眠れぬ歌劇場の夜想曲《ノクターン》2
白鍵合唱団の演奏が、リシェルはそもそも好きではない。音楽の良さはなんとなくわからないでもないが、そもそも彼女には素養がまったくなかった。
(ダメよ、リシェル。さすがにそれはダメ……)
公務として赴き、隣に皇太子妃がいる席で、眠ることなど到底許されない。欠伸ひとつ見せるのも厳禁だ。
だから先ほどから自分で太腿をつまんでは眠気をごまかしていたが、よく鍛えられたリシェルの太腿と、痛覚が鈍るよう訓練された身体にはすこぶる効きが悪い。
舞台の上では白いローブを着た十歳くらいの子どもたちが、美しいソプラノを披露していた。綺麗だとは思う。澄んだ声と乱れのない旋律は確かに心地いい。だが心地良すぎて脳を駄目にする毒というものもこの世にはある。この歌声はそんな毒薬に似ている。
舞台を指揮する指揮者が、見たことのない若い指導者だったことも災いした。てっきりマキシム神父が最初から舞台に上がると身構えていたのに、取り越し苦労である。
(あの陰険な神父様が背中でも見せようものなら、眠気も吹っ飛んだんでしょうけどね)
いないならいないで、リシェルの心の平穏が保たれて好都合だ。自分は心置きなく眠気とだけ戦える。敵か味方かそれ以外か判別がつかないナタリエは、皇太子妃らしく静かに演奏を聴いているようで、リシェルにちょっかいをかけてくる気配はない。
ナタリエの相手をして思いの外いろんなものをゴリゴリ削られてしまった。許されるなら今のうちに寝て精神力を回復させ、来たるべきマキシム神父との戦いに備えたいところだ。だがそうもいかぬ今の身分。なぜ自分は皇子妃になどなったのか。あ、そうだ、あの陰険神父のせいだ、と、頭の中で残念な無限ループが繰り返される。
(ダメだ、もっと違うことを考えよう。えーっと)
ケイは今頃なにをしているだろう。控室で他の使用人に混ざって休憩しているはずだ。十二歳のかわいい少女のフリをして、他所の使用人にかわいがられつつ、いい感じに有益な情報を抜き出しているかもしれない。黒鍵メンバーならそれくらい朝飯前だ。リシェルは苦手だったが。
そこまで考えて、早々に想像力が尽きてしまった。ほかに考えることはないかと思考を巡らせる。
そうして、ディランのことを思い出してしまった。
あの飄々とした風貌と名前が過っただけなのに、なぜか動悸がして息苦しくなる。いったいどうしたというのか。
彼は自分にとってただの楽器。自分は彼を殺す演奏家。それ以上でも以下でもないはずなのに、すでに彼のいろんな事情を知ってしまった。楽器の事情など演奏家にとっては必要なく、むしろ美しい演奏のためには邪魔なものでしかない。
なのに自分はディランの事情が嫌ではなく、煩わしくもない。むしろもっと知りたいと思ってしまう。考えることは昔から苦手だったはずなのに、今もまた彼の置かれた状況について、つい思いを巡らせている。
彼のことを考えてしまう。
この感情は知らない。この感情を知ってはいけない。黒鍵の鉄の掟がリシェルの中で激しい不協和音となって鳴り響く。
『楽器と心を通わせてはいけない。楽器を——愛してはいけない』
なぜならかつて楽器を愛した演奏家は、総じて不幸な最期を遂げた。リシェルが姉と慕った年上の演奏家もまた、今のリシェルと同じ年に死んだ。
——リシェルが、殺した。
「お義姉様、休憩だそうですよ」
不意に声をかけられ、はっと顔を上げれば、ナタリエが静かな表情でリシェルの肩に手をかけていた。
「お義姉様ったら、感動で動けなくなっていらしたのですか? とても感受性が豊かでいらっしゃるのですね」
そう微笑む彼女の瞳は落ち着いた暗褐色。金色の輪はもう見えない。ぼうっとその瞳を見つめていたら、背後から「ナタリエ妃殿下」と声がかかった。侍女が近づいて彼女に何か耳打ちする。
頷いたナタリエは再びリシェルに向き直った。
「お義姉様、実はこの会場に私の友人が来ていますの。お義姉様さえよろしければ、紹介させていただけないでしょうか」
「え、えぇ、それは、もちろん……」
「良かったです。お義姉様もきっと仲良くできる方ですわ。ロートレイ侯爵家はディラン殿下とも親しくされている家門ですもの」
「ロートレイ侯爵家……」
リシェルが狙われたかもしれない、暴走した馬車の現場になぜかいた、皇国軍の第一軍団長。演習の場でも彼は、殺気のこもった視線を隠そうともせず、どこまでもリシェルを睨みつけていた。
そして彼の娘であるロートレイ侯爵令嬢は、馬の暴走事故に巻き込まれ大怪我を負い、今もベッドの住人だという。それが原因かどうか定かではないが、ディランとの婚約は成り立たなかった。
ナタリエは友人を紹介すると言った。カイオスと同い年の彼女の友人となれば、リシェルとも同世代のはずだ。
(この公務は、聖主国の白鍵合唱団の演奏を聴く、ただそれだけのはずだったのに……)
背中に嫌な汗が流れる自分のことなど知る由もないナタリエは、笑顔でその名を告げた。
「えぇ。ヴィクトリア・ロートレイ侯爵令嬢とは、子どもの頃から仲良くさせて頂いているのです。でも彼女は痛ましい事故に遭ってしまって、車椅子でこちらにおいでですわ」
ディランもアゼルもマキシム神父も、このナタリエも。誰も彼もが後出しばかりしてくるのはわざとなのか。
先ほどまで戦っていた眠気に屈服した方がマシだったかもしれないと歯噛みしながら、リシェルはひとり苦いものを飲み下した。




