眠れぬ歌劇場の夜想曲《ノクターン》3
「第一皇子妃殿下にお目通り叶いますこと、慈愛の女神の思し召しに感謝申し上げます。ロートレイ侯爵家長女、ヴィクトリアと申します。左足に障害がありまして、適切なご挨拶もできず申し訳ありません」
車椅子でボックス席にやってきたヴィクトリアは、護衛兼介添人と思しき男性の手を借りて立ち上がった。クリーム色の装飾の少ないドレスで隠されてはいるが、明らかに右足重心でなんとか姿勢を保とうとしている様子が窺えた。
「どうぞおかけになってください、ロートレイ侯爵令嬢」
「そうよ、ヴィクトリア。わたくしもリシェルお義姉様も気にしないわ」
「妃殿下方のお優しさと慈悲の心に感謝申し上げます」
再び護衛の手を借りて車椅子に座したヴィクトリアは、その理知的な顔をすっと上げた。
「ヴィクトリア、こちらがリシェルお義姉様よ」
「はじめまして、リシェルと申します。ヴィクトリア嬢とお呼びしてもかまわないかしら。以前お父上でいらっしゃる侯爵にはお会いしたことがあるのですが、雰囲気が似ていらっしゃいますのね」
初対面の目上の相手に対して微笑みひとつ見せず、シルバーグレイの瞳でまっすぐにこちらを射抜く姿勢などは特に、とさすがに口に出すほど愚かではないので、貼り付けた笑みを浮かべて本音を押し隠す。
「リシェル妃殿下におかれましては、我が父のことまで気にかけていただき、感謝申し上げます」
「ロートレイ軍団長はディラン殿下の腹心でいらっしゃいますもの。これからも殿下を支えていただきたいわ」
そして自分には関わらないでほしい、どうせ短い期間でいなくなる仮初の妃殿下なのだからと、言外な本音は伝わらないにしても念を押しておきたかった。
彼女が未だディランを慕っていたとしても、軍団長が娘の輿入れを諦めていなかったのだとしても、リシェルには関係のないことだ。
それなのに心がざわつくのは、ここの空気が合わないせいだ。そうに違いない。
「ヴィクトリアとわたくしは女学校時代の同級生なんですの。彼女はとても優秀で、出来の悪いわたくしはいつも助けられていましたわ」
「ナタリエ様、そんなことおっしゃらないでください。ナタリエ様のお心は清廉で、とても正直でいらっしゃるのですから。生まれながらの高貴なお立場も相まって、上級生からは一目おかれ、下級生からは憧れの目で見られておりました」
ナタリエのことをそう評しながら、ほんの少しだけ頬の緊張が緩むヴィクトリアを見て、なるほど、この二人が仲が良いというのは本当のようだと納得する。
「お義姉様、ヴィクトリアは女学校を早期卒業してアカデミーに入学するほどの才媛なんですのよ」
「まぁ、アカデミーと言いますと、エルネスト皇国の最高学府ではありませんか。ご令嬢は本当に優秀なのですね」
「たまたま枠が空いていたに過ぎません。それに、今はこのような形で休学しておりますので」
微かに身じろぎしながらヴィクトリアが答える。エンパイア型の締め付けのないドレス姿ではあるが、片足が不自由な身でこのような場所に長くいるのは大変ではないだろうかと、顔色を伺う。
腹に逸物ある相手とはいえ、リシェルも人非人ではない。こちらの顔を拝みたいだけなら用は済んだはずだと、今度は招待主であるナタリエの顔色を伺ったが、彼女はただ無邪気に今の状況を楽しんでいるようだった。
「親友である彼女のおかげで、わたくしは女学校時代をつつがなく過ごせたようなものなのです。一年前に大怪我を負って社交界から遠ざかってしまったのが本当に残念で」
「私にとってはいい言い訳になりました。思う存分、勉強に時間が避けるようになったのですもの。ナタリエ様も皇太子殿下とご成婚なさってから、そう簡単にお会いできるお立場でもなくなってしまいましたし」
「本当に。わたくし、もっと頻繁にあなたに会えるのだと思っていたわ」
今の言葉は「ヴィクトリアがディランの妻になれば、頻繁に行き来ができたのに」という裏のメッセージともとれるもの。
だが、眉尻を下げて告げるナタリエの表情に裏があるようには見えなかった。仮にこれが演技なのだとしたらある意味、一国の皇太子妃として十分な素質を備えていると言える。
ナタリエはそれほど頭も要領もいいタイプには見えないから、そんな意図をこめてはいないだろう。腹芸の苦手なリシェルですら気がつくことに、この皇太子妃はどうあっても無頓着だ。
ではヴィクトリアはどう反応するかと伺えば、微かに緩んでいた頬を引き締める様子があった。
「……今はリシェル妃殿下がおいでではありませんか。エルネスト皇家の未来を支える麗しい妃殿下方の存在に、皆が注目しております」
ナタリエの言葉が孕む嫌味に気づいたのであろう彼女は、見事に己に降りかかりそうな火の粉を払い、完璧な答えを繰り出してみせた。なるほど、才媛というのは確かなようだ。
