眠れぬ歌劇場の夜想曲《ノクターン》1
「お義姉様を驚かせたくて、ディラン殿下には内緒にして頂いたのです。だから怒らないであげてください」
「まぁ、私がディラン殿下に対して怒るだなんて、そんな不敬なこといたしませんわ」
すぐ隣の席で上品に微笑むナタリエに、リシェルも似た笑みを返す。もちろん心の中では嫌味なくらい綺麗な夫をタコ殴りだ。暗器も毒も急所も効かないから物理だ。
聖主国が誇る白鍵合唱団。慈愛の女神の御心の下に施される高度な音楽教育と豊かに花開いた音楽性は、各国で高く評価されている。団員は聖主国の孤児で構成されている点も、弱者や貧者への救済を謳う女神信仰と相性がいい。
そんな事情も相まって、エルネスト皇都の歌劇場は満員の様相を見せていた。孤児支援は貴族女性たちにとっても馴染み深いもの。ここにお金を落とすことが一種の慈善事業でもある。
有名な合唱団の公演を、第一皇子妃と皇太子妃が共に鑑賞する。皇家専用のボックス席は他から中が覗ける造りではないが、大勢の人間が自分たちに注目していることは十分わかった。
公演のパンフレットを受け取りながら、リシェルは隣のナタリエに声をかけた。
「ロクサーヌ皇妃陛下はおいでではないのですね」
「皇妃様は外向きのことにお忙しい方ですので、このような場では僭越ながら私が代理を務めさせて頂くことが多いのです」
ナタリエの返事に、そうだろうなと納得する。後宮から出てこない皇王に代わって国を動かしている人だ。このような女性らしい務めにかけている時間はないだろう。そう考えると、使えない夫の代わりに重積を担っている立派な女性と言えなくもない。ディランの暗殺の件がなければ、であるが。
「ナタリエ様は、皇妃陛下のお身内でいらっしゃるのですよね」
「はい。皇妃様は私の叔母に当たります」
「ということは、カイオス皇太子殿下とはいとこに当たるのですか」
皇妃の実家は公爵家。その縁続きの女性を息子の嫁にあてがうのだから、実家ぐるみで国を牛耳る気満々ということか。そうなれば使えない夫の代わりうんぬんという考え方よりも、やはり権力好きの悪どい女というのが妥当そうだ。
ちなみに皇妃から貰った毒はケイに分析してもらった。一撃で死ねず、身体中からあらゆる体液を吹き出しながらのたうちまわって死ぬという、なかなかの代物だった。過去に眠るように死ねる毒や一撃必殺の熊殺し毒を盛ったことしかないリシェルは、己の甘さを恥じた。ケイに言って全部は処分せず、ちょっとだけ残してもらったのは念の為だ。ついでに、口に含んだだけでは死なないと皇妃が言っていたのも嘘だと発覚している。
もしディランもろともリシェルも死ねば、かつてのリシェルがでっちあげ損ねた「滅ぼされた祖国のために仇敵を打った令嬢」の完成である。仇討ちを成功させて自死した悲劇の、という冠もつけられて、ラビリアン王国ともども綺麗にこの世から抹消されたことだろう。
「カイオス殿下とは、幼馴染でもあるのです。私たちは同い年で、誕生日もひと月違いでしたので」
「まぁ、では初恋を実らせたようなものなのかしら。素敵です」
中身はアレですけどもね、という言葉はもちろん口には出さない。腹を割って話さなければならない場面でも相手でもないから、無難に切り抜ける。大して仲良くもない貴族女性相手に会話を繰り広げる話術の訓練も、当然叩き込まれてはいるが、リシェルにとっては公演後のマキシム神父の出方の方が重要事項だった。できればそれまで体力も気力も温存させておきたい。
だからここでナタリエに気を遣うことすら、できれば遠慮したかった。このまま当たり障りのない話題を適当に移ろわせていけば、開幕のベルが鳴ることだろう。
そう思っていたのだが、ナタリエはリシェルの言葉尻を拾った。
「初恋……そうなのかしら」
「えぇっと……幼き頃より婚約が結ばれていたのかと思ったので、そう申し上げたのですが、違いましたでしょうか」
