愛とはなり得ぬ間奏曲《インテルメッツォ》
自室に戻ってきた主人のために、アゼルはコーヒーを用意した。いつもより濃いめに淹れたそれを、そっと差し出す。
言葉を交わさなくとも主人の考えていることを読める程度には、付き合いの長さに自信があった。事実、濃いめのコーヒーに主人の眉間の皺が少しだけゆるむ。
「リシェルに話してしまったよ。女々しい夫だと見捨てられないか心配だ」
「なんの話を、ですか?」
「エルネスト皇家の人間は愛を知らないって話」
「それで、妃殿下はなんと……」
「目を丸くしていたよ。自分に “愛せ”と言うのかと詰られた。ねぇ、これは夫婦のすれ違いだと思う?」
「どうでしょう」
「だとしたら初めての夫婦喧嘩かな。それが“愛”についてだなんて、ふふっ。まさかこんな斬新な悩みを持てる日が来るだなんて、思ってもいなかった。結婚っていいものだね」
「教本を読み込んでお待ちした甲斐がありましたね」
お茶請けのチョコレートも差し出しながら、アゼルは主人との穏やかな会話に目を細めた。共に戦場を駆け、二人して「白き悪魔」「黒き悪魔」と呼ばれていた時代からすれば信じられない光景だ。
アゼルは皇妃の実家である公爵家につながる、末端の貴族家の出身だ。出来損ないの長兄の尻拭いのために、口減しも兼ねて幼い頃に公爵家に売られた。身体能力が優れていたこともあり公爵家の影として訓練を受けることになった、いわばリシェルの稼業に近い立場だ。
長じてからは皇妃の命を受けて軍に入り、ディランの傍に配属された。目的はディランの暗殺だ。戦乱に乗じて殺す機会はたくさんあった。だが何を仕掛けてもディランが死ぬことはなく、むしろ死にかけた自分が助けられること数回。
己の目的などとっくに知れているだろうに、なぜかディランはアゼルを傍から排除しなかった。
そうして二人の二つ名が有名になり出した頃、ラビリアン王国への侵攻命令が下った。二年前の話だ。
大陸の北端に位置するラビリアン王国は、これといった旨みもない小さな北国だ。小ささゆえに保身の走り方もなかなか意地汚く、叩けば埃は出まくる国だが、潰すほどでもない、国際事情的には必要悪に過ぎない末端。
なかなか死なないディラン皇子を、冬場に流氷漂う極寒の国へ送り込み、手足の壊死でも狙ったか、あわよくば海にでも落ちてくれればと願ったのだろう。
皇妃の犬だったアゼルは、このときも任務を遂行した。夜討ち朝がけ奇襲、毒に兵糧攻め、あらゆる暗殺を企んだが、極寒の海に突き落とす策はまだ試していなかった。
突き落とされる直前、ディランは確かにアゼルを見た。そして——微笑んだ。
一切の抵抗をすることなく、彼は海に落ちて行った。
当然ながらアゼル以外の側付きの将官たちが大慌てで救助に向かった。寒風吹き荒ぶ極寒の海での救助活動は困難を極めるはずだったが、事態はディランが自力で泳いで舟に戻ってきたことで呆気なく収束した。
そんな出来事が——実に三度繰り返された。
三度目ともなれば「おーい、また殿下が落ちたぞー」「しょうがねぇなぁ、誰か浮き輪投げてやれや」と、将官たちも呑気なものだった。一国の皇子の暗殺がとんだ茶番劇である。
皇妃の犬として公爵家の影として、血の滲むような訓練に明け暮れてきたアゼルのプライドは木っ端微塵になった。
今より血気盛んだった頃である。こうなれば捨て身の作戦だと、情報を操作してディラン含む小隊を敵陣のど真ん中で孤立させた。ラビリアン王国の軍隊は大したことなかったが、その隣国の軍事力はなかなか侮れないものがあった。ラビリアンに攻め込むディランを背後から叩くよう、隣国に働きかけた結果、読み通りに動いてくれた敵の情報を、当然ながら自軍には知らせず、ものの見事に万事休すの状態に持ち込んだ。
元よりディランを殺すまでは帰還できず、帰還すればまた別の標的の元へ狩に出されるまでだ。だがディラン以上の好敵手など、そうそうお目にかかれはしないだろう。
ならここで共倒れるのも悪くない。任務を成し遂げることもできてパーフェクトだ。
自分がディランの元で働くようになってから、最も過酷な戦場はあの場だったと断言できる。そしてディランはやはり死ななかった。
「黒き悪魔め!」
敵からすれば白き悪魔も黒き悪魔もどちらも同じ敵だ。それだけの恨みを買っている自負もある。敵陣の真っ只中で利き腕をやられ、剣を取り落とした丸腰の自分の視線の先で、明らかに折れているであろう足で戦場に立ち、敵を屠るディランの姿があった。
まだ死んでないのか、と笑いが込み上げてきた。己に迫る敵の刃に、潔く負けを悟る。
敵にではなく、ディランに負けたのだ。
しかしながら戦い慣れた犬の本能は恐ろしいもので、敵の刃をつい避けてしまった。首の血管を切られるはずが、位置がずれて右目をざっくりと切り付けられてしまった。
