眠れぬ歌劇場の夜想曲《ノクターン》4
車椅子姿のヴィクトリアも、空気の読めないナタリエも、さすがに公演中は声をかけてくることなく、演奏に聴き入っているようだった。
リシェルもまたいろいろ思考が騒がし過ぎたせいか、寝落ちすることなく耐えきることができた。後半こそは出てくるかと身構えていたマキシム神父が舞台に上がらなかったことも幸いしたかもしれない。
もしやこのままスルー(=現状維持で継続)でいいという神父の意思表示かもという期待は、しかしながら最後の最後で裏切られることになった。
無事終幕を迎え万雷の拍手が送られる舞台に、アンコールに応えるべく子どもたちが再度並び立つ。
白いローブに身を包み、晴れやかな表情を浮かべる彼らを背に現れたのは、聖主国大聖堂所属の高位聖職者のみに許される、銀色の司祭服をまとったその人だった。
オールバックにした一分の乱れもない青い髪、糸のように細い薄青の瞳。見るからに清廉で真っさらな印象を振り撒く彼は、神父であると同時に優れた音楽指導者としても名高い。
だがリシェルからすればそれもただの隠れ蓑。黒鍵を率いる裏の顔こそが彼の本職だと、嫌というほど知っている。彼の容赦のない指導と依頼は、ちょっとやそっとのことでは消えないレベルで、リシェルたち演奏家の骨の髄まで染み込んでいる。
白鍵合唱団の総監督であり、暗殺組織黒鍵の首領でもあるマキシム神父は、優しくも厳しい人だ。白鍵にせよ黒鍵にせよ、飴と鞭を使い分ける巧みな指導で、内外から絶大な信頼を得ている。
育てられた子どもたちの多くが彼の指導に時折涙を見せながらも、彼の眼鏡に叶う演奏家になろうと研鑽を積んでいた。白鍵のことまでは知らないが、黒鍵では長じてからも彼を指揮者として皆が仰いでいる。
リシェルもまた間違いなく、彼の忠実な教え子のひとりだ。だからこそ今の体たらくが神父の目にどう映るのか、気になって仕方ない。
ぶるりと震える己の視線の先で、マキシム神父はくるりと聴衆に背を向けた。彼の指揮のもと、グランドピアノが本日最後となる曲の前奏を奏で始める。
舞台にあがっているのは十代前半と思しき子どもたちばかり。彼らは歌劇場の豪奢な灯りを瞳にきらきらと反射させながら、澄んだ声で高らかに歌い出した。
***
ネズミを見つけた、ネズミを見つけた
猫がネズミを見つけたよ
猫がネズミを狙ってる
猫がネズミを追いかけて、ネズミは猫から逃げ惑う
猫がネズミを追い詰めて、ネズミは猫に噛み付いた
だけども猫が一枚上手
ちゅう、と鳴いてももう遅い
ネズミは猫に食べられた
猫にぱくっと食べられた
***
リズミカルな演技まで交えながら輪唱する子どもたちの様子に、客席からもクスリと笑い声が漏れた。ボックス席でもナタリエが「かわいらしいわ」と感想を漏らしながら扇を翻す。
だがリシェルには笑う余裕などなかった。どこからどう見てもネズミを追い詰めて嬲る歌にしか聴こえない。
舞台に姿を見せず相手を油断させ、最後の最後に現れてトドメを刺すなど、さすがは暗殺集団の首領というべき鬼畜っぷりだ。温厚に見せかけて容赦のない彼の演出に、震えを通り越して命の危険すら感じる。
ネズミ取りの歌を指揮し終えた神父が、再び聴衆へと向き直って最後の礼をした。拍手喝采の中、ゆったりと視線をあげ、糸のような目をボックス席へと向ける。
「今宵は皇太子妃と第一皇子妃が見えているからな」
「白鍵合唱団のマキシム神父も、お二人に敬意を表しておられるのでしょうね」
そんな囁きが地上で繰り広げられていることを知る由もないリシェルは、神父の薄青の瞳に晒され、あげそうになった悲鳴を必死に飲み込んだ。
(この距離でなんで私がここにいるってわかるのよ。相変わらず嫌な身体能力してるんだから……!)
彼の目はなんでも見通す女神の目だとよく言われていた。リシェルが子どもの頃に繰り広げたイタズラの数々や失敗を誤魔化した形跡はことごとく見破られ、その都度反省を求められた嫌な記憶が蘇る。
(でも、さすがに今日はこちらに近づけないでしょう。今の私は第一皇子妃。このボックス席は警備も厳重よ。神父様といえど、歌に託して釘を刺すのがせいぜいのはずよ)
彼に直接相対しなくていいのなら、これ以上恐ろしいことにはならない。ふふん、と機嫌よく鼻を鳴らしていると、皇家のボックス席に劇場の支配人が訪れた。
「白鍵合唱団の総監督でいらっしゃるマキシム・ドレイヴン神父が、妃殿下方にお礼の挨拶を申し上げたいそうです」
不遜な考えに染まった自分に、女神の鉄槌が下されたのか。あまりの急転直下にリシェルの表情筋がぴしりと固まった。




