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軍神殿下と暗殺令嬢は、愛することをまだ知らない(旧題:死にたがりな貴方を愛する方法)  作者: ayame@キス係コミカライズ


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愛に揺れる子守唄《ララバイ》

 二月の早朝の空気は、肌を刺すような冷たさだった。


 まだ誰も目覚めぬ時間、ディランはひとり寂れた裏庭を歩いていた。ろくな手入れもされぬ石畳は霜で濡れ、足音までが吸い込まれるように消えていく。


 静かな歩みの先にあるのは、枯れ草と濡れた落ち葉に囲まれた小さな茂み。毎年季節が巡ると律儀に咲く白い水仙の花が、朝露を宿して埋もれるように佇んでいた。


 自分以外の影もない場所で、寂れきったその花をじっと見下ろす。


 最近特に悪くなった寝つきのせいで、今日もどこかぼんやりとした頭を振れば、昨夜の出来事がまじまじと蘇ってきた。


 心の奥底を覗き込もうとする、リシェルの青い瞳。呪いはひとつではないのかと、核心を突く問いかけに対して、つい溢れてしまった本音。


——君に愛してほしいけど、同時に愛してほしくもないんだ。


 自分の言葉は、矛盾した戯言にしか聞こえなかっただろう。実際、リシェルは眉をひそめ怪訝そうな表情を浮かべていた。それ以上踏み込まれたくなくて、つい顔を背けてしまった。


 表面的には落ち着いて振る舞ったつもりでも、内心は焦りが生じていた。リシェルが馬車の事故に巻き込まれたり襲撃を受けたりしたときも、驚きはしたがここまでではなかった。


 冷たい風に晒されて震える白い花を見下ろしながら、この三ヶ月のことを思い返す。


 初夜の席で自分を殺そうとしたリシェル。面白さと、ほんのわずかな期待を込めて自分の傍に留め置きはしたが、呪いを信じきれていない彼女はいつだって殺すことに全力を注ぐのみで、肝心の愛には目を向けてくれそうになかった。


 やはり彼女にも無理かと諦めかけたタイミングでの、リシェルの変化。


 彼女に影響を与えたのはおそらくヴィクトリアだ。かつて自分の傍にあり、同じように呪いの本質に近づいたヴィクトリアは、今は車椅子の人となっている。


 ただ、リシェルとヴィクトリアには決定的な違いがあった。ディランはそもそも初めからヴィクトリアに期待をしておらず、だから何かを打ち明けるつもりもなかった。「ヴィクトリア嬢には無理な話だった」とリシェルには何度か説明したが、伝わっていそうにないのがなんとももどかしい。


 リシェルを傍に置いた理由は単純だ。彼女なら戸惑うことなく自分を殺してくれるだろうと期待してのこと。愛に目覚めたとしても、組織に飼われた彼女は命令に忠実であろうとするはずだ。


 リシェルが愛してくれれば、この忌まわしい命は終わる——そのはずだったのに。


 彼女が自分に対して嫉妬や憤りの片鱗を見せたとき。


 ほんの一瞬、青い瞳に安堵の色を浮かべたのが見えたとき。


 長年凍りついていたはずのディランの心臓がとくりと熱い鼓動を刻んだ。


 あの激情。あの戸惑い。あれはまだ愛ではない。だが、その一歩手前にある強烈で人間的な繋がりかもしれないと思うと、背中がぞわりと粟立った。


 自分は喜ぶべきだ。彼女が愛を知れば、死に近づける。


 だが真っ先に心を過ったのは、別の焦燥だった。


(リシェルの愛は、彼女自身を——殺す)


 その考えに囚われた刹那、ディランは反射的に思考を切り裂いた。全身の血が一気に引くようなこの感覚は間違いなく——恐れだ。


 愛されてはならない。愛されてしまえば、彼女もまたヴィクトリアのような末路をたどる。リシェルの魂を、その鋭い命を、この呪いが喰い尽くしてしまう。


——愛してほしい。僕を殺してほしい。


 以前のディランは純粋にそう願っていた。愛という毒をもって、誰かが忌まわしい生を終わらせてくれることを心の底から望んでいた。


 だが今は。


「愛しては……いけない。僕は愛されるべきじゃないんだ」


 口に出したその言葉こそが呪いの本質だ。変化は、何もリシェルだけに訪れたものではなかった。彼女に惹かれ、彼女の傍にいる時間を心地よく思い始めた自分がその切先に立っていた。


 この変化をどうすればいいのか。愛の甘美な毒を求める一方で、その毒が奪っていくものを誰よりも知っているだけに、死神の仮面を被った女神の掌で踊り続けるわけにはいかない。


 崩れ落ちるように水仙のそばに膝をつけば、冷たい土と花の匂いが鼻腔をくすぐった。ひんやりと責めるかのような空気が己を現実へと引き戻す。


 白い花は何も語らず、ただ静かにそこに咲いていた。まるで命を散らした母の無言の墓標のように。


 今ならまだ引き返せる。リシェルは愛というくびきに対して強い葛藤と恐れを抱いている節がある。それが何に由来しているのか定かではないが、愛されることを恐れる自分とある意味同類だ。


 だから、呪いには近づけても、愛までは遠い。そのことが彼女自身を守ることになると知っているから、安堵できる。


 唇から吐き出されたため息が、白く空気に溶けていった。愛を望む心と、愛を拒絶する理性の間で、ディランの精神は張り裂けそうだ。


(僕が死にたいのは本当だ。だが……君に死んでほしくない)


 この甘えた葛藤こそが、ディランを永遠に苛む呪いの真髄なのかもしれなかった。(いびつ)な悩みに足を止める自分を、慈愛の女神が嘲笑う声がどこからともなく聞こえてくる。


 耳障りなその声を断ち切るかのように、勢いよく立ち上がった。踵を返しても自分の足を縛る影はどこまでも追ってきて、この戒めから決して解放してくれない。踏みにじる勢いで深く息を吸えば、朝露混じりの空気が肺の奥まで染み入った。


「愛されたいのか、殺されたいのか——愛したいのか。いったいどれだけ望めば満足なんだ?」


 欲深い己の問いに、母が好きだったという白い花は、何も答えてはくれなかった。



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