舞踏会開幕の前奏曲《プレリュード》2
冷たさと、痛み、何より息苦しさ、そしてぞっとするほど重たい身体。
落ちた水の先でパニックになりそうな中でも、リシェルの身体は最善の行動を憶えていた。水を吸いまとわりつくドレスのスカートを隠し持っていた短剣で切り離し、大きく蹴り飛ばす。息がごぼごぼと漏れ出るのを止める術もないまま、軽くなった足元をバタバタと動かして水面を目指す。
息が尽きるのが先か、それとも心臓が悲鳴を上げるのが先か——。
激しく、ただ本能のままにもがくリシェルの指先が光を掴んだとき。
「ぷはあぁっ!!」
潰れそうだった肺が大きく躍動して、思い切り空気を吸い込んだ。同時に激しく咳き込んでしまい、再びずぶずぶと沈みそうになる。
慌てて手で水をかき分け、水面から顔を上げた。湖の周りには街灯が仕込まれており、岸辺の方向の見当がついた。
何かを考える余裕もなく、リシェルは明かりめがけて泳ぎ出した。冷たさは痛覚となって彼女の身体をみしみしと痛めつける。それでもここで諦めたらいろんな意味で終わりだとわかっていたから、必死に泳いだ。幸い人工湖はそれほど広い造りではなかったようで、程なく岸辺に辿り着き、這うようにして湖から上がった。
ぜいぜいと息を荒げたまま、寒さなのか痛みなのか、その他のものなのかわからない感覚に襲われながら、必死に首を上げた瞬間。
照明光を遮るように、人影が彼女の前に立ちはだかった。
リシェルの訓練された身体が反射的に動き、ずぶ濡れのまま最速で横に飛びのけば。
「……やれやれ、いくら寒いのが好きだからといって、真冬に寒中水泳したがるなんて、僕の妻はずいぶんお転婆のようだ」
暗闇にも映える白い髪と、明かりを受けて煌めく紅玉を見間違うはずもない。自分はきっちりと温かな外套を着込んで、寒さ対策まで万全なのが憎らしいほど。そして手にはどこで調達してきたのか、ふかふかのガウンまで持っている用意の良さ。
寒さのせいでガタガタと噛み合わない歯をなんとか噛み締めて、リシェルは声を荒げた。
「なん……でっ、避け、た、のっ、ゴホッ!」
「僕、冬場の湖に落ちたくらいじゃ死なないけど、寒いのと冷たいのはあまり好きではないんだ」
「なん、で、死なないってわかるの!? 死ぬかも、しれないじゃないっ。やってみたら案外うまく死ねる、かもっ。試してみれ、ばっ。ゴホゴホッ……っていうか試させろ!」
「前例があるからね。昔、他国に行軍中、流氷漂う海に三度ほど突き落とされたことがあったけど無事だった。だから心臓の強さは証明済みだよ」
「……チッ」
「おや、第一皇子妃が舌打ちだなんて、そんな品のないことするはずないよね。きっと僕の聞き間違いだ」
そういうことは早く言えと怒鳴りたいのを舌打ちで誤魔化したものの、それすらも当てこすられて、リシェルはぎりりと奥歯を噛んだ。だが寒さで震える歯はすぐにガタガタと噛み合わなくなる。
そんな自分を見て満足げに頷いた皇子は、手にしていたふかふかのガウンでリシェルを包んだ。
ふわりと漂う暖かい温度と、身体が浮き上がる感覚。
リシェルをいとも簡単に抱き上げた夫が、ガウンから顔を覗かせる自分に向かって、子どもに言い聞かせるかのような優しさで微笑んだ。
「何度も言ってるじゃないか、呪われた皇子を殺したいなら僕を愛さなくちゃダメだって。まだまだ愛が足りないよ、奥さん」
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前奏曲
メインの楽曲の前に演奏される曲。楽曲の背景や世界観をイメージするような構成になっている。