言葉の持つ危険度や裏の意味など解さぬ無邪気なナタリエのような人間は、貴族社会では生きづらい存在だ。公爵令嬢であり皇太子の婚約者であるという立場だけで渡り歩けるほど、社交界は甘い場所ではない。
今のように友人のフォローがあって、どうにか人並みに過ごせてきたという過去が透けて見えて、なるほどと理解した。
(ナタリエ妃の無頓着なやらかしをヴィクトリア嬢がフォローしていたとして、その見返りはなんだったのかしら)
未来の皇太子妃の親友という肩書きだけで、こんな面倒な役目を引き受けるだろうか。女性だてらアカデミーに進学するくらいだから、社交界での己の立場をそこまで重視していない気もする。
まさか本当に親友ごっこをしているだけというなら、わざわざリシェルの前に現れたりせず、勝手にやってほしいと思う。
そんなことを考えながら貼り付けた笑みを装備し直せば、ヴィクトリアがリシェルに質問してきた。
「妃殿下はお輿入れなさってそろそろ二ヶ月でございますね。結婚生活はいかがですか」
「おかげさまで、ディラン殿下にはよくしていただいています。もちろん、ナタリエ様やロクサーヌ皇妃にも」
これ以外に返せるものをいろんな意味で持ち合わせていない自分は、彼女たちのようなか弱い貴族女性にしてやられるほど甘くはない。
だからヴィクトリアの緩みもしない瞳とほっそりした全身から繰り出される他愛ない殺気など、気にもならなかった。どちらかというと彼女の背後に控える護衛兼介添人の殺気の方が不快だ。
黒鍵のエースとまで呼ばれた演奏家の自分だ。こんなところでボロは見せない。ロートレイ家門の二人がなぜお粗末な殺気を放っているのか知らないが、巻き込まれるのはいい迷惑だった。
だが残念なことにこの幕間は全部で一時間もある。休憩時間を利用して夕食を楽しめるようにという配慮らしい。皇家のボックス席は広く、リシェルたちの背後ではすでにテーブルの準備がなされていた。
「そうそう、言い忘れておりましたわ、お義姉様。今宵のディナーはヴィクトリアも一緒でよろしいでしょうか」
「もちろんですわ。でも、私はお邪魔ではないかしら。なんでしたら席を外しますので、どうぞお二人で……」
「リシェル妃殿下を追い出すわけにはまいりません。私が失礼いたします」
「まぁ、ヴィクトリア。車椅子での移動は大変でしょう。最後までここにいてちょうだい」
ナタリエの言葉で、後半の部も彼女と席を同じくすることになったと理解したリシェルは、心の中で舌打ちするしかない。
自分の本来の目的は、育ての親であるマキシム神父と対峙して、どう言い訳するかだったはずだ。道のりがあまりに遠過ぎて、うっかりすると隠した悪態が口を突いてしまいそうだ。
結局逃げ出すことは叶わず、テーブルにつくはめになったリシェルだったが、ナタリエがはしゃいで話題を振り撒いてくれたおかげで、思いのほか食事に集中できた。
女学校時代のエピソードなど出されてもリシェルには何もわからなかったが、そこはヴィクトリアがフォローのコメントを入れて置いてけぼりにならないように配慮してくれた。未だ毛を逆立てた猫のようなのに、このような気遣いはするのだなと不思議に思う。
相槌を打っているだけで済む食事は、むしろディランとの腹の探り合いでしかないそれより味わえたと思ったのも束の間。
後半の開幕を前に、席に戻ったリシェルの隣に陣取ったヴィクトリアが、リシェルの全身にざっと視線を走らせた。
「リシェル妃殿下はとても……お元気そうですね」
「え? えぇ。子どもの頃から丈夫だけが取り柄でしたので」
「だから湖に落ちてもご無事だったのですね。それから……馬車の事故にもあわれたとか」
かわいらしい殺気が一瞬鋭くなる。それとて子猫が噛み付く程度の他愛ないもの。少なくともリシェルにとっては取るに足らない類のものと捨て置けるはずだった。
彼女の、次の一言を聞くまでは。
「なぜ……」
ぎりりと唇を噛み締めるヴィクトリアの表情が、父親のロートレイ軍団長のものと重なる。暴走する馬車から逃れたリシェルの前に現れ、今の彼女と同じように呟いたのだった。
『なぜここにいるのか。なぜ——生きているのか』
そう言いたかったのではというリシェルの読みは、思い過ごしだったのか。すでに事故として片付けられてしまった出来事を蒸し返す手段はない。
(ヴィクトリア嬢が怪我を負ったのは、私のせいじゃないわ)
運命の糸を紡ぐのは慈愛の女神の仕事であって、リシェルの管轄外だ。
ただ、彼女の気持ちも想像できなくはなかった。似たような立場で、似たような事故に遭い、片方は元気なまま、片方は左下半身不随になった。加えて片方はディランの妻として彼の傍にいる。
嫉妬と恨みをぶつけたいがためにナタリエを利用してここまで来たというなら、お門違いもいいところだ。もう何度目になるのかわからない悪態を心の中でつく。
むしろ盛大に口に出してしまおうか。その方が少なくとも自分の心は晴れるかもしれない。どうせ今ならバレやしないだろう、ちょうどよく開幕のベルが鳴っている——。