皇太子妃の初恋の話などどうでもいいが、会話というのは勝手に終わらせることができないから面倒だ。ここにケイがいてくれればまた状況も違っただろうが、あいにく彼はボックス席に入るには身分が足りず、使用人部屋に控えていた。
席にいるのはリシェルとナタリエ、それにナタリエが連れてきた貴族出身の侍女と護衛がひとり。だが侍女はボックス席のはるか後ろ、声も聞こえぬ場所に座しており、護衛も入り口を守る位置だ。
不毛な会話に見切りをつける方法を模索していると、ナタリエが「お義姉様」と呼んだ。確かに出会い頭にそう呼んでいいかと聞かれたが、リシェルは許可を出した覚えがない。
それでも、それが当たり前というふうに、ナタリエは薄く微笑んだ。
「お義姉様は、ディラン殿下のことがお好きですか?」
「え……?」
「お好きなのかしら、それとも愛していらっしゃる?」
「それは……」
この国に嫁いできてから最もリシェルを悩ませる難問が、改めて突きつけられる。
好きではない、愛してなどいないと、突っぱねるべきだ。——いや、それは駄目だ、自分は第一皇子妃なのだから。貴族夫婦の間の愛など信用できないと誰もが知っていたとしても、正直に本音を漏らすわけにはいかない。
だったら答えは「もちろん愛している」だ。たとえそれが嘘だとしても。
(嘘を、言うの?)
白い髪と赤いルビーのような瞳が脳裏に散らつく。氷のように冷たい唇が「僕を愛してほしい」と囁き、リシェルの耳に、頬に、キスを落とす。リシェルの怪我をした足首に触れて、リシェルの髪を弄んで、何かを鎮めるかのように撫でていく様は。
(これも、嘘なの? 全部、嘘だというの……?)
いつもより着飾ったドレスの腰に、ぞわりとした感覚が蘇った気がした。
「お義姉様? どうなさいました?」
「い、いえっ。なんでもありませんわ」
少しだけ腰を浮かせて座り直せば、ビロード貼りの座面のクッションが柔らかく弾んだ。
顔を上げればナタリエの瞳とぶつかった。暗褐色と思っていた色彩の中に、金色の輪がきらめいている。歌劇場のシャンデリアの影響だろうか。それとも元々こんな色なのか。
確かに美しい女性ではある。だがロクサーヌ皇妃やカイオス皇太子に負けて印象が薄い人だと、あのとき思ったはずだった。
だが今の彼女はどうだろう。ただこちらに目を向けているだけなのに、縫い止めるかのような力を発している。
(……腐ってもエルネスト皇国の皇太子妃ということかしら)
思い込みや先入観は人を狂わせる。黒鍵の教えを痛いほど思い出す。
だが簡単に負けるリシェルではない。
「そういうナタリエ様はどうなのですか? カイオス皇太子殿下のことを愛していらっしゃるのかしら。何せ私はまだディラン殿下とお会いして二ヶ月しか経っておりません。皇家の花嫁の先輩として、いろいろ教えて頂きたく思います」
「カイオス殿下を、愛している……?」
自分から切り込んできたくせに、自分に返ってくることは想定していなかったのか。だとすればまだまだ甘い。
そう思いながら主導権を握り返そうとすれば。
「愛するって、そもそもどういうことなんでしょうね。私にはよくわからなくて」
心底不思議そうに首を傾げるナタリエの瞳の中に、金色の輪が舞った。
(エルネスト皇家の血筋……)
ロクサーヌ皇妃の実家の公爵家は、皇家と縁が深い。始祖はその時代の皇王の兄弟だったはずだ。時代が下る中、皇家からの降嫁や婿入りも度々あった。
その血が出るのは、何も本家だけとは限らない。
『エルネスト皇家の人間は皆、愛を知らないんだ。何かを焦がれるほど好きになることも、誰かを愛するという感情も、知らないまま生まれてきて、知らないまま死んでいく——』
カイオスだけでなく、ナタリエもそうなのだろうか。
疑問を追求する間もなく、開幕のベルが鳴った。




