調子はずれの祝歌《キャロル》1
幾重にも重なったシャンデリアと燭台の灯りが反射して、舞踏会の会場を黄金色に染めていた。銀食器や色とりどりの生花も光を帯び、今日という舞台の華やかさを物語っている。
盛大に着飾った男女がシャンパングラスを片手に談笑しながら行き交う中、リシェルもまたディランの腕に手を添えて歩みを進めていた。
「さすがはロートレイ侯爵家のパーティね。見事だわ」
「嫡男の成人祝いだからね。次代侯爵のお披露目でもある。家門はもちろん、他派閥の人間まで勢揃いだ。来ていないのは皇家の人間くらいだろうな」
第一皇子の身分を持ちながらしれっとそんなことを言う夫をじろりと睨みつつ、それもそうだろうと内心で納得していた。
本日はロートレイ侯爵家の長男の成人祝いが大々的に開かれていた。名門貴族の嗣子の祝いの席とはいえ、目上の皇族を招待することは本来憚られる行為だ。
ではなぜ自分たちがここにいるのかと言えば、ディランがロートレイ軍団長の直属の上司の肩書きを持っているからだった。今日の彼は皇子である前に将軍であるという建前のもと、ここに立っている。
とはいえ、ロートレイ家のパーティに第一皇子夫妻が参加したという事実は変わらない。皇妃派や貴族派への挑発や牽制と取れなくもない今回の出来事に、耳聡いロクサーヌ皇妃はさぞ苛立っていることだろう。
人影を抜けた先に、今宵の主役であるロートレイ侯爵家の嫡男フリッツと、父親である軍団長の姿があった。山のような巨体を誇る軍団長の傍らで、線の細い、まだ少年とも言える息子が周囲から祝福を受けている。エルネスト皇国での成人は男女ともに十七歳。長男は同年代と比べてもやや小柄で柔和な印象だった。
「驚いた、ご子息は侯爵とあまり似てないのね」
「亡くなった奥方の血が濃く出たみたいだね。本人も軍には興味がないらしい。学校を出たあとはアカデミーに進んで学問を修めるそうだよ」
「あら、では軍でのあなたの味方が減ってしまうのね」
「分家には軍属の人間がごろごろいるから、ひとりくらい違う道に進んでもさほど影響はないさ。さぁ、僕たちも挨拶しておこう」
ディランに手を引かれ、リシェルも彼らの前に立った。
「ロートレイ、フリッツ、本日はおめでとう」
「ディラン殿下、リシェル妃殿下も、ご臨席を賜り大変光栄です」
ロートレイが礼をとる中、フリッツと呼ばれた少年もまた緊張した面持ちで頭を下げた。ディランに続いてリシェルも寿ぎを述べようとした——まさにそのとき。
奥の扉が開かれ、音楽と談笑に満ちた会場の一角にふと静寂が生まれた。
気づいたリシェルもまた、息をのんでそちらを見守る。護衛騎士が押す車椅子が静かに近づいてくる。淡い藤色のドレスに身を包んだ、ロートレイ侯爵家の長女、ヴィクトリアだ。
二週間前に歌劇場で会ったばかりの彼女が、多くの視線を集めながら自分たちの前までやってきた。
「お父様、フリッツ、遅くなって申し訳ありません」
父侯爵と同じシルバーグレイの瞳を伏せ、ヴィクトリアは車椅子上で謝罪した。
「ヴィクトリア、大丈夫か」
「えぇ、お父様。弟の大切な晴れ舞台ですもの、これくらいなんともありません」
笑顔を浮かべたヴィクトリアは、改めてこちらに向き直った。
「ディラン殿下、大変ご無沙汰しております」
「ヴィクトリア嬢、久しぶりだな。元気にしていたかい?」
「おかげさまで、こうして少しの時間なら外にも出られるようになりました」
そして彼女はリシェルとディランを交互に見たあと、座ったままスカートの裾を摘んだ。
