出会いの結婚行進曲《ウェディングマーチ》1
時を遡ること一ヶ月前。
エルネスト皇国第一皇子であり、猛き皇国軍の長である将軍の肩書きも持つディラン・エスネスト・ヴァインアートと、ラビリアン王国出身のリシェル・オルディア伯爵令嬢との結婚式が厳かに執り行われた。
場所はエルネスト皇国の皇都の教会。ただし皇族や公爵家の冠婚葬祭にのみ使用が許される由緒正しい大聖堂ではなく、外れにある小さな教会だ。参列者も三十人ほどしか収容できない庶民のための教会だが、特に大きな混乱は起きなかった。
両家の列席者が、それぞれ一名ずつしかいなかったためだ。
なおその両名も主役二人の介添人を務めていたため、実質客人はゼロということになる。
戦乱の大陸を次々と武力で制圧し、今なお覇権を広げるエルネスト皇国の第一皇子の結婚式としてはあまりに地味すぎる。
たとえそのお相手が、第一皇子自ら攻め込んで全面降伏と領土をもぎ取ることに成功した敗戦国・ラビリアン王国の、伯爵家出に過ぎない令嬢であったとしても、だ。
背後には山のように積み上がった事情がある——むしろ事情しかない結婚式であったが、当の本人たちは実に落ち着きを払って神父の声に耳を傾けていた。
皇子でありながら軍を率いるディランの衣装は真っ黒な軍服。対する花嫁リシェルは、すらりとした長身と見事なまでのプロポーションを全面に押し出した、匂い立つような花嫁衣装。
軍神殿下と呼ばれるディランの傍には、侍従と思しき同年代の青年が、こちらは地味めの礼装で控えていた。対する花嫁リシェル側にいるのは、まだ十二、三の小柄な少女だ。ぎこちない所作から、このような場には慣れないメイドか見習いであることが伺える。
主人に従うかのようにやや首を垂れて控える彼らもまた、物静かに式を見守っている。
そんな中、大量の汗を掻きながら震える声で聖句を述べる神父が、実質本日のメンバーの中で一番哀れな立場であったかもしれない。エルネスト皇国皇都の教会に配属された運のいい神父とはいえ、末端に過ぎない自分が、まさか皇子殿下の結婚式を執り仕切ることになろうとは夢にも思っていなかったであろう。
これも、大陸全土で信仰される“慈愛の女神”の思し召しと、素直に思えたかどうか。
だが年老いた神父はその老練さを総動員して、なんとか締めの言葉を言い切った。
「聖主国聖下の代理として、偉大なる慈愛の女神の僕として、我ここにディラン・エルネスト・ヴァインアート第一皇子殿下と、リシェル・オルディア伯爵令嬢の婚姻を認めます。それでは誓いのキスを」
神父の言葉に従って、ディランは花嫁のヴェールに手をかけた。精緻に編まれたレースの下から見えたのは、艶やかに結われたダークブロンドの髪と憂いを含んだ碧い瞳。わずかに開いたローズ色の唇に載る色香は、十八の年齢よりも大人びた印象だ。
初めて見る妻となる女性に見惚れたのか、そうでないのか。光景を見つめる介添人にも神父にもわからないほど、軍神殿下と呼ばれるディランの紅玉の瞳はいっさい揺れることはなかった。
そのまま薄い唇で軽く花嫁のそれに触れたあと、彼は再び祭壇に向き直った。神父が最後の寿ぎを述べて、式はお開きとなった。
◆◆◆
つい先ほど美しい花嫁衣装に身を包んでいたリシェルの姿は今、エルネスト皇国の離宮の寝室にあった。重たい衣装を脱ぎ、湯浴みをしたあと、祖国から連れてきたまだあどけなさの残るメイドが持ってきてくれた軽食をつまんで腹ごしらえをした。
その後夜着に着替え、ひとりベッドに腰を下ろしている。
結婚式の花嫁は、何も祭壇の前で誓うことだけが仕事ではない。大事なお勤めが待っている。
そう、初夜である。
仮にも皇子妃となった身であるからして、扇情的すぎるデザインは選ばなかったものの、袖はなく、裾も膝丈までしかない夜着が今夜の衣装だ。腰回りだけ透ける造りで、彼女のくびれた細腰のラインを露わにしている。
(いよいよね、リシェル。大丈夫、計画通りに)
胸に手を当てそう言い聞かせていると、夫婦の続き部屋の扉がノックされた。
