苦き追憶の練習曲《エチュード》1
無言のまま離宮に戻ったリシェルは、ケイにドレスを脱ぐのを手伝ってもらったあと、準備されていた浴室に飛び込んだ。
豪華な浴槽に身を沈めながら、深々と息をつく。熱いお湯が手足のこわばりを解きほぐしてくれるのを感じても、疲労感は未だ消えなかった。
ちゃぷんとお湯を揺らせば、飛び散った雫が顎に跳ねる。ディランが触れた、リシェルの顎。
だが自分はその手を振り払った。そのことが澱のように溜まって、じくじくと古傷に染み入った。
自分は間違ったことを言っていないという自負がある。ヴィクトリアの思いなど知ったことではないし、ディランのそれだって同じだ。互いにまだ未練があるなら、浮気するなり自分と別れた上で再婚するなり、好きにすればいい。ただし彼は自分の楽器だから、演奏するのはこちらの仕事だが。
『僕を殺したいなら、僕を愛さなくてはいけないよ』
何度も聞かされた夫の世迷いごとのような台詞が耳元で聞こえた気がして、先ほどよりも強く湯面を叩いた。
「ふざけるんじゃないわよ! 愛なんて……誰が、信じるものか」
その言葉は、徹底的に切り刻んであの場所に捨ててきた。墓標すら用意されなかった、あの子の元に。
『——ずっと一緒よ、リシェル』
耳元で残響のように鳴るのは、夫よりもはるかに軽やかで高い声。あの日も今日のような美しい月夜だった。凪いだ風は何ひとつ動かすことなく、とっくに事切れた男性の傍で、死んだように眠るあの子の微かな呼吸音だけが、ベッドルームに残されたただひとつの現実だった。
それを摘み取ったのは、紛れもなく自分。彼女を殺して、愛を捨てたあの日から、リシェルの心はずっと凪いだままだ。
◆◆◆
ミレーユは黒鍵でリシェルが一番懐いていた姉貴分の女性だった。歳はリシェルより二つ上とされている。黒鍵メンバーは全員が孤児のため、本来の歳がはっきりしていない者もたくさんいた。
黒鍵の演奏方法は多岐に渡る。闇世に紛れて一瞬でターゲットを殺めるタイプの演奏家もいれば、誰かになりすまして相手の懐に入り込み、時期を待って行動に移す長期型の演奏旅行に出る者もいる。
リシェルやミレーユは主に後者の演奏家としての教育を受けた。中でもリシェルのような見目良い存在や、ミレーユのように愛らしさや品が感じられる子どもたちは、貴人に扮する目的で、本来の演奏技術のほかに貴族令嬢としての嗜みや教養を徹底的に叩き込まれた。
白鍵合唱団も黒鍵も、少数精鋭の集まりだ。同時期に訓練を受ける子どもたちの数はそう多くはない。
だから歳の近い二人の少女が仲良くなるのは必然だった。リシェルより二年早く黒鍵入りしたミレーユの方が先輩だが、身体能力だけはずば抜けていたリシェルが追いつくのにそれほど時間はかからなかった。
「リシェルはあっという間に上手になるのね」
「ほんと? 私、上手になった?」
仕込んだ暗器を素早く取り出して的を狙う遊びをしている中で、三回続けて正鵠を射たリシェルに対し、ミレーユが目を丸くして微笑んだ。
「うん、とっても。その調子で毒の調合も頑張って覚えようね」
「ええぇぇっ。お勉強、キライなのにぃ」
頬を膨らませる自分の頭を「しょうがないわねぇ」と笑いながら撫でてくれた温かな手。リシェルに優しくしてくれた大人も大勢いた中で、それでもミレーユの手はリシェルにとって特別だった。
初演奏に出る前夜、二人で訓練場の塔に忍び込んで見上げた空にも、丸い月が浮かんでいた。
「ようやく演奏の出番が回ってきたわ! 私、頑張る。それでマキシム神父をぎゃふんと言わせてやるんだから」
拳を振り回すリシェルを見て、清楚な立ち振る舞いがすっかり板についたミレーユが珍しく吹き出したのを合図に、リシェルもまた声を殺して笑い出した。
「うまくいったらご褒美にミレーユのパンケーキ、こっそり食べさせてよね」
「わかったわ。また二人で厨房に忍び込みましょう」
淑女然とした彼女の隠された特技が実はパンケーキを作ることだというのは、二人だけの秘密だ。貴族令嬢が料理などするはずもないから、そもそも二人はその手の教育を受けていない。
だが模倣学習が抜群に得意だったミレーユは、訓練の合間に厨房に出入りしては、料理人たちの様子を眺めるだけで調理法を覚えてしまった。
手先の器用さと逃げ足を誇るリシェルが厨房に忍び込んで材料をくすね、部屋で混ぜ合わせたあと、再び厨房に舞い戻って調理する。薄いパンケーキはすぐに火が通るので、出来上がるのに大して時間はかからない。
一度盛大に鍋を蹴り倒したリシェルが見つかってしまい、嫌な笑顔を浮かべたマキシム神父にこってり叱られたときも、お腹を空かせた自分の単独犯だと偽って、ミレーユを守りきった。
だからパンケーキ大作戦はまだ決行できるはずと、彼女にせがんだのだ。
「無事に帰ってきてね、リシェル」
「当たり前でしょ。ミレーユみたいにちゃんとうまくやってみせるから」
指切りをしながら、月明かりの下、どちらからともなく肩を寄せ合う。
「ミレーユがいるから頑張れるよ」
「私も、リシェルがいるから頑張れる」
「いつか一緒に演奏旅行に行けるといいね」
「そうだね。一緒がいいね」
月が見守ってくれた約束は、残酷にも六年後に叶うことになる。
「今回の楽器は二人。ミレーユとその恋人です」
「……は?」
新たな演奏依頼をマキシム神父から知らされたリシェルは、眉根を寄せた。
「いったい何を言ってるんですか、神父様」
「ミレーユが裏切りました。半年前に演奏旅行に出かけたっきり、未だ戻ってきていません。本来なら一ヶ月で終わる旅行です」
「それは……何か不測の自体が起きて手間取っているのかもしれません。演奏家は一度演奏旅行に出れば、黒鍵とは連絡を取ってはいけないことになっていますよね。ミレーユはその教えを守っているだけでは……」
「確かな筋の情報です。ミレーユはどうやら楽器を愛してしまったようです。没落した男爵令嬢を装って侯爵家に侍女として潜り込ませましたが、そこで当の侯爵と恋仲になって絆されたようです。裏切り者の排除は何よりも優先せねばなりません」
糸のような瞳に鋭さを纏わせた神父が、冷たく言い切った。
「今回の演奏家はリシェル、あなたです。よいですね」
「な……っ、なんで……」
「演奏方法は任せますが、確実に息の根を止めるように。それとも……あなたには荷が重いですか? それなら代役に任せましょう。見せしめの意味も兼ねて、出来うる限りの過激で残忍な演奏を選ぶよう、しっかり言い添えてね」
「————っ!」
悲鳴を上げられなかったのは、神父がリシェルの顎に手を伸ばして口を塞いだからだった。
「私は何度もあなたたちに教えてきました。楽器は所詮楽器、決して絆されてはならないと。言いつけを守らなかったのはミレーユです。さて、あなたはどうしますか、リシェル」
同じ穴のムジナに身を落としますかと、重ねて問われ——顎を押さえつけられたリシェルは頷くよりほかなかった。




