眠れぬ歌劇場の夜想曲《ノクターン》5
「エルネスト皇国皇太子妃殿下と第一皇子妃殿下に、慈愛の女神様の恩恵が降り注ぎますよう。忠実なる女神の僕、マキシム・ドレイヴンが両妃殿下に祝福を捧げます」
神父らしい口上を述べながら、銀色の司祭服を隙なく着こなしたマキシム神父が恭しく首を垂れる。
「慈愛の女神様の祝福に感謝申し上げます」
ナタリエが膝を折れば、神父が彼女の頭上に手を翳した。
皇族の身分は一介の神父よりはるかに上だが、聖主国大聖堂に所属する役職付きの神父となれば別だ。彼らと皇太子妃であるナタリエの身分はほぼ同等となる。聖主国トップの聖下は、各国の皇帝や国王と同列とされる。
ナタリエが祝福を授かった流れで、自分だけ断るという選択肢は取れない。いろいろ諦めてやけになったリシェルもまた、彼と目を合わさないようにしながら膝を折った。
祝福を与えると見せかけて、プチっと切れた神父がたまにするように頭をはたいてくるかもと身構えたが、さすがに他人が同席している場でそのような愚行を犯す人ではなかった。
すんなりと形通りの挨拶が終わった先で、改めてナタリエが笑顔を見せる。
「エルネスト皇国へようこそ。国を代表して神父様と白鍵合唱団の皆様を歓迎いたします。とても素敵な演奏で、心が洗われるようでしたわ」
「皇太子妃殿下にそのようにおっしゃっていただけること、大変ありがたく存じます。今回の公演メンバーは十四歳以下の子どもたちで構成されておりました。上級生が不在という中、プロの演奏を聴き慣れておいでの皇家の皆様には物足りないのではないかと、心配しておりましたゆえ」
表向きは同列とされても、数いる神父と皇太子妃が真の意味で同じとはなりえない。マキシム神父は視線を完全には上げず、胸の前で両手を重ねた聖職特有の恭順の姿勢を崩さなかった。
あれこれ問題のありそうなナタリエの方も、一応は皇太子妃。このような儀礼的な挨拶の場は踏み慣れているのだろう、淀みなく会話を続ける。
「プロの演奏も素晴らしいものではありますが、子どもたちが健気に歌う様はまた別格ですわ。さすがは聖主国が誇る合唱団。普段マキシム神父がどのようなご指導をなさっておられるのか、とても興味が湧きます」
「指導法ですか。特に珍しいことをしているわけではないのですが……強いて言うなら“ミスを許さない”ということでしょうか。なにぶん子どもたちのすることですから、多かれ少なかれミスはあります。それを放置せず、きちんと反省し、同じことを繰り返さないよう丁寧に指導します。子どもだからといって曖昧にはしません」
「まぁ……」
「私のことを厳しいと評する人もいるでしょう。ですが、演奏の世界は甘くはありません。今だけもてはやされて終わるのでなく、その道で大成するよう願っているからこその厳しい対応なのです」
「そうだったのですね。神父様がいかに彼らの未来を考えているのか、垣間見えた気がいたします。そのために時には厳しくすることも厭わないというのは、高尚な心がけですね」
子どもたちを導く神父が繰り広げる教育論に感銘を受けているのは、この場においてナタリエと劇場支配人だけだった。ナタリエの侍女は扉近くに控えているし、ヴィクトリアと護衛は自分たちの出る幕ではないと、空気のように無表情なままだ。
そしてリシェルは、背中に嫌な汗をかきながら微笑みを浮かべるという離れ業を維持するのに忙しかった。そのためナタリエが「お義姉様もそう思いませんこと?」と話を振ってきた際、反応が遅れてしまった。
曖昧に頷いてやり過ごそうとするより早く、視線を下げていたマキシム神父の唇が緩く弧を描いた。
「リシェル妃殿下はラビリアン王国のご出身でいらっしゃるとか。ラビリアンは厳冬の国。この国は祖国と比べてさぞかし暖かく、居心地がよろしいのでしょうね」
身じろぎすると見せかけてわずかに顔を上げた彼と視線が絡む。細い糸のような優しげな目がまったく笑っていないことを、この場においてリシェルだけが見抜いてしまった。
こうしてボックス席にまで乗り込んで、「ミスは許さん、生ぬるい環境でぬくぬくしてるんじゃねぇ」と直接示してきたその意味を履き違えるほど、リシェルも馬鹿ではない。神父も神父で、腹芸が得意でないリシェルにわからせるために、これほどストレートな言動を選んだのだろう。
わざわざ表の白鍵合唱団まで引き連れてここまで来た彼が、ただのスルーで終わるはずがなかった。引き攣りそうになる頬をなんとか持ち上げ、微笑みで返事の代わりとする。うっかり何かを口走って墓穴でも掘ろうものなら、ディランより先に自分が死体になりそうだ。
「お会いできて光栄でした。ナタリエ皇太子妃殿下、リシェル妃殿下。女神の祝福が続きますように」
わざとらしく母音を強調するようにリシェルの名を呼んだマキシム神父は、最後まで両の手を胸に当てたまま、実に神父らしくボックス席から出て行った。
