愛を知らぬ者同士の間奏曲《インテルメッツォ》
リシェルが出ていく姿を見送ったナタリエは、ヴィクトリアの護衛兼介添人に少しだけ外すよう命じた。二人の仲の良さを知っている彼は、素直に入り口付近まで下がる。
「それで、ヴィクトリア。リシェルお義姉様はあなたの目にどう映ったのかしら」
「……とてもお綺麗な方ね」
「ふふっ。そうね。でも、あなたも十分綺麗よ」
ラベンダー色の緩やかな巻き毛にシルバーグレイの瞳。侯爵令嬢らしい微笑みを浮かべれば、かつてのヴィクトリアの前にダンスを申し込む男性の列ができるのは珍しくない光景だった。
ただ当の本人に自分をよく見せようとする意識は薄く、社交界でついたあだ名は氷姫。色恋よりも学問に熱中していたヴィクトリアは、その道の研究者以外と積極的に交流することを好まず、社交場では常にナタリエの傍に侍っていた。皇太子の婚約者の取り巻きに積極的に粉をかけてくる強者はそうそういない。自分はヴィクトリアにとっていい隠れ蓑だった。
もしヴィクトリアがディランと結婚したなら、皇子二人の関係性はともかくとして、皇子妃同士は仲良くやれただろう。もっとも、ロクサーヌ皇妃はディランとロートレイ侯爵家がつながることを嫌っていたから、叶わない夢ではあった。
ではヴィクトリア以外にいったい誰が自分の義兄嫁となり得るのか。ずっと気になっていたところに現れたのがリシェルだ。彼女が伯爵家の出に過ぎないことや、敗戦国出身であることは、ナタリエにとってどうでもいいことだった。
大切なのは、“自分のことをどう思ってくれるか”だ。
肩に手を置いて窺ってみれば、ヴィクトリアは視線を入り口に向けたまま、唇を引き結んでいた。
「ディラン様のお相手が、あんな方だなんて……」
良くも悪くも無表情がデフォルトのヴィクトリアが、ここまで感情を露わにすることは珍しい。かつてディランと共に過ごしていた頃の光景が思い浮かぶ。
事故にあって以来、彼女は手紙の中でさえ、ディランの話題に触れなくなった。
「そうね。どうしてリシェルお義姉様でなきゃいけなかったのかしらね」
ナタリエもまた閉じられた扉を見つめる。
ヴィクトリアは自分にとって大切な友人だ。
公爵令嬢として皇太子の婚約者として、蝶よ花よと育てられてきた自分であるが、こと同年代の令嬢たちとのつきあいには苦戦することが多い人生だった。
良かれと思って行動したことが彼女たちを不快にさせたり、ふと口にした言葉が相手の心象を損ねたりといったことが、自分の周りではよく起きた。
なぜ皆が怪訝な顔をして離れていくのか、ナタリエにはわからない。
それでも子ども時代はまだなんとかなったが、女学校に入って社交界での活動の幅が広がると、自身の行いは悪評となってあちこちで囁かれるようになった。噂はロクサーヌ皇妃の耳にも入り、ナタリエは鋭く叱責された。
自分が未来の皇太子妃である自覚はあり、叔母であるロクサーヌに嫌われたくなかったナタリエは、どうにか挽回しようと努めたが、事態は空回りするばかり。そもそもいったい何が悪いのかすらわからない状況で、解決するはずもない。
だがあるとき、ロートレイ侯爵令嬢であるヴィクトリアが、ナタリエの言葉を拾った上で、補足するように相手の令嬢に返答してくれた。すると強張っていた令嬢の顔がたちまち和らぎ、「そういうことだったのですね」と笑顔を見せつつ、最後にはナタリエに礼まで述べた。
何が起きたのかわからず目を瞬かせる自分に、ヴィクトリアは「公女様、大変失礼ではありますが」と、今しがたあったやりとりの解釈をしてくれた。ナタリエとしては令嬢の祖母の形見だという髪飾りを褒めたつもりだったが、褒め方がまずかったらしい。
そんなつもりではなかったのにと首を振る自分を、ヴィクトリアはまじまじと見つめたあと、「公女様は誤解を受けやすい性質でいらしただけだったのですね」とため息混じりに呟いた。
それ以来ヴィクトリアはすぐ傍で、ナタリエが発した言葉の通訳をするかのように、その他の令嬢たちとの仲を取り持ってくれるようになった。ヴィクトリアと共に過ごすようになってからナタリエの悪評も消え、愛らしく素直な公女様と皆に敬われる存在へと変わっていった。
ヴィクトリアの言葉はまるで魔法だ。ナタリエが思ったことやそれ以上のことを巧みに言語化して、その場の空気を温かくしてくれる。
だからそのお礼にと、彼女が本当は社交よりも学問に興味があることを知ったナタリエは、その話に付き合ってあげることにした。ナタリエの成績は中の上といったところで、才媛と名高いヴィクトリアの話は十分の一もわからない。ただ、わからない話に相槌を打って聞き入ることは得意だった。
なぜなら幼い頃から両親も兄もロクサーヌ皇妃も、ナタリエに言いつけ通りにするよう求めてきたが、その意味を咀嚼することまでは求めてこなかった。素直に頷きさえすれば、彼らはいつだって満足してくれた。
ナタリエは家族のことが好きだ。彼らは自分に価値を見出し、自分に役割をこなすことを求めてくれる。
必要とされていることが心地良いナタリエは、だからこそ彼らに何かを返したいと思ってきた。返したいし、彼らが大切に思っているものは自分も大切にしようと決めている。
ナタリエが気に入らないのは、自分のことを取るに足らないと無視する人間だ。
