八つ当たりの即興曲《アンプロンプチュ》
湯浴みを終えたリシェルは髪を乾かすのもそこそこにベッドに潜り込んだ。ケイにも下がるよう伝えており、明かりを消した主寝室には静寂が広がっていた。
歌劇場でのひどい半日がようやく終わろうとしていた。ナタリエの無頓着さにヴィクトリアの見当違いな嫉妬、加えてマキシム神父の脅しという豪華な演目のせいで、精神的には疲労困憊なのに少しも眠くならない。
リシェルは元来、物事を引きずらないタイプだ。嫌なことがあっても寝て起きてしまえば大抵忘れるし、失敗を繰り返しても「今日こそはできるかも」「明日はうまくいくはず」などといつも前向きに考える。
だからさっさと眠って明日を迎えた方がいいことはわかっていた。
なのに。
「……眠れない」
瞼を深く閉じても夢の世界へ入っていけない理由には思い当たる節があった。先ほどのディランとのやりとりが脳裏に蘇る。
仮初の夫が誰のことを思い遣ろうが、自分には関係ない。だというのに疲れ切った心を逆撫でした彼の言動が苛立たしかった。そんなふうに思う自分の有り様までが不可解で、ざわざわと渦巻くものが収まらない。
(雑念が多すぎるわ。演奏家失格ね……)
少しでも早く眠りたくてきつく目を閉じれば、見えるのはただの闇。
そんな中、閉ざされた視界の代わりに鋭敏になった聴覚が、バルコニーから立ち上る不穏な気配を捉えた。
長年培った演奏家としての本能が、侵入者の存在を嗅ぎ分ける。ケイではないし、マキシム神父が後を追ってきたわけでもない。当然ながら離宮で働く元軍人たちでもない。
そこまで察知したリシェルは、複数の侵入者がベッドに近づいてくるのを待った。
「いたぞ、皇子妃だ。金髪だから間違いない」
「おい、早く薬を嗅がせて……」
目の前に楽器がいるのに、呑気に会話を交わしているあたりが三流だ。心の中で嘲笑ったリシェルは、布のような物を口に当てられた瞬間、相手を蹴り飛ばした。
「うわぁっ!!」
「な……! クソっ、起きてやがっ、ぐわぁ!!」
枕の下に忍ばせていた暗器でもうひとりの目を狙う。布で覆われた顔の中でそこだけが白く浮かんで格好の的だった。長い針のような得物で片目を突かれた相手が、奇声を上げながら床に転がる。
鬱憤がたまっていたところに、格好の獲物が現れてくれた。ベッドから飛び降りて即座に反撃の体制をとれば、蹴飛ばした方の男が立ち上がるところだった。
「ふん、ちょうどいいわ。運動し足りなくて眠れなかったのよ」
「この野郎っ!」
男がナイフで襲いかかってくるのをするりと躱せば、バルコニーの方から新たな刺客が現れる気配があった。
「おい、殺さず連れてこいという命令だぞ」
「うるさいっ! 抵抗してるんだ、多少の傷は仕方ない!」
月光に照らされる襲撃者は全部で三人。ひとりは目を押さえて床に転がっており、ひとりはバルコニーからこちらを窺っている。もうひとりは全身から怒りを吹き出してこちらを睨みつけていた。
「怒りで前が見えなくなるなんて、どうしようもないわね」
自分のことは棚に上げて不敵に笑えば、ナイフを持った男がさらにかっと瞳を見開いた。
「うるせぇ! 黙れ!!」
冷静さを失った男が荒々しくリシェルに突進してきた、まさにそのとき。
「リシェル! 大丈夫か!」
主寝室のさらに奥で激しい破壊音がしたかと思うと、ガウン姿のディランが飛び込んできた。
「え、殿下!?」
驚きのあまり振り返ったリシェルの手は、襲いかかる男の耳に長めの暗器を突き刺したところだった。声もなく男が崩れ落ちるのと、ディランがリシェルに駆け寄って抱き寄せるのが同時だった。
「リシェル! なんということだ、怪我はない?」
「ちょっと殿下、離して! まだひとりいるんだってば……っ!」
だが三人目の男はディランを見るなり「嘘だろ、いないはずじゃ……」と呟いたかと思うと、後退りしながら身を翻した。まだ息のある仲間には目もくれず、ひとりバルコニーから撤退していく。
「あ、逃げちゃう!」
「アゼルたちが追うから心配ない。それより君のことだ。本当に怪我はない? 顔をよく見せて」
「いや、あの……なんで殿下がこの部屋に入ってこられたわけ?」
ここは第一皇子と皇子妃のための主寝室だが、あの忌まわしい初夜以来、使用者は自分だけだった。ディランの部屋に続く扉にはこちらから鍵がかけられる仕様になっており、毎夜しっかり施錠を確認しているリシェルである。
だが彼から返事があるよりも先に、リシェルの方が答えに行き着いてしまった。隣室との境にある扉が、蝶番ごと吹き飛んでいた。
「え……あれって、そんな簡単に壊れるモノだったの?」
