苦き追憶の練習曲《エチュード》2
そうしてミレーユの跡を追って異国の地まで辿り着いたリシェルは、楽器のお屋敷の寝室でミレーユと再会した。
自分がここに来る前に逃げ出してくれていたらというリシェルの希望は、ベッドで眠るように死んでいる男の傍で、彼の手を握りしめたまま祈りを捧げているミレーユの姿を前に、呆気なく砕け散った。
開け放たれた窓から差し込む月の光が、恋人とされた侯爵の死に顔を白く染める。
楽器の演奏がすでに終わっていることは明らかだった。だが誰が演奏したのか。楽器自ら壊れたとは考えにくい。
「ミレーユ……」
事態を把握したくて呼び掛ければ、恋人に最期の祈りを捧げていた彼女が顔を上げた。半年ぶりに見る姉とも慕った彼女は、今まで見たことのないような美しくも澄んだ表情をしていた。
「リシェル。やっぱりあなたが来てくれたのね。嬉しいわ」
「ミレーユ、どういうこと? その人は侯爵、よね。いったい誰が……」
「私がやったわ。“祝福”の香を焚いたの。彼の心臓はもう動いてない」
言われてみれば自分たちにしかわからない程度の残り香がある気もする。リシェルは途端に安堵した。
「な、なんだ。やっぱりミレーユは裏切ったりなんかしてなかったじゃない。もう、あの陰険神父が心臓に悪いこと言うから! 私の心臓の方が止まっちゃうかと思ったわよ」
リシェルの目から見ても侯爵は確実に息をしていなかった。ミレーユの言う通り、香の毒で眠るように死んだのだろう。
「演奏がうまくいってよかったわね。それじゃ、私と一緒に帰ろう」
リシェルが差し出した手を、けれどミレーユは取らなかった。
「ミレーユ?」
「リシェルは、私を殺しにきたんでしょ? いいよ」
ミレーユの手は、未だ横たわる男のそれを握っている。首だけこちらに向けた彼女は、リシェルが好きだったあのふわりとした笑顔のままだ。
「あなたの演奏で彼の元にいけるなら、こんなに嬉しいことはないわ」
「ミレーユ、何言ってるの?」
「マキシム神父は間違ってない。私は組織を——黒鍵を裏切った」
死んだ男の手を強く握りしめる彼女の左手には指輪があった。月明かりが差して明るいはずの室内なのに、その指輪だけは何かを塗り込めたかのように仄暗い。
「裏切ったって、まさか……」
「ごめんなさい。私、彼を愛してしまったの」
ミレーユの頬を流れ落ちる涙が、ぽたりと繋がれた手の上に落ちる。
リシェルより年上の彼女はいつも穏やかで、冷静ながらも強い人だった。どんなに過酷な訓練においても音を上げず、涙を見せることすらなかった。
長い付き合いの中で初めてみる彼女の涙を——とても美しいと思った。
「一度は彼と一緒に逃げようかとも思った。でも、マキシム神父から逃れられるとは思えなくて……だったらせめて私の手で、苦しむことなく死なせてあげようと思って」
だから香を焚いたのだと、ミレーユは小さく笑った。
「ミレーユ……嘘よね。だって彼はもう死んでて……そうよ、ミレーユが演奏したのは確かなんでしょ? だったら大丈夫よ。ちょっと時間はかかっちゃったけど、演奏は無事終了したって、マキシム神父に報告したらいいじゃない」
「それはできないわ。神父様はすべてお見通しだもの」
「できるよ! 私も一緒にお願いしてあげるから。楽器を好きになった気がしたけど、ただの勘違いで、ちゃんと演奏は終えてきましたって、そう言えばいいのよ。それでもし神父様が何か言ってきたら、私も一緒に謝ってあげる。ミレーユのためならたとえ反省文とかおやつ抜きとかにされても、全然平気だもの!」
「ごめん、リシェル。それはできない」
「なんで……っ!」
「彼を愛したことを、嘘で終わらせたくない」
