調子はずれの祝歌《キャロル》3
帰りの馬車に揺られながら、向いに座ったディランをちらりと眺めた。窓の外は闇に包まれ、馬車の中にも沈黙が満ちている。
「ほんとによかったの? あいつらを怒らせて」
「問題ない、むしろよくやってくれたと言いたいくらいだよ。さすがは僕の妻だ」
大袈裟な物言いに皮肉かとも思うが、彼の表情は真剣そのものだ。どうやら本気のようで調子が狂う。顔を窓へと背けながら、居心地の悪さを軽い咳払いでごまかした。
「こういうのが嫌なら二度と私を誘わないことね」
「まさか、君は完璧な皇子妃だったさ」
穏やかに褒められてまたしても調子が狂いそうだ。いっそのこと違う話題をと思うが、口を突いて出たのはやはり気がかりな彼女のことだった。
「ヴィクトリア嬢とはもういいの? あまり話せていなかったようだけど」
「あぁ。元気でいるとわかって良かったよ。僕にとっては唯一の古い馴染みだからね」
会場での様子を振り返っても、彼が社交辞令以上の気配を見せた場面はなかった。ヴィクトリアに向ける態度は、懐かしい友人に対するそれと変わらない。
「彼女とのつきあいは長いの?」
「軍に入った頃にロートレイに引き合わされたから、もう十年になるかな。離宮に閉じ込められていた僕はずっとひとりで、憐れんだロートレイが娘を紹介してくれたんだ。ただ、向こうは年下の女の子だったし、こちらはお飾りとはいえ将軍としての職務をあてがわれた身だ。それほど深いつきあいがあったわけじゃない」
「でも、婚約者候補だったんでしょう」
候補と言いつつも、ディランに家門の娘を娶せようと考える貴族は少ないだろうから、ヴィクトリアが唯一の存在だったはずだ。
「向こうが気遣って提案してきただけで、僕は取り合っていなかったよ。それに彼女では無理な話だった。僕には呪いがあるからね」
ディランの呪い——彼を愛した人にしか殺せないというもの。
無理な話と言うが、ヴィクトリアの未練は間違いなくディランに向けられていた。だから彼女はその気になればディランを殺せる。彼女に愛する人を殺すだけの勇気さえあれば、だが。
自分が殺せない相手を殺すことができる唯一の存在がヴィクトリアなのだと思うと、口の中に苦いものが広がった。
そもそもディランを殺せるだけの技量持ちの自分が彼を愛するよりも、すでに彼を愛しているヴィクトリアに彼を殺させる方がずっと確実で早道ではないのか。
ディランは以前、ヴィクトリアのような貴族令嬢に自分が殺せるわけがないと言い切ったが、何も暗器や刃物を使うだけが殺す方法ではない。
彼はなぜ、ヴィクトリアではなく自分を傍に置いているのだろう。本当に殺されたいと願うなら、確実な道を選ぶか、可能性のある選択肢を複数残すかするはずだ。それをせずにヴィクトリアと距離を置いているなら——。
そこに別の事情が絡んでいると考えるべきだ。ヴィクトリアでは叶えられない、何かがあると。
「あなたの呪いは、ひとつだけなの?」
呪われた皇子の周りではよく人が死ぬという噂は偽物だと、彼は言った。本当の呪いは彼を愛した人にしか殺せないものだと聞かされているが——それ以外にもないとは説明されていない。
「あなたを愛した人にしか殺せない。それだけの事情ならヴィクトリア嬢でもいいわけよね。でもあなたが彼女にそれを望んでいるようには見えない。ロートレイ軍団長の愛娘だから遠慮しているのかとも思ったけど、もし呪いがひとつじゃないのなら……」
ヴィクトリアでは駄目な理由があるのだ。そして彼がリシェルの素性を知った上で留め置いている理由も。
自分は最初から大きな勘違いをしていたのかもしれない。呪われた皇子の呪いはすべて明かされていないだけで、ひとつとは限らないのだとしたら。
こくりと唾を飲み込めば、ディランの長い指がリシェルの顎へと伸びてきた。以前も同じことをされたが、今日のこれは何かが違っている。
「僕のことが気になる?」
ざらりと滑る指が、そのままリシェルの頬を包む。
「でんっ……」
「僕はずっと気になっていたよ、初めての夜から、ずっと。だから呪いについて明かしたんだ。ねぇ、リシェル。僕は君に愛してほしいと言ったけど、同じくらい《《愛してほしくないんだ》》って言ったら怒る?」
「な、何を……」
謎かけのような矛盾する問いに眉を顰めれば、頬を撫ぜる冷たい指が降りて、わずかに開いたリシェルの唇に止まった。
「ねぇリシェル。僕の知っている愛は——とても怖いものなんだ。慈愛の女神はなぜこんなにも恐ろしいものを地上に持ち込んだんだろうね」
その言葉に、リシェルの胸の奥底で眠る感情が強く揺さぶられる。
愛することは怖い。身をもってそれを知った自分が封印のためにかけた鎖が、ガタガタと歪な音を立てる。
見返すディランの赤い瞳はガラス玉のように空虚だった。この人はいったい何を背負っているのだろう。エルネスト皇国の皇子の座と将軍の地位のほかに、その肩に重くのしかかるものがあるというのか。
誰もが自由に扱う愛が、怖いと言い切るほどに。
沈黙が支配する空間に、馬車の車輪がからからと回る音だけが響く。何か言わねばと思いながらも、適切な言葉や感情が見つからない。
「今夜は新月か、どうりで暗いはずだ」
手を下ろした彼が車窓へと目を向けた。釣られて外を眺めれば、星の光さえ弱々しい、暗く塗り込めた空があった。世界全体が闇に沈んでいるようだ。
月のない夜がリシェルは好きだった。闇に紛れることも、闇にすべてを隠してしまうこともできる。苦い追憶も蘇らない、演奏にうってつけの夜なのに、なぜか食指が動かない。
心の奥底にあるはずの衝動が、今夜は静かなままだ。
こんなことは初めてだった。
調子が狂った原因は間違いなく今日のパーティだ。ヴィクトリアの驚きと困惑に満ちた惑いの視線。ディランの血を枯らしたかのような瞳と不可解な問いかけ。
窓の外の闇を見続けながら、こくりと喉を鳴らす。この変化を見落としてはいけないと、演奏家の根底にある何かが警鐘を鳴らす。
ただ、それがいったいなんなのか——。疑問は深まるまま、馬車は新月の夜を音を立てて進んだ。
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祝歌
現在は宗教的な讃美歌の一種として歌われることが多いが、元は豊穣などを全般的に祝う曲として知られた




