調子はずれの祝歌《キャロル》2
二曲目のダンスをフリッツと踊ることで、ディランの失礼とロートレイ家の面目を回復させたリシェルは、ひとり中央のフロアから離れた。
どんな広い会場であっても、人目につきにくい死角のひとつやふたつはある。演奏家としての訓練が染み付いているリシェルは、そうした場所を探り当てることも得意だった。
シャンデリアの光も届かない、大理石の柱の影。そこに身を寄せれば、まるで袖から華やかな舞台を眺めるような心地になる。静かに息をつける場所だ。
いわくつきの皇子妃と踊りたがる者がフリッツのほかにいるはずもなく、誰もリシェルに声をかけてはこない。ディランは軍属派の連中に囲まれ社交の真っ最中だ。仮初の皇子妃に過ぎない自分が輪の中に入っていく必要はない。
給仕からこっそり受け取ったワインで唇を湿らせていると、聞きたくもない噂話が耳に流れ込んできた。
「やれやれ、あれがロートレイ家の後継とはね。まるでもやしのようじゃないか。武門の名が泣くな」
「確かに。侯爵家を名乗ってはいるが領地だって大した旨味があるわけでもない。軍で出世することでなんとか面目を保っていたが、頼みの綱の第一皇子も皇妃の前では形無しとあっては、完全に乗る船を間違えたな」
「せめて娘が有力貴族に嫁ぎでもすればまだ目はあったがね。あれではいかず後家決定だ」
声のする方に視線を向ければ、中年の軍人風の男が二人、酒に顔を赤く染めながら囁きあっていた。聞こえてくるのはフリッツやヴィクトリアを嗤う声。ついでにディランまで蔑んだ男たちは、下卑た笑みを浮かべてさらに顔を寄せ合った。
「いや、正妻は無理でも愛人として差し出すなら貰い手はあるんじゃないのか? ああいう女をいたぶるのが好きな男もいるだろう」
「違いない。足が不自由ということは逃げ出すこともないわけだしな。好きにし放題だ」
含み笑いをする男どもの背後で、ついワイングラスを持つ手に力がこもった。ぴしり、と繊細なガラスが軋む音がする。
自分はヴィクトリアが嫌いだ。
ディランへの未練が滲む態度、それをリシェルにぶつけてくる見当違いの浅はかさ。すべてが不愉快で、できることなら関わりたくない。
だが、これはいただけない。
人としての尊厳を踏みにじるような、聞くに耐えない不快な話をこれ以上耳にしたくなかった。嫌いな相手だからといって、こんな下劣な言葉で貶められていいはずがない。
宣戦布告とばかりに唇を外したグラスを掲げる。そして男たちの足元目掛けて投げつけた。
パリンっと音を立ててグラスが砕け散る。飛び出した赤ワインの飛沫が男たちの足元を濡らし、磨き上げられた床を赤く染めた。
「おいっ、何するん……え、妃殿下!?」
振り返った男たちの顔が驚愕に歪む。物陰から一歩踏み出したリシェルは、頬に手を当てておっとりと微笑んだ。
「あら、ごめんなさい。祝いの席に相応しいとも思えない不協和音が聞こえてきたもので、つい手元が狂ってしまいましたわ」
言葉は丁寧だが、青い瞳は鋭く男たちを睨め付けていた。冷たさを湛えた視線に男たちが一瞬たじろぐ。どう対応すべきか惑った彼らだったが、相手が取るに足らない皇子妃と思い直したのか、すぐに不遜な態度に取って変わった。
「はっ! 敗戦国出身の令嬢は礼儀のひとつも身についていないと見える。まさしく第一皇子とお似合いですな」
「おい、靴が汚れただろう、どうしてくれるんだ」
後ろ盾のない十八の小娘など自分たちより下だと言わんばかりに凄んでくる彼らを、リシェルは鼻で笑い返した。
「靴の汚れくらい、互いに舐め合ったらいかがです? 碌な言葉を生み出さない舌のようですから、そちらの方がお似合いかと」
辛辣な物言いに空気が凍りついた。会場の片隅とはいえ、騒ぎに気づいた人々の視線も集まって、緊張感がみなぎる。
「なんだと……! 言わせておけばっ」
激昂した男がリシェルの細腕を掴もうとした、そのとき。
「リシェル、いったいどうしたんだい?」
軍の部下たちに囲まれていたはずのディランが、すっとリシェルの肩を抱いた。いつの間にこちらに来ていたのか。その素早さに思わず目を見張る。
「第一皇子殿下! 妃殿下の無礼で我々の靴が汚されたのです」
「そうです! 突然ワイングラスを投げつけられて……このような無礼があるでしょうか」
全員の視線が床に散らばったグラスに集まった。白い床に広がるワインは流れ落ちる血のようだ。砕けた破片がシャンデリアの光を反射して、場違いなほどにきらきらと光っていた。
「殿下、我々は謝罪を要求しますぞ」
「まったくだ。妻ひとり御せないなど、エルネスト皇家の皇子としていかがなものでしょう」