「殿下、遅ればせながら、このたびのご結婚、誠におめでとうございます。殿下がお幸せになられることが、何よりの喜びでございます」
父親やディランと言葉を交わしたときとは一転、慇懃な中にも硬さがあることに、彼女という人間をすでに知っているリシェルは気づいてしまった。
だがディランは気づかないのか、赤い瞳を緩めて微笑んだ。
「ありがとう、ヴィクトリア。君の心遣いに感謝する」
「妃殿下とは先日、歌劇場でご一緒させていただきました。とてもお綺麗な方でいらっしゃいますね」
「あぁ、まさしく僕が求めていた理想の女性だよ。ロクサーヌ皇妃には感謝せねばね」
言外の意味を正しく汲み取ったリシェルは、夫の今更の発言に驚くことはない。だがヴィクトリアを含む周囲はそうではなかったようだ。
車椅子の令嬢が社交場に姿を現しただけでも注目の的なのに、婚約者候補だった女性と現在の妻という対立構図まで出来上がってしまっては、周囲がざわめくのも仕方ない。しかもその妻は皇妃派の息がかかった存在と思われているにもかかわらず、ディランのこの発言だ。
第一皇子の言葉を皇妃への盛大な皮肉と捉えるべきか、美しい妻に骨抜きにされたからだと額面通りに受け止めるべきか、茶番の観客たちの心の中は大騒ぎだろう。
(本当に余計なことしかしてくれないわね)
極力目立ちたくないリシェルであるが、図らずも注目のど真ん中に担ぎ出されてしまった。無神経な夫は後で締めるとして、ヴィクトリアも何もこのタイミングで出てくることはなかっただろうにと思う。ディランと旧交を温めたいならパーティがもう少し進んでから、自分と彼が別々の社交を始めたときでも良かったはずだ。
ただ、当主一家が勢揃いしたこの場で、ロートレイ侯爵が改めてパーティの開幕宣言と挨拶をしたこともあって、皆の注目は一旦そちらに逸れた。息子の紹介はもちろん、長く社交場を離れていた長女についても触れ、周囲からは一応の拍手が寄せられる。
車椅子生活になったことは貴族令嬢として致命的だ。本来なら屋敷にこもって姿を見せないのが普通のところを、ヴィクトリアはこうして人前に現れた。その姿に彼女という人間の強さを感じたし、そんな娘を隠そうとしない父侯爵の堂々とした人となりも評価に値するだろう。
ただし、周囲の目は必ずしも好意的とは限らない。事実、不躾な視線はリシェルたちよりもヴィクトリアへと多く向けられていた。当の本人は毅然と顔を上げているが、心のうちは果たしてどうか。
(自分を好奇の視線に晒してまで、殿下に会いたかったのかしら)
腕を預けた夫の横顔をちらりと確認すれば、視線は侯爵と息子に向いており、ヴィクトリアと絡んでいる様子はない。
かつての恋人との邂逅が、先ほどの挨拶だけでいいのだろうか。馬車の中ではずいぶん気にしていたようなのに、と訝しむ。彼らがどうなろうと知ったことではないが、なぜか気になって仕方ない。
そのせいで、自分へと差し出された手に気づくのが遅れてしまった。
「リシェル妃殿下、妃殿下をダンスに誘う栄誉を与えていただけませんでしょうか」
はっと正面に向き直れば、今宵の主役であるフリッツが緊張した面持ちでリシェルをダンスに誘っていた。
パーティのファーストダンスを担うのは主催者や主賓の役割だ。特に今日は侯爵家嗣子の成人祝い。主役のフリッツの方がディランより優先される数少ない機会だ。
そしてフリッツが最初にダンスに誘うとすれば、この会場で一番身分が高い女性——すなわちリシェルということになる。
フリッツの行為は不自然ではないし、むしろここでリシェルに申し込まなければ、臨席した皇族に対して無礼とも言える。リシェルもそれをわかっていたから、微笑んでその手を取ろうとした。
