すれ違いの哀歌《エレジー》
歌劇場から離宮へと戻る馬車の中。リシェルの正面にはディランが座っていた。
「遅くなったけど、今日の装いは一段と綺麗だね、リシェル」
そう言って微笑む夫の格好は実用的な方の軍服姿だ。多少埃っぽいところを見るに、急いで戻ってきたというのは本当のようだ。
「お褒めいただきありがとうございます。アゼルはどうしたんですか」
「先に離宮に戻ってるよ」
「本当に、二人だけで帰ってきたんですか。部下たちを置いて」
「その方が身軽に動けるからね。あとはロートレイに任せてきた」
今一番聞きたくない名前を耳にして、ぴくりと身体が反応する。それに気づいたのか、ディランがおもむろに手を伸ばしてきた。
リシェルの顎をそっと這う彼の指。この人の手はなぜいつも冷たいのだろう。
「……何か」
触れるだけ触れてそれ以上何も発さない夫に投げた言葉は、思っていた以上に固く響いた。誰にも気兼ねしなくていい馬車に移動しても、蓄積した疲労感は消えないままだ。
「それで、初めての公務はどうだった? 評判の合唱団の演奏は堪能できただろうか」
「演奏は素晴らしかったのだと思いますが、私には音楽の素養がないので、情熱的な感想を求められても困ります」
「それは僕も同じだな。ほかには? 合唱団の関係者に挨拶くらいはされたんだろう?」
「……何が聞きたいんですか」
誘導尋問のような問いに、疲れていた脳が一気に覚醒した。今回の公務は彼からもたらされたものだったと、痛烈なまでに思い出して身を引き締める。
自分たちが聖主国とつながっていることを、この人は気づいているのだろうか。
失敗続きで、当初の予定から大幅に狂った演奏になっている自覚はある。それをなぜか夫が許して、追求しないでいてくれることも。
だが、これ以上踏み込まれてはたまらない。自分は骨の髄まで黒鍵の人間だ。
眉根を寄せて拒絶すれば、ディランは「なんでもないよ」と手を引っ込めた。
(さっきは助けてくれたと思ったのに……)
周囲からの不躾な視線に晒される中、少なくともひとりではないと安堵した時間が、すでに遠く感じる。
彼はただの楽器。いったい何を期待したのだろう。自分たちが心を通じ合わせるなんてこと、起こるはずもないのに。
ため息をつく元気すら残っておらず、つい顔を背けてしまったリシェルを、ディランが揶揄うように笑った。
「ずいぶんお疲れのようだね」
漂うその響きに、ただ音楽を聞いていただけのくせにと言われたようで、カチンときてしまった。
「だから? 遠方から早駆けで戻ってきた自分と比べて、吹けば飛ぶようなつまらない仕事でこんな体たらくなのはおかしいと、そう言いたいの?」
「まさか。そんなこと思いやしないよ」
「どうだか。だいたいあなたも性格が悪いわよね。ナタリエ様が同席するなんて、一言も言ってなかったじゃない」
「それは……向こうから頼まれてね」
「頼まれたら宿敵の願いでもほいほい聞いてあげるわけ? それなら新妻の願いだって聞いてくれていいんじゃないの? さっさと死んで」
電光石火の早業で扇から針を取り出したリシェルは、飛びかかりざま夫の延髄を容赦無く狙った。だが相手の皮膚を貫くより早くその腕を掴まれた。
「放しなさいよ、なんで避けるの!」
「どうせ死なないよ」
「わからないわよ、試させなさいってば!」
「痛い思いだけして終わるのがわかってるのに嫌だよ。なんでそんなにイライラしてるの」
軍人の彼と力比べをしたところで敵うはずもない。あっさり針を取り上げられ、ぎりりと歯噛みする。
ご丁寧にハンカチを取り出して針を包んだディランは、それを大事そうに胸ポケットにしまった。
「何度も言ってるだろう。僕を殺したいなら、僕を愛さなくちゃいけないって。慈愛の女神の呪いは絶対だ。僕だって死ねるものならさっさと死にたい」
まるで自分に何一つ咎などないと言わんばかりの口ぶりに、リシェルの怒りがとうとう爆発した。
愛なんて——この世で一番嫌いな言葉だ。
「そんなに愛してほしいなら、ヴィクトリア嬢に頼めば? 私よりよっぽど上手に殺してくれるんじゃないの」
「なんでここでヴィクトリア嬢が出てくるんだ。彼女は怪我で療養中だよ」
「歌劇場に来られるくらいなんだから、十分お元気でしょうよ!」
「ヴィクトリア嬢が? 来てたのか?」
ディランが眉を上げて赤い瞳を丸くする。本気で驚いているところを見るに、彼女の来場は彼にとっても寝耳に水だったようだ。
ならばここで彼女のことを当てこするのは筋違いだったかと、一瞬口籠る。だが次に彼が発した言葉に、リシェルの忍耐は呆気なく崩壊した。
「彼女はどんな様子だった? 元気にしてただろうか」
「そんなに気になるなら自分で確かめればいいでしょう!? 私に聞かないで!」
ヴィクトリアは明らかにリシェルのことを嫌っていた。嫉妬の矛先がお門違いすぎて笑いたいのに、何もかも飲み下して微笑まなければならなかったのは、いったい誰のせいだと思っているのか。そんなことにも気づけない夫のデリカシーのなさに、怒りが腹の底でぐずぐずと渦巻いた。
リシェルのそんな心情や疲労をよそに、ディランは長い息を吐き出しながら額髪をかき上げた。
「僕の立場で彼女を訪ねるわけにはいかないだろう。だから君に聞いたんだ」
「昔の恋人のお見舞いにも行けないだなんて、皇子というのはずいぶん窮屈ね」
「ただ婚約の打診があっただけだ。それも向こうが取り下げたと、以前説明したよね」
「嘘おっしゃい!」
「嘘じゃないよ。彼女が僕の恋人になるなんてありえない。ヴィクトリア嬢に僕が殺せると思うか? 無理だろう。初めから相手にはなり得なかった」
「殺せなくても愛することはできるんでしょうよ。私にお門違いな嫉妬を繰り出すくらいだから、今でも未練たっぷりのようだもの。私が狙われた馬車の事故だって、彼女か父親の仕業なんじゃないの?」
勢いに任せて言い放った言葉を、ディランは「まさか」と切り捨てた。
「馬鹿な。彼らが君を狙うわけがない」
「あなたの立場で誰かを無条件で信頼するだなんて、ずいぶん浅はかね。よっぽどヴィクトリア嬢のことがお気に入りなのかしら。あぁでも……」
ヒートアップした感情は収まることを知らず、渦巻く感情は行き着くところまで行き着いて、相手に刃を突きつけた。
「あなたは人を愛せないんだったわね。むくわれない片想いの挙句、事故に巻き込まれたヴィクトリア嬢は本当に哀れだわ」
「……言い過ぎだよ、リシェル」
再び伸びてきた彼の手がまたしても顎に触れる。先ほどの冷たさはそのままに、今度はやや乱れた手つきで。
その手を払いのけた瞬間、馬車が離宮に到着した。薄暗い馬車内で爛々と光る赤い瞳とは裏腹に、彼の表情はどこまでも静かなままだ。
交錯するのは視線だけではない、過去、現在、感情、境遇——自分と彼とは住む世界も未来も違うのだと、突きつけた刃がそのままの勢いで返ってくる。
馬の小さないななきが月夜に響く中、リシェルはすべてに背を向けて先に馬車を降りた。
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哀歌
悲しみの気持ちを歌った曲




