? 甘い唇のお礼に飲み物もご馳走するよ」
「……っ、いらない!」
振り切るように歩き出せば、背後で愉快そうな笑い声が響き渡った。