溢れた涙がいくつも落ちる中、ミレーユは頑なに死んだ男の手を離そうとはしなかった。目の前にリシェルがいるのに、その手はもう、リシェルの頭上には降りてこない。
呆然とする己の前で、彼女は花が綻ぶように笑った。
「ねぇ、リシェル。愛するって……とても素敵なことだったわ。それがわかったから、私の人生はとても幸せだった」
それだけ言い切ったミレーユは、急にとろんとした目つきになった。跪いた姿勢のまま頭が数回揺れたかと思うと、ベッドにとさりと上半身が落ちる。
「ミレーユっ!」
「リシェ、ル……」
「しっかりして! まさか、あなたも毒を飲んだの!?」
黒鍵秘伝の祝福の香は、小さい頃から慣らされてきたこともあって自分たちには効かない。ということは違う毒の影響ということになる。だが大陸中のあらゆる毒に耐性をつけさせられた自分たちが倒れるほどのものとなると、すぐに対処しきれない。
いったいミレーユはどこでそんなものを入手したのか。
すでにうつろになった瞳が、虚空を彷徨いながら、なんとかリシェルを捉える。
「ねぇ、リシェル。あなたは……間違わな、い、で」
振り絞るように告げたミレーユは、そのままふっと力を失くした。
「ミレーユ、しっかりして、ミレーユ!」
意識は焦っても、徹底的に訓練された自分の身体は冷静だ。いらずらに毒が回らないよう彼女にそっと触れながら、生体反応を確認する。
ミレーユの脈はまだ振れていた。呼吸も緩やかではあるが続いている。ただ眠っているだけのようだ。
念の為ベッドに横たわる侯爵の身体にも触れてみたが、すでに冷たくなりかけていた。彼が亡くなっていることは疑いようがない。
まるで末期の台詞のようなミレーユの今し方の発言を思い出してぞっとしたが、彼女の命はまだ尽きてはいない。まだ救える手立てがあるということだ。
安定的に脈打つミレーユの首を呼吸しやすいように整えてから、これからどうすべきかを素早く考えた。
演奏依頼はミレーユと彼女の恋人となった侯爵を殺すことだった。すでに侯爵は事切れているから、あとはミレーユを殺すだけなのだが、その彼女は静かな眠りに落ちている。まるで死んだかと錯覚するかのように。
(錯覚……そうだわ。もしこのままミレーユの死を偽装できたら)
組織の命令は絶対だ。マキシム神父はどんな手段を使ってでも演奏を完遂するようにと指示してきた。リシェルはそれに従わなくてはならない。
だがもしミレーユの代わりに別の女性が傍で死んでいたとすればどうだろう。似た背格好の女性の死体を用意して一緒に並べておけば、恋人同士の死体だと偽装できるのではないだろうか。黒鍵は楽器の末期を確認しにくることはない。二人の死亡と埋葬のニュースが届けば、それが依頼完了の印になる。
死体を偽装する一方でミレーユを匿い、目が覚めたら逃す。そうすれば彼女を助けることができるのではないか。
となれば、やるべきことはミレーユの代わりになる死体の調達だ。貴族の屋敷だからメイドが大勢いるだろう。ミレーユの服を着せて、顔がわからない程度に傷つけて転がしておく。朝が来て二人分の死体が発見されるのと同時にメイドがひとり行方不明となれば、殺害の罪もなすりつけられて一石二鳥だ。
罪のないメイドひとり殺すことに思うところがないわけではないが、心が痛んだりはしない。そうしたものは黒鍵の教育課程で徹底的に潰されている。
何よりリシェルにとってミレーユより優先すべきものはなかった。
(ずっと一緒だと誓った約束を、なかったことにしたくない)
やるしかないと立ち上がり、一旦その場を離れようとしたリシェルの背後に、それは影のように忍び寄った。
「どこに行くんですか、リシェル」
