迷走する狂想曲《カプリッチョ》
翌朝。朝食を終えたリシェルはケイを連れてディランの執務室を目指した。
昨晩の襲撃が程よい運動になったのか、ソファに倒れ込んだまま熟睡して迎えた朝はすっきりしており、いつも通り朝食もたっぷりと消化したあとである。
食欲と睡眠欲がしっかり満たされ、心身ともに健康を取り戻したリシェルが真っ先に気にしたのは、昨晩の襲撃についての答え合わせだ。リシェルが仕留めた二人は口を割らせる前に息絶えたとケイから聞かされていたし、アゼルたちが追いかけた残りのひとりもまた、逃げられないと悟り服毒して命を絶ったとのことだった。
黒鍵所属の自分たちは相手を絶命させることに長けた訓練を積んでいるため、殺さずに捕えることに向いていない。確実に急所を狙った上に、暗器には毒も塗布してあったから、犯人が死んだのは仕方がないことではあるのだが、昨晩に限ってはやりすぎたという自覚があった。
なぜなら彼らの目的は明らかにリシェルにあり、しかも命を狙ったのではなく誘拐目的と匂わせる言動をしていた。ディランの予定外の帰城に驚いていた節もあり、今までの襲撃とは事情が異なっていた。
襲撃の目的はなんだったのか。解明するには犯人たちの口を割らせるのが早道だが、それも叶わない今、ディランの見解を確認しておきたかった。
だが訪れた執務室に夫の姿はなく、いたのは隻眼の侍従だけだった。
「殿下はまだおやすみになっています。わざわざお訪ねいただいたのに申し訳ありません」
「そうなの? 珍しいわね。まぁ、昨晩の後始末もあったでしょうから、仕方ないわね」
すべて丸投げして熟睡した自分と違って、後処理のために眠れない夜を過ごしたであろうディランを責める気持ちはさすがに湧いてこない。
だがアゼルは涼しい顔で「いえ、後始末のせいではありません」と首を振った。
「昨晩リシェル様にフラれたことがショックだったようで、殿下は非常に落ち込んでおりました。反省のために教本をもう一度おさらいすると言って徹夜したため、まだ寝ております」
「……努力の方向性がおかしいわよね。あなたも忠実な部下だというなら、その辺り諫言したらどうなの?」
「私の望みは主人の願いが叶うことです。そのためのサポートをするのが私の仕事ですので」
「殿下の望みって……」
「誰かに殺されることですね。今はリシェル様にご執心のようです。お仕えする主人夫妻の仲が睦まじいことを大変喜ばしく思っています」
「言い方! あと考え方ね!」
前々から気づいてはいたが、この侍従のひねくれ具合も特級だ。
「あなたいったいどういう神経しているの。主人が殺されて嬉しいわけ?」
「嬉しいですね、この上なく」
言い切ったアゼルの表情にはなぜか晴れ晴れとしたものがあった。普段ほとんど表情を露わにしない彼には珍しいことではあるが、表情筋の使い所がどう見てもおかしい。
「あなた本当に侍従?」
眉根を寄せて疑問を呈せば、アゼルは慇懃な礼をして見せた。
「僭越ながらリシェル様が皇子妃としての勤めを果たされる日を心待ちにしております」
「勤めって……」
「主人の暗殺ですね。うかうかされているとほかの者にその座を奪われてしまうかと。それに、昨晩のような不測の事態が再び起きないとも限りません」
結婚してから二ヶ月という短い間にリシェルは二度もその身を狙われた。不可解な呪いに守られたディランよりも、むしろ自分の方が危うい状況にあるかもしれない事実を突きつけられ、思わず頬を引き攣らせる。
演奏家たる自分の仕事は楽器を演奏すること。狙うのは常にこちらであって、狙われることには慣れていない。再び起きるかもしれない不測の事態よりも、今のこの状況の方がよほど不測だった。
恨むべき相手は一筋縄にいかない楽器か、十分に狂った僕か、それとも手のひらをすべて見せない陰険神父か。どれも同じくらいタチが悪いのが腹立たしい。
今すぐ夫を叩き起こして当たり散らしたい欲望を押さえつけながら、リシェルは執務室を後にした。
◆◆◆
「なんなの、あれ。自分の主人が殺されることを願うだなんて、上役がおかしければ仕える人間もおかしくなるのかしら。殿下もなんであんな人を傍に置いているわけ?」
「類友で気が合うんじゃねぇの?」
アゼルにもらったというチョコレートをケイが指で弾いて口に放り込んだ。暗殺対象の身内がくれた物を簡単に口にするなんて、とんだ譜めくり係だと思うが、三食きっちり離宮でいただくどころか、夕食の半分近くをディランと共にしている自分につっこむ権利はないので黙るしかない。
「話は変わるけどさ、皇子サマの方も出張先で命を狙われたらしいぜ。知り合った兵士から聞き出したんだけど」
「は? 何それ」
「今回のは女を使った誘惑系?だったとか。兵が駐屯しているところに集団で花売りに来て、何人か痺れ薬を盛られて寝込んでるんだと」
「どうしようもない馬鹿どもね」
仕込んだ女たちが、ではない。鼻の下を伸ばし切った兵どもが、である。
「下っ端が緩み切ってる中、殿下だけはきっぱりと拒絶したらしいぜ? “自分は新婚だから間に合ってる”って。オレが気づかなかっただけで、寝室の鍵はとっくにぶっ壊れてたってことか?」
「ば……っ、そんなわけないでしょう!?」
