謎が謎を呼ぶ嬉遊曲《ディヴェルティメント》
そのチラシを前に、リシェルとケイは揃って項垂れていた。
「なななななんで殿下がこんなモノ持ってるのよ!」
「知らねぇよ。オレに聞くなよっ」
「でもケイが受け取ってきたんじゃない!」
「オレはリシェルに渡してくれって言われただけだ。だから受け取ったのはリシェルだろ」
「屁理屈! そういうの屁理屈っていうのよ!」
「そんなわけあるかっ。そもそも皇子妃の公務で公演を鑑賞しろっていうんだから、どう見てもリシェルの仕事だろうが」
「私、殿下の暗殺で忙しいから」
「ことごとく失敗しておいて良い言い訳するなぁ、おい」
丁々発止のやりとりを繰り広げていた二人ははたと顔を見合わせ、揃いも揃って深々とため息を吐いた。
「なんでマキシム神父がやってくるのよぉ」
「演奏旅行に出かけたお馬鹿な弟子がなかなか帰ってこないから、わざわざ様子を見にきてくださるんじゃね?」
「やっぱり———っ!! コレ私怒られちゃうヤツ!?」
「怒られるくらいですめばいいけどな」
「え、えぇっ!? 過去に失敗した子たちってどうなってるの? おやつ抜き? 食事抜き? 聖書の写本!? もしかして反省文五百枚とか!?」
「おまえそれやめろっ。黒鍵の権威台無しにしすぎだろ!」
こう見えて案外凄腕なリシェルは、任務に失敗したことがないのをケイもよく知っていた。直情的ですぐ物理に走るくせに、なぜそんなに結果が出せるのか、黒鍵内の七不思議のひとつである。
黒鍵メンバーは総じて優秀だ。リシェルより難しい演奏を悠々とやってのける者も大勢いる。
だがそんな精鋭揃いの黒鍵の中で、指導者のマキシム神父はリシェルのことを“黒鍵のエース”とよく持ち上げた。それが気に食わない年嵩のメンバーもちらほらいたほどだ。もっとも不要な不協和音は絶対に許されない組織内で、妬みや争いにまでは発展しなかったが。
ケイもまた疑問を抱くひとりではあったが、気に食わないというほどのものでもない。
リシェルのように見目がいい者は、貴人向けの要因として育成されており、庶民に擬態する方が得意なケイとは違う訓練を受けていた。伯爵令嬢に扮していると言っても、本物と同じくらいには十分こなせる素養を、リシェルは身につけている。
だがそれも、リシェルと同じ訓練を受けていた者たちは皆できること。熟練の演奏家でもなく、頭脳派の連中でもなく、リシェルよりさらに高度な女の技が使える者たちでもなく、なぜ神父が彼女にこれだけの期待を寄せるのか——わかるようでわからない。
ただ、リシェルとの仕事は嫌いではない。ケイの得意分野とリシェルのそれがうまく噛み合っていることもあるが、それ以前に相性がいいのだろう。
自分たちはプロの演奏家で、基本的には独奏者だ。誰かと組むことの方がむしろ珍しい。ケイもリシェル以外の人間と組むくらいなら、一人で演奏したいと思う。
(そういう意味では確かに、今までにない演奏家ではあるんだよな)
演奏中は徹底的に感情を殺し、慣れ合わず、任務の成功だけが評価される世界で、リシェルだけがある意味特別だ。神父が彼女のそんな素養を見て“エース”と呼んでいるのなら。
「心配しなくても、向こうから接触してくるだろうよ」
今回のあまりにイレギュラーな指令を思い出す。“どんなときもリシェルと共にあること”。こんな一蓮托生の無茶な指令は、今まで聞いたことがない。
第一皇子の演奏依頼には裏があることは間違いない。“呪われた皇子”の噂はケイたちも聞いていたが、ここまで現実的な話であるとは思ってもいなかった。黒鍵が、神父がそれを知らなかったはずはなく、となれば意図的に知らされなかった可能性がある。
加えて、問題はそれだけではなかった。
「なぁ、黒鍵に関して、もう皇子サマにはバレちまってんじゃね?」
このチラシを直接リシェルに渡すのでなく、ケイを介そうとしたことがそれを物語っている気がした。ちなみにケイの性別がバレていたことに関しては、これだけ長く近くにいるのだからまぁしょうがないよなという程度だ。だいぶ毒されてきたなと思う。
だがリシェルはきょとんとした顔をしたあと、小さく吹き出した。
「まさか! それはないでしょ」
「根拠は」
「ディラン殿下が何も口にしないから」
「はぁ!? なんだよソレ。根拠でもなんでもないじゃん。ついに色ボケしたか? アイツに抱かれて絆されたか!?」
「抱か……っ! んなわけないでしょう、変な想像しないで!! そうじゃなくて、あの人、こっちが聞いてもないのにペラペラとよくしゃべるじゃない。呪いのこととか、エルネスト皇家のこととか。もし黒鍵について耳にしたなら、“こんな面白そうな話小耳に挟んじゃったよ”とかなんとか言って探りを入れてくるに決まってるわ」
何かを思い出したのか、ソファの隅にあったクッションに拳を入れながら、リシェルが不敵に笑った。
「だからまだバレてない。まだセーフ。神父様には怒られない」
「おまえの安心の基準ソコかよ」
「だってマキシム神父よ? 超怖いじゃないの!?」
「オレそこまであの人のこと怖い印象ないぞ」
「ええぇぇっ! 嘘でしょ!! ネチネチネチネチ嫌味ぃな説教を膝詰めで何時間も聞かされて魂抜けそうになったことが何度あるかっ」
「だからおまえいったい何やったんだよ……」
賢さが全面に出ている人ではあるが、基本は温厚で人当たりがいい人だ。ケイ自身、彼に嫌味を言われたり怒られたりしたことは一度もない。むしろ褒めて伸ばすタイプの指導者だと認識している。
リシェルはそんな彼に苦手意識を持ち、彼の方はリシェルを気に入っているとは、なんとも皮肉な話だ。
「……なぁ、この公務って、皇子サマも一緒に行くのかよ」
「私だけみたいよ。この日殿下は郊外で大規模な軍事演習があるって言ってたから。二泊三日の出張だって」
「ふぅん」
ケイも知らなかった情報をさらりと告げられる。なんだかんだと夫婦っぽいやりとりはしているようだ。そのことになぜかもやもやするのが気色悪い。
だが、公演に皇子が同席しないのは僥倖だ。マキシム神父は必ずこちらに接触してくるだろう。そこに皇子がいない方が、なぜかいい気がした。
(君子危うきに近寄らず? ……いや、違うな、どちらかというと)
混ぜるな危険、という言葉が浮かんできて、納得がいくようなそうでないような複雑な気持ちになり、嫌な息をついた。
◆◆◆
そうして迎えた、白鍵合唱団の公演会の当日。
「……あの、お義姉様とお呼びしてもよろしいでしょうか。リシェル様」
観劇に相応しい、厳かなイブニングドレスに身を包んだナタリエ皇太子妃が、皇族専用ボックス席でリシェルを待っているのを見て。
「だからこういう話は前もって伝えておくものでしょうが……っ!」
小声で吐き捨てたのは、美麗な夫に対してなのか、夫とともに出張に出た隻眼の侍従に対してか、その両方か。
怒りを笑顔の仮面の下に押し込めるリシェルに付き添いながら、ごくありきたりな良い夜がますます遠くなったことを、ケイは悟るのだった。
***
嬉遊曲
娯楽の場などで演奏された軽快で楽しい雰囲気の音楽。