「リシェル? 入るよ」
声をかけて現れたのは、数時間前にリシェルの夫となった人。エルネスト皇国の第一皇子であるディランだ。彼もまた窮屈な軍服を脱いで、ゆったりとしたガウン姿になっていた。
さらりとした白髪は湯浴みの後だからだろうか、しっとりと艶を帯びていた。鮮やかな紅玉の瞳がランプの光を受けて、ちらちらと幻想的に揺れている。
身長はリシェルよりも高いが、筋骨隆々というわけでもない。適度にひきしまった身体はよく鍛えてあるのだと見てとれた。
これがディラン皇子。リシェルは自分の夫となった男に初めて真正面から対峙した。
(いえ、二度目ね。だって先ほど……)
教会で彼と誓いのキスをしたときもまた、自分はこの瞳と向き合った。軍神殿下と呼ばれる彼は、その類まれなる強さと戦績だけでなく、この世のものとも思えぬ美貌で名を知られた人でもあった。
それが単なる噂でなかったことを、リシェルはもう知っている。
政略でしかない今回の縁組は、両名の思惑など無視した形で整えられた。互いが顔を合わせぬまま式当日を迎えるという慌ただしさだ。
彼女は緩やかに立ち上がり、やおら膝を折った。
「きちんとご挨拶もできず失礼いたしました。ラビリアン王国から嫁いでまいりました、オルディア伯爵の長女、リシェルです。どうぞ末長くかわいがってくださいまし、殿下」
「第一皇子のディランだ。君を妻に迎えられて光栄に思う。僕はロクサーヌ皇妃には嫌われているものと思っていたのだけど、このような美しい女性を娶せてくれるのだから、もしかしたら愛されていたのかもしれないな」
ディランの際どい台詞に、リシェルは一瞬頬をひくつかせた。しかしすぐに取り繕って視線を下げた。
「本来なら敗戦国の、しかも伯爵家出身に過ぎない私が、殿下のような高貴な方に嫁ぐなどありえないことでしたでしょう。この僥倖はまさしく女神様のお導きだと信じております」
大陸全土で信仰される、“慈愛の女神”。エルネスト皇国もまたその信仰を掲げ、信仰の総本山である聖主国には唯一膝を折る。
きな臭い政治的な話が出れば、すべて“慈愛の女神”を言い訳に乗り切る。十八の夢みがちな新婚の娘の姿としては、なんらおかしなことではない。
もちろんリシェルとて、この婚姻の裏事情は知っている。敗戦国の取るに足らない令嬢を、破竹の勢いで大陸を制覇しようとするエルネスト皇国の皇子であり、立役者でもある将軍にあてがう、本当の意味を。
肩書きだけは立派で、母の出自を問わずエルネスト皇国の第一皇子にのみ与えられる「エルネスト」の国名をミドルネームに持つことを許された、唯一の人物であるディラン。
正妃である皇妃腹ではないがために皇太子を弟皇子に譲り、自分は軍属して国を支えているというのは建前。実質は国一番の権力を持つロクサーヌ皇妃に疎まれ、戦場へと送られ続けた結果、その能力の高さと異常な運の良さから生きながらえているにすぎないということを。
実の父である国王陛下もまた、彼のことを歯牙にも欠けない。皇妃派だけでなく、貴族派と呼ばれる、信仰心に厚い一派からは蛇蝎の如く嫌われているのにも、大きな理由がある。
第一皇子とエルネスト皇国軍将軍のほかに、彼を呼び表すもうひとつの名——。
リシェルが思い出したことを見破るかのように、ディランが優雅に微笑んだ。
「でも君も哀れだよね。嫁いだ夫が——呪われた皇子だなんて、ね」
はっと顔色を変えたことを気づかれたのか、気づかれなかったのか。ディランは「でも仕方ないよね」と付け足しながら、リシェルの隣に腰掛けた。
「呪われた皇子だろうと敗戦国の悲劇の令嬢だろうと、今の僕たちにはやらなければならないことがある。だろう?」
そして彼はリシェルの身体をベッドに優しく押し倒した。
そう、今夜は初夜。これは花嫁となったリシェルの大切な仕事だ。
「……御心のままに。殿下」
語尾が掠れたのは恥じらいのせいだ。そう聞こえるはずだとリシェルは願い、身体のこわばりを解いた。