第一皇子の登場で怯むかと思いきや、ますますヒートアップする彼らは、リシェルの失礼ついでにディランまで貶めようと躍起になった。酒の勢いもあるのだろう、普段なら口にできないような言葉まで飛び出している。
かっとなってとった行動がまさかディランを巻き込むことになるとは思ってもいなかったリシェルは、気まずい表情で夫を見上げた。
「殿下、これは……」
「なるほど、君たちの言い分はわかった」
リシェルの言葉を遮った彼は、彼女を隠すようにして男たちの前に立った。
「だが僕はすべての者たちに公平でありたいと思っている。まずは妻になぜグラスを割ったのか問いただすことにしよう」
平然とそう述べた言葉に、男たちの表情が歪んだ。
「な……っ、それは」
「今ここで、妻に問いただしても良いんだな?」
いつもは穏やかな彼の声音が、凄みを増して男たちを追い詰めていた。自分を庇う背中から怒りとも冷徹さとも取れる不穏な気配が立ち上る。戦場にある白き悪魔とはこのことかと思わせる鋭い殺気を前に、下っ端の軍人に過ぎない彼らなどひとたまりもない。顔から血の気が引いていくのが傍目にもわかった。
「このことはロートレイの耳にも入れておこう」
これ以上の追求は不要と判断したのか、ディランが冷たく言い放った。その一言で男たちの顔色がさらに変わった。軍人でありながらディランに忠誠を誓っているようには見えぬ彼らだが、ロートレイ家嫡男の成人祝いで事を起こした噂が広がれば、どの派閥に属していたとしても爪弾きになることは避けられない。当面の立ち位置は厳しいものになるはずだ。
「お待ちください、殿下、我々は殿下の部下ではありませんか! 戦場で苦楽を共にした我々より妃殿下を庇うのですか」
「長年お仕えしてきた我々を、切り捨てるおつもりですか。戦友としての絆はどうなるのです!」
必死の訴えを前に、ディランの表情は微塵も揺るがなかった。
「当たり前だ。おまえたちよりよほどリシェルの方が信頼がおける」
「なんたる侮辱……! 殿下、後悔なさいますよ」
「後悔? するわけないだろう。それとも僕の目が信じられないと?」
赤い瞳が不穏に煌めくのを見た男たちは一瞬怯んだが、すぐに顔を真っ赤に染めて声を荒げた。
「誠に不愉快だ、失礼します!」
「今日のことは忘れないでいただきたいものですな、殿下!」
飛び散ったグラスをぐしゃりと踏みつけ、怒りと屈辱感を滲ませた男たちは会場を出ていった。
張り詰めた気配が漂う中、声をかけるタイミングを見計らっていたロートレイ侯爵が、彼らの行く先を振り返りながら近づいてきた。表情にはわずかな懸念の色が浮かんでいる。
「殿下、彼らは第三軍の師団長の縁戚です。よろしかったのですか」
「かまわない。信頼できない部下を使い続けるくらいなら去ってもらった方がましだ。近くに置く人間は選びたいからね」
頷きながらリシェルの腰に手を回す仕草に迷いや嘘はない。何か言わなければと焦る自分を横目に、ディランは朗々と告げた。
「妻が疲れたようだからこれで失礼するよ。改めて、嫡男の成人おめでとう。君たちの今後の献身にこれからも期待する」
「はっ! もちろんにございます」
巨体を折り曲げて見送るロートレイ侯爵に対し、リシェルも慌てて礼を返した。会場を騒がせた詫びを一言だけでも伝えようと口を開きかければ、侯爵の背後、柱の影になった位置からするすると進み出てくる者があった。
車椅子のヴィクトリアだ。いつもついている護衛の姿はない。
自身の細い腕で車輪を回しながら現れた彼女は、リシェルたちが見える位置で止まった。彼女と割れたグラスの距離はほんのわずか。屈めば触れられるほど近い。
いったいいつからこんな近くにいたのか。あの男たちの下卑た会話も、リシェルがグラスを投げつけた場面も、その後のディランとのやり取りも、すべて聞いていたのだろうか。
気配に気づけなかった自分に驚きつつ、ヴィクトリアを観察する。
固い表情はいつものこと。だが、シルバーグレイの瞳はかつてないほど見開かれて、まっすぐにこちらを見ていた。
瞳に浮かぶのは驚きか困惑か、それとも何か別の感情か。
しっかりと絡む目線に、ディランでなく自分を見ているのだと気づいて、なぜ、と疑問が浮かんだ。何か言ってくるかと身構えたが、目を伏せた彼女は小さく礼をするのみだ。
ディランに促されて身を翻したリシェルの背中を、ヴィクトリアの視線が追いかけてくる。ねっとりと重い、けれど敵意とは言い切れない、読みきれぬ視線。
それが何を意味するのか——リシェルには最後までわからなかった。