「————っ!」
反射的に振り返ろうとした自分を押さえつける膂力に、一瞬にして動きを封じられた。立ち上がるぞわりとした悪寒。本能から繰り出した逃げ出すための反撃は、無情にも空を切るばかりだった。
「本当に油断がならない。ついてきて正解でした」
「神父、様……」
声が出たのは、背後の存在が敵ではなく味方だと察っしたからだ。本気でリシェルを殺そうというなら最初の一撃で首を捩じ切っていただろう。その程度ならひと呼吸の間にやってのける師であることを、教え子である自分は嫌というほど知っていた。
顎を封じられていることで振り向けないリシェルは、目だけを動かして神父と対峙した。
「どうして、ここへ……」
「お馬鹿な弟子の行動などお見通しですよ。さてリシェル、私の命令をまさか忘れたわけではありませんよね。そこまで馬鹿なら懲罰モノです」
「……」
「どうしました、リシェル。楽器はまだ鳴るようですよ。さぁ、演奏の続きをなさい。それとも、どこかの裏切り者と同じ、浅はかな選択をするのですか?」
「最初から、こうなることを知って……それで私にっ」
「だとすればどうだというのです? すべて、演奏には関係のないことです。忘れたわけではないですよね。指揮者は、私です。あなたはただの演奏家にすぎません。あぁ、でも」
マキシム神父がふと力を緩めた隙を逃さず、リシェルは彼の腕から抜け出した。だがそれは彼の油断ではないとわかっていた。その証拠に真正面から見た彼は、いつもの胡散臭そうな笑みを浮かべていた。
「実力不足の演奏家の底上げをしてやるのも指揮者の仕事です。だから、ミレーユに睡眠薬を仕込んでおきました。彼女はまだ——生きているでしょう?」
神父の言う通り、ミレーユは眠っているだけだ。耳を凝らせば彼女の静かな寝息が聞こえるほど安定した眠りの底にいる。窓から見える月が薄れ、空が白み始めれば、自然と目を覚ますだろう。
「今なら抵抗されずにミレーユを殺せます。リシェル、あなたがやるのです」
一歩踏み込んできた神父がリシェルに握らせたのは小さなナイフだった。なぜこれがここにあるのか。自室の宝箱の中に丁寧にしまっておいたはずだ。初演奏に成功して帰還したリシェルに、ミレーユがプレゼントしてくれた思い出の品なのだから。
子どもの手にぴったりだったナイフは、今のリシェルには小さすぎた。訓練で何度か使ったことがあるだけのこの武器は、こんなに重たかっただろうか。
こんなに、冷たかっただろうか——。
神父の酷薄な瞳に晒され、リシェルはもう一度振り返る。ベッドに横たわる男と、彼の手を握りしめたまま眠るミレーユ。薬指に嵌められた指輪の色は暗澹としているのに、その虚さが彼女によく似合っていると思ってしまった。
近づいて触れる頬は、柔らかくまだ温かい。指先を通じて伝ってくるその感触が、リシェルを微かに震わせる。
「どうして……」
掠れた先の言葉がリシェルの唇を突くことはなかった。どうしてこんなことをしなければならないのか、どうして自分なのか、どうしてミレーユなのか、どうしてこのナイフなのか。
どうして彼女は、自分よりも愛を選んだのか。
演奏家として最も不要な感情に、どうして溺れてしまったのか。
問いかけたい相手は深い眠りについたままだった。答えを聞きたいのに知りたくなくて、強く頭を振る。
ミレーユの首筋にナイフを当てれば、皮膚の滑らかさとその下を流れる血管のとくとくとした鼓動を感じた。
自分は所詮、ただの演奏家。だから——躊躇わない。
差し込む月の光がナイフに反射する。手に走るのはすっかり慣れた軽やかな感触。
——あの夜から、愛はリシェルが最も嫌いな言葉になった。