けれど。
「申し訳ないがフリッツ、ほかを当たってくれないか」
申し分ない礼節を示した主役の前に、割って入ったのはディランだった。
「彼女には先約があるんだ、僕とね」
離れかけたリシェルの手を掬い取って、ディランはやや強引にダンスフロアへと歩み出た。第一皇子の思いがけない行動に、オーケストラまでが慌てて様子見だ。
気を利かせたロートレイが目配せし、フリッツの前には彼の叔母が進み出た。やや肩の力を抜いたフリッツが、丁寧に叔母をエスコートする。
緊張に満ちた空気が流れる中、ようやく音楽が始まった。華やかなワルツの調べに、何組かの男女が踊り出す。
「ちょっと、殿下……。よかったの? 彼は今日の主役でしょう」
自身の成人を祝う場でファーストダンスを皇子妃と踊ることが、本音はどうあれ相当の栄誉であることは間違いない。その二度とない機会をディランが奪ってしまった。
「かまわない」
リシェルの腰を引き寄せたディランが耳元で答える。音楽が高まり、ドレスの裾がふわりと翻る。
「僕が君と踊りたかったんだ」
あまりにも率直な彼の言葉に、リシェルの心臓が跳ね上がった。
「礼儀よりも政治的配慮よりも、君と最初に踊りたかった。それだけだよ」
誰よりも美しい夫が、まっすぐにリシェルを見つめている。迷いも躊躇もない、深い色を湛えて。
ディランに導かれながら会場の一角に目を向ければ、ロートレイ侯爵とヴィクトリアの姿があった。ヴィクトリアの表情は歌劇場で見せたのと同じくらい硬いものだ。唇は一文字に結ばれ、シルバーグレイの瞳はほんの少しも揺らぐことはない。
追いかけてくる視線は、若い皇子夫妻に見惚れるのでも、弟の成長を祝うものでもなく——。
祝福ではない。諦めでもない。では嫉妬かと言えば——そうとも言い切れない。あれはいったいなんなのか。
「リシェル」
ディランの声が、不意に自分を現実へと引き戻した。顔を上げると夫の赤い瞳とぶつかる。美しい宝石の中央で揺らめくのは、かつて見たことのないような熱い色。
ヴィクトリアの不可解な視線と、ディランの熱を帯びた眼差し。なぜこの人たちはここに来て、今まで見せたことのないような表情をしてみせるのだろう。
二種類の両極端な感情に挟まれて、リシェルの心が激しく揺さぶられる。
自分はいったいどうすればいいのか。答えは、いったいどこにあるのか——。
音楽が旋律を変える。次のステップへの移行。だが気を取られたリシェルの足が、ほんの一瞬迷った。
「あ……っ」
右足をずらすべきところを、危うく前に踏み出しそうになる。このままではディランの足を踏んでしまう。会場中が注目する中、皇子妃としてあるまじき失態。
だが次の瞬間、ディランの腕が優雅に、けれど確かな力でリシェルの身体を支えた。巧みにステップを調整し、まるで最初からそう振り付けられていたかのようにリシェルのミスを美しいターンへと変えた。
会場の誰も今の危うい動きには気づいていない。おそらくヴィクトリアさえも。音楽は流れ続け、二人は何事もなかったかのように優雅に踊り続けた。
「余所見するなんて……妬けるな」
耳元で囁かれたその声に、かっと頬の熱が上がる。
「余計なこと言わないでっ」
「なら君も余計な目移りをしないことだ」
軽々と自分をリードする夫の冷たい手が、上がりすぎた身体の熱を冷ましていく。その温度が心地よいと感じて、つい握る手に力がこもった。
めくるめくワルツの調べ。その後は何事もなく踊り続け、今宵のファーストダンスがつつがなく終わった。