ニヤニヤするケイの頭をはたこうとしたが、相手もまた素早く躱したため未遂に終わった。
「昨晩のことは勘違いだってさっき説明したでしょう! 減らず口叩いてる暇があるなら、私を狙った黒幕が誰か探ってきなさいよね」
「オレの仕事は演奏の譜めくり係だ。演奏家が狙われるのは業務外だな」
「だったら殿下を狙った方の首謀者が誰か調べてよ。私の譜面を狂わせる存在なんだから捨ておけないでしょう」
「そっちはアゼルが見当つけてたぞ。大方貴族派じゃねぇかって。皇妃派にしては生ぬるい」
貴族派は古参の貴族たちの集まりだ。伝統と格式を重んじる彼らは信仰心が厚いことでも知られている。女神の呪いを受けた皇子のことを蛇蝎の如く嫌っており、皇妃派とは別でディランと敵対していた。
痺れ薬を盛ってから手を下そうとするのが生ぬるいのかどうかの議論はさておき、余計な一手間をかけているあたり、確かに皇妃派のやり口とは違う。
だがリシェルにはまだ疑う余地があった。
「本当に貴族派の仕業かしら。……ロートレイ侯爵の可能性はない?」
「侯爵って軍団長のことか? 皇子サマに忠誠を誓っている軍属派のトップだろ。なんであのオッサンが怪しいと思うんだよ」
「命を狙うつもりはなくて、殿下に浮気をさせたかっただけとか。その事実を知った私が殿下に愛想をつかすのを狙ったと……ちょっと、なんでそんなにニヤニヤしてんのよっ」
「いやぁ、旦那の浮気に嫉妬する新妻ってのがツボすぎて! しかもリシェルが! あはははははっ」
「別に嫉妬なんかしないわよ! そうじゃなくて、私の襲撃の黒幕がロートレイなんじゃないかって思ったんだってば!」
お腹を抱えて笑い転げるケイにクッションを投げつけるも、気恥ずかしさで顔が赤くなっている自覚があった。
それをごまかしたくて持論を捲し立てる。
「そもそも殿下ならともかく、私が狙われる理由がないのよ! 馬車の事故といい昨日の襲撃といい、明らかに計画的な犯行よ。殿下のついでに襲ったという感じじゃないもの」
ディランが狙われる理由は枚挙にいとまがないが、自分となれば話は別だ。権力から遠い第一皇子の妻で、実家や祖国も弱小。わざわざ狙うほどの旨みがない。
「私はロクサーヌ皇妃に好かれてないけど、私が死ねばまた第一皇子妃のポストが空くわけで、そこに有力貴族が入るのを彼女は嫌がると思う。いずれは私のことも消したいのかもしれないけど、今じゃない。貴族派は私の存在なんてどうでもいいだろうし、となると残るのはヴィクトリア嬢がらみとしか思えないのよ」
もしロートレイ軍団長が娘の気持ちを汲んで第一皇子妃のポストを諦めていないのなら、十分リシェルの命を狙う理由になる。
そう分析すれば、ケイがあんぐりと口を開いた。
「マジか、リシェルがまともな推論してるぞ。明日は槍が降るな」
「どういう意味よ!」
「そのままの意味だよ。マキシム神父に会ってネジを締め直されたのかね」
彼の言葉に、神父とやりとりしたのがつい昨日のことだったと思い出した。忘れていたわけではなく、いろいろありすぎて棚上げせざるを得なかったのだ。
あれほど恐れていたマキシム神父との再会。言葉の裏にこめられた嫌味に胃がきりきりしたものの、実際はただ発破をかけられただけで終わった。
「神父様のことだから、もっといろいろ言ってくると思ったんだけど……」
「同感だな。オレも控え室の前ですれ違ったけど、目も合わされなかった。ってことは現状維持でいいってことなんだろうな」
もし計画に変更があったりテコ入れが必要だったりする場合は、符牒などを使って指示があるはずだが、何もなかったということはそういう解釈になる。
自分たちは闇に紛れる暗殺者とは違って、いろいろ偽装した上で実行に移すため、半年や一年といった長期に渡る演奏旅行が組まれることも珍しくない。ただ今回の譜面は、初夜の席でディランを亡き者にして即座に逃亡する内容だった。譜面通りに演奏できていないのにお咎めや修正が入らないのもおかしい。
顎に手を当てて考え込むケイを尻目に、リシェルはそれ以上の思考をあっさり放棄した。
こういう探り合いに自分は向いておらず、考えるだけ無駄だとわかっている。
現状維持がマキシム神父の指示なら、こちらの話は簡単だ。ディランを殺す、それに尽きる。結果が伴えば神父も何も言えまい。
そう胸を張れば、ケイが「結局物理かよ……」と嫌そうな顔をした。
「うるさい! そもそも皇妃に侍従、貴族派、ロートレイ……怪しい奴が多すぎるのがいけないのよ。アレは私の獲物、邪魔するならまとめて相手するまでよ!」
兎にも角にも寝入っている夫をさらに深い眠りへと叩き落とせばいいのだと、使い切った暗器を補充しつつ拳を握った。
「見てなさい、今度こそ!」
準備万端とばかりに壊れた扉を抜けて隣室に忍び込むも、待っていたのはさわやかな笑顔の夫だった。
「夜這いに来てくれるなんて嬉しいよ」
そう言われてベッドに引き摺り込まれたリシェルの悲鳴が、太陽も高く登った離宮に轟くのだった。
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狂想曲
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