(全っ然、変わってないわね。久々の教え子との邂逅だからちょっとは懐かしむとかあるかなと思ったけど、懐かしむどころじゃなかった……)
予定していた演奏が時間超過しているのは自分のせいではあるのだが、まさか与えられた楽器があそこまで規格外だとは想定していなかったわけで、事情の説明くらいはさせてもらいたかった。
だがリシェルの返事を聞かずに場を後にしたということは、一切の言い訳を許さぬという彼の意思表示だろう。
(むしろ過去のお説教と比べたら今日のはまだ薄味だったわ。今からでも演奏をちゃんと終えることができれば、これ以上詰められずにすみそうよ)
自分の役目は楽器を演奏すること。決して忘れているわけではない。
ただ、今までと同じ方法が通じないとわかってしまったから、攻めあぐねているのだ。加えて本来ならやる必要がなかった皇子妃業務にも、いろんな意味で圧迫されていた。
今もまたナタリエが、にこやかにリシェルの前で小首を傾げていた。
「お義姉様、本日はご一緒できてとても楽しかったですわ。ヴィクトリアと引き合わせることもできて良かったです」
「こちらこそ、ナタリエ様とヴィクトリア嬢にお会いできましたこと、慈愛の女神様の思し召しに感謝申し上げます」
聖主国の孤児院育ちの自分に、慈愛の女神は揺るぎない絶対的な象徴として刷り込まれている。ただ、今だけは当てこすってやりたい気持ちでいっぱいだ。
「ヴィクトリアはお義姉様のよき理解者になってくれますわ、きっと。そうだわ、今度三人でお茶会をしましょう! ヴィクトリアも歌劇場に来られるくらい回復したのだから大丈夫よね? ずっとお城に呼べなくて寂しかったの。お義姉様もお呼びするから、ね?」
楽器の命を狙う身内を持つ女性と、楽器の婚約者候補だった女性とのお茶会。強烈なパワーワードを前に、誰が行きたいものかと思考を凍らせる。自分の仕事内容から大きく逸脱している誘いに、けれどリシェルは頬をひくつかせる程度の抵抗しかできない。
一方でシルバーグレイの瞳を軽く伏せたヴィクトリアは、消え入りそうなほどの細い声で「……楽しみにしております」と呟いた。皮肉にも彼女と心情が一致する。
さすがの才媛も、今の親友の発言をフォローする手段を思いつかなかったようだ。かくなる上はこの馬鹿馬鹿しい企画が実行に移されないことを女神に祈るしかない。
ヴィクトリアとまだ話し足りないとのことで、リシェルだけ先にボックス席を出ることになった。扉の向こうで待ち構えていたケイと目が合い、安堵するのと同時にどっと疲れが押し寄せてきた。
まだ人目がある。今ここですべてをケイにぶちまけるわけにはいかない。離宮に戻れば鬱憤を晴らせるはずだが、なぜかその元気が湧いてきそうになかった。
劇場の入り口を目指す道すがら、第一皇子妃にあちこちから寄せられる視線は、良くて好奇心、悪くて蔑み。ひとつとして好意的なものはない。ケイはさすがに味方してくれるが、あくまで気の合う仕事仲間という関係で、それ以上にはなり得ない。
はたして今日という夜を穏やかに終えられるのだろうか。身体は何ひとつ無理をしていないのに、この疲労感はどうしたものだろう。
そんなことを考えながら目を伏せた自分に、「リシェル」と呼びかける声があった。
はっと目を見開けば、夜を背景に佇むディランの姿があった。
「嘘でしょう。だって出張だって……」
だが、ヒールを履いたリシェルが見上げるほどの長身と、夜に映える白い髪と赤い瞳を見紛うはずがなかい。そもそもこれほど美しい人間が二人といるはずもなかった。
「新妻の初の公務だからね。僕だけ演習を早めに切り上げてきたんだ」
だけどせっかくの演奏には間に合わなかったなと、申し訳なさそうに笑う。
妻の初仕事には付き合うべきだと、ご自慢の教本にでも書いてあったのだろうか。そう思ったが、そんな皮肉が口を突いて出ることはなく。
彼が差し出した手に——縋るように掴まってしまった。
そのまま腰を抱かれて湧き上がるのは、恐怖でも不埒な色でもなく、不似合いなほどの安心感。
なぜ自分がこんなにもほっとしているのかわからない。そのわからない感情にひたすら戸惑い、縋りつく手にさらに力がこもってしまう。
途方に暮れる自分の横で、夫がふと夜空を見上げた。
「ご覧。よい夜だよ、リシェル」
満月が照らすのは馬車でごった返す劇場の門。だが騒がしい地上に対して、空には澄んだ空気とまろやかな月の光が満ちていた。
二月の空気は未だ冷たさと鋭さを孕んでおり、周囲の好意的とは言えない視線も変わることはない。
だがこのとき、リシェルはひとりきりではなかった。自分の手を取ってくれた夫の温度は、どれほど冷たくとも嘘がないように思えて。
それが心地よいと、感じてしまった。
****
夜想曲
「夜の」という語源を持つとおり、夜の情景を想起させる曲