大陸一の栄華を誇るエルネスト皇国の離宮の扉がそこまでやわな造りだとは思えず、リシェルはぎゅうぎゅうに抱きしめられる中で頬をぴしりと引き攣らせた。
「殿下、そろそろ離して。この程度のこと、私ひとりで十分だってあなたももう知ってるでしょう」
聖主国の情報には行き着けていないとしても、リシェルがただの伯爵令嬢でないどころか暗殺者だということはとっくに見抜いているはずだ。
「妻が狙われて心配しないわけないだろう」
「それも教本の教えなのかしら。ずいぶん勉強熱心だこと」
「君が強いことはわかっていても、平気だと決めつけるのは違うだろう。人を心配する気持ちくらい、僕にだってある」
その言葉に、馬車内での会話を思い出してはっとする。あれは事故にあった相手をただ思い遣ってのことだったのかもしれないと、冷静な判断が戻ってくる。
赤い瞳をまじまじと見つめれば、そっと伸びてきた手がリシェルの頬を撫でた。冷たい体温が心地よいと感じるほど、この手に慣れてしまったのかと考えたそのとき。
「リシェル様! どうなさいまし……、え?」
荒々しい足音と共に、ケイが正規の扉から部屋に飛び込んできた。抱き合う二人の姿を目にして、ぴたりと足を止める。
「……」
「……」
「……」
気まずい沈黙が流れる中、真っ先に我に返ったのはケイだった。
「あの……物音がしたかと思ったのですが、気のせいでした。あ、ゴミが落ちていますね。片付けておきます」
深々と一礼したケイが、床に転がる男たちを軽々と肩に担いだ。まだ息のあった彼らの鳩尾に素早く拳を入れて気絶させることも忘れない。
「お邪魔いたしました。どうぞ、良い夜を」
そう言い残し、二人の賊を担いだまま、何事もなかったように部屋から出て行った。
「……っ!」
ぱたりと閉まった扉の音で、こちらも我に返ったリシェルが一気に顔を赤く染めた。ディランの腕の中から慌てて逃れようとするが、なぜか拘束モードに入った夫の腕はまったく引き剥がせない。
「ちょ、ちょっと! ケイに見られたじゃないの!」
「リシェル、落ち着いて」
「落ち着いてるわよ! そうじゃなくて、あの子、絶対勘違いしてるわ。誤解を解かないと!」
「夫婦の寝室で夫と妻が抱擁していることの何が悪いの? それとも、彼に誤解されて困ることでもあるのかな? リシェル、僕は君に甘い自覚はあるけど、浮気は許さないタイプだ」
「あの子はまだ十二歳よ! 変な想像しないで!」
売り言葉に買い言葉で返したリシェルは、メイドに扮しているはずのケイのことをディランが「彼」と言い表したことはスルーして、真っ赤な顔のままじたばたと暴れた。
そんな彼女の耳元で、ディランが一際甘く囁く。
「ところでリシェル。さすがにこの寝室を使うのは気味が悪いだろう。僕の部屋にもベッドがあるから、今夜はご招待するよ。幸い扉もほら、開いている」
さらりと視線を向けた先には破壊された扉。その先はディランの居室だ。
背中に回された彼の手がざわりとリシェルの腰を滑る。
「君が勇敢に闘ってくれたおかげで、実に良い夜になりそうだ、リシェル」
迫ってくる唇の温度と感触を想像する間もなく、リシェルの拳が彼へと飛んだ。
「そんなわけあるか!」
ようやく反撃に転じることができたリシェルは、蹴り倒す勢いで夫を牽制した。ディランが体勢を崩した隙をついて脱兎のごとく居室へと逃げ込み、寝室へと続く扉に内側から鍵をかける。
「いったいなんなのよ!」
怒りの先は倒した侵入者か、逃げた方の男か、裏で絶対に面白がっているケイか、それとも——。
よろよろと広めのソファに倒れ込めば、遠くから深夜零時を告げる鐘の音が響いてきた。重々しいその音を聞きながら、嫁いできて以降、今日という夜が一番長かった気がすると唇を噛む。ちなみにいろいろ失敗したあの初夜はカウントに入れていない。
誰かを殺すのは息をするのと同じくらい、普通のことだ。
けれど。
『君が強いことはわかっていても、平気だと決めつけるのは違うだろう。人を心配する気持ちくらい、僕にだってある』
愛を知らない皇子が誰かの心配をするのは、普通のことなのだろうか。リシェルにはわからなかった。愛にまつわる事柄は、あの日あの場所にすべて捨ててきたから。
愛なんて信じない。愛は——怖い。
「……なんなのよ、もう」
ざわめく心は落ち着かないし、久々に苦い記憶も蘇らせてしまった。襲撃まであったというのにいつもと同じベッドで眠れないこの状況が、良い夜であるわけがない。
ディランもケイも相当にイカれていると悪態をつく。
閉め忘れたカーテンの隙間から見えるのは明るい月。静かになった夜を刻みながら、リシェルもまた騒がしい心に蓋をするかのように、月光の中、静かに瞳を閉じた。