「……わたくしは初対面のときから、お義姉様に好かれていないみたいなの」
カイオスの突然の思いつきで、ロクサーヌ皇妃の面前に連れ出されたあの日は、状況が状況なだけにリシェルと会話することもままならなかった。だからこそ、邪魔の入らない今日は仲良くできるのではないかと期待した。
だがリシェルは徹頭徹尾自分という存在に目を向けようとはしなかった。途中、それぞれの伴侶を愛しているかという話題のとき、一瞬だけ興味を引くことに成功したが、ヴィクトリアの登場で意識はすべてそちらに持っていかれた。
「あの方はわたくしのことを見向きもしなかった」
もしヴィクトリアよりも役に立ってくれる存在なら、リシェルに協力してあげてもいいと思っていたが——そうはならないようだ。
ロクサーヌ皇妃は自分を見てくれる。
ヴィクトリアは自分の役に立ってくれる。
(二人がお義姉様のことを疎ましいと思っているなら……協力してあげなくちゃ)
その一心で出来ることに取り組んできたが、馬車の事故に見せかけてリシェルを亡き者にすることは失敗してしまった。送り込んだ公爵家の犬たちも、大した役にはたっていない。
(叔母様はよいモノを託してくれたけれど、品質を維持するのは難しいのよね……)
それでも、自分のことを認めてくれる人たちのために努力は惜しまないつもりだ。コツコツと研鑽を積む姿勢は、長年の皇太子妃教育で身についているから苦ではない。
この気持ちがいったいなんなのか。少なくとも愛とやらではないのだろう。
(愛がなんなのかはわからない。でも欲しいモノはあるし、好き嫌いもある。私の血は生粋の皇家と違って、ずいぶん濁っているみたい)
演奏の余韻漂う歌劇場で、ふと己の胸を過ぎる難題に首を傾げる。自分はあまり賢くはないから、この難題の答えに行き着く日は永遠にこないだろう。
大して旨みのない夜だったと結論づければ、今日という日は自分の中でただの過去になった。求められていた皇太子妃の公務はつつがなく終了できそうだ。
カイオスは今頃何をしているだろう。普段は妻の公務など一切気にしない彼が、珍しく今日の予定を確認してきたことを思い出す。
閉じた扇を握りしめれば、みしりと乾いた音がした。
◆◆◆
劇場支配人と別れ楽屋に戻ったマキシムは、銀色の帯を外して鏡台の前に腰掛けた。
一筋乱れた髪を掬って撫で付けながら、先ほど再会した教え子とのやりとりを思い出して、意味深に笑う。
(見てくれは合格点でしょうか。きちんと皇子妃を演じられていましたね。少々馬鹿っぽいところが残っていたのも、あの子らしいと言えばあの子らしいです)
何せ黒鍵が総力を上げて育てた貴人向けの演奏家である。本人の素養が少々残念であっても、一国の中枢を騙せる程度には仕上がっている。
どれだけ手荒く扱われても食らいついてくるリシェルのしぶとさを、指導者であるマキシムは案外気に入っていた。
長年この仕事をしていれば、いろんなタイプの子どもに出くわす。黒鍵の歴史に名を刻むような優秀な演奏家もいたし、演奏技術は大したことなくとも譜面作成や楽典が得意だったり、優秀な譜めくり係に育ったりといった例も多くある。
黒鍵では子どもたちに安易な洗脳教育を行わない。長い歴史の中ではそうした時代もあったようだが、理想の演奏家に育たず、方針転換を求められることになった。
マキシムをはじめとする今の指導者たちは、子どもをかわいがり慈しむことを徹底している。その上で必要な演奏技術を厳しく教え、完遂することの意義とやりがいを育む。黒鍵が目指す教育の形は“よく遊びよく殺せ”だ。
ただ、一流の演奏家を目指す過程で、彼らはどうしても排他主義になりがちだ。他者よりも自分が認められたい、一番になりたいという欲も湧いてくる。演奏することを厭わず、むしろ推奨される世界で大人になった子どもたちは、良くも悪くも自身へ与えられる称賛が他者への興味関心を簡単に凌駕してしまう。
だがリシェルは違った。どれだけ冷徹な思考を植え付けても、厳しい訓練を課しても、他人への強い興味を失わない子だった。演奏技量が明らかに上な仲間に蔑まれて「絶対に見返してやる」と訓練に力を入れることはあっても、相手を憎んだり陥れたりといった方向には決して振れなかった。
踏みつけてもしぶとく折れぬ剛鉄の精神とずば抜けた身体能力に、マキシムは強く期待した。彼女ならば、自分が長年あたためてきた壮大なる夢幻の曲を演奏してくれるのではないかと。
期待したがゆえに課したいくつもの試練を、彼女はあらゆるものを壊しつつ守りながら乗り越え、ここまで生き残ってきた。
(あなたはなぜ自分がディラン皇子の暗殺者に選ばれたのか、わかっていないのでしょうね)
磨かれた鏡の中に映るのは、仮面を被った己の姿。胸に下げるメダルに刻印される慈愛の女神のレリーフが、楽屋の淡い照明を受けて鈍く光る。
マキシムの演奏はずっと昔から始まっていた。問題は、誰が、いつ、どのように終わらせるかだ。
(依頼の目的に気づき、その殻を破ったとき、あなたは真の黒鍵のエースになるんですよ、リシェル)
かつての姉弟子を殺したときのように、彼女が一段と花開く様子をこの目で見ることができれば、自分もまた愛の意味を知るのかもしれない。
女神の僕たる己に、これ以上の名誉があるだろうか。
来るべき日を期待しながらメダルを強く握りしめ、マキシムは恍惚とした笑みを浮かべた。