鮮血が飛び散り霞ゆく視界。その先で、自分と同じく倒れゆくことを期待したはずの白き標的の姿は、次の瞬間、自分のすぐ前にあった。
それまでいたはずの敵の姿は、もう、どこにもなかった。
「殿、下……」
「おまえ、もう少しだけ生きてみない?」
「は……?」
「実はおまえには一番期待していたんだよ。直接僕に手を下さない皇妃に僕は殺せない。来てはすぐ帰っていく暗殺者にもだ。だけどおまえは……僕の傍に居続けるおまえなら、もしかしたら僕を殺せるんじゃないかって。だから」
この人はいったい何を言っているのだろう。まったく見えない右目が強烈な痛みを訴えてくるのに、なぜか今はこの人の声を聞いていたいと思った。
「今度は僕がおまえを飼ってやろうかと思うんだけど、どう?」
「どう、とは……」
「片目を失ったおまえは退役せざるを得ないだろう。任務に失敗したおまえを皇妃が野放しにするとも思えない。このままでは犬死にだよ。だったらせめて僕の希望を叶える努力をしてみないか? 何せ僕はおまえの命を何度も救っている。恩返しだよ」
もしかしなくとも勧誘されているのかと理解したとき、薄れゆく意識の奥底から強烈な嬉しさが込み上げてきた。
そうか、これは恩返しか。なら——仕方ない。負けた相手に飼われるのもまた一興だ。
そうしてアゼルは意識を手放した。
再び目が覚めたときには戦争は終わっていた。
◆◆◆
失った右目を眼帯で隠して、礼服を着込み、侍従としてディランの前に立つ。彼の離宮で暮らすようになって以降、報復なのか公爵家の犬が度々ディランでなく自分を狙ってくるようになったが、ことごとく返り討ちにした。自分より劣る犬の扱いなど、片目で事足りる。
ディランの元で働くようになってすぐに、呪われた皇子の真実を知らされた。
そのうちのひとつが、主人を愛せる人にしか主人は殺せないのだという。それが事実なら、自分をはじめ皇妃の犬たちは、なんと無駄なことに時間と手間を費やしてきたのだろう。
新たな主人はアゼルに期待していると言った。それはつまり、アゼルがディランを殺せるようになるのではないかということ。
だが。
「……大変申し訳ありませんが、私は男色家ではありません」
「諦めるのはまだ早いんじゃないかな。おまえもまだ若いし」
ディランより三つ年上なだけだから、確かに世間的には若い部類には入るだろう。だが、それとこれは別だ。
「どうあってもご期待には添えないかと」
「……ダメかな」
「はい」
いくらなんでもこなす犬として教育を受けてきたとはいえ、これは門外漢過ぎた。
「不出来な侍従で申し訳ありません」
「……いいよ。無理強いしてどうこうできることじゃないし。あーあ、いつになったら僕は死ねるのかな」
深々とため息を吐くディランの望みは、誰かに殺されること。
愛と死は、表裏一体。
だったら侍従たる自分の役目はただひとつだ。
「殿下が無事殺されますよう、私も陰ながら応援いたします」
主人の願いと自分の願いは、いつも一致している。
◆◆◆
コーヒーのお代わりを準備しながら、アゼルは話題を変えた。
「リシェル様の襲撃の件ですが、何もつかめないままです。馬に興奮剤が使われていた形跡があったことはわかりましたが」
「僕じゃなくてリシェルが狙われる理由っていうのも謎だよね」
「やはりリシェル様の背後にいる組織か何かが絡んでいるのでしょうか。手は尽くしていますが、やはりラビリアン王国のことしか出てきません。あとはオルディア伯爵家が近々取り潰しになりそうということくらいです」
「本物の実家じゃないだろうから、そちらは追わなくてもいいよ」
カップを持ったまま執務椅子に大きくもたれ、ディランはくるくると椅子を回した。
「ここまで何も出てこないとなると、視点を変える必要があるな。本当に何もないのかもしれない」
「しかし、妃殿下もあのメイドも訓練された手練れです。動きが私と似ています」
「アゼルよりは雑だけどね。殺気は殺せているけど、暗器を飛ばしてくる直前、一瞬だけどドヤ顔してくるんだよ。かわいいよね」
それは暗殺者としていい評価なのかとアゼルが返答に困っていると、彼の主人は壁の地図に視線を向けた。
「何もないというのは、各国の思惑の中にはないってことだよ。でもこの大陸で、互いを牽制したり足の引っ張り合いをしたりはしないと思われていて、かつ各国の情報がもれなく集まってくる国が、ひとつだけある」
はっとアゼルもまた地図に目をやる。グサリと地図の中心に刺さるのは、主人が新妻から貰ったのだと喜んでいたあの暗器だ。
「さすがは妻の選んだプレゼント。飛び具合も刺さり具合も抜群だな」
ついでに抜群の毒も塗布されていた暗器が刺さった場所は——聖主国。慈愛の女神信仰の総本山にして、最高指導者である聖下が君臨する宗教国家。
「妻の秘密に無闇に立ち入るのは気が引けるんだけど、ちょうどいい催しがあるんだ」
執務机に置かれていた書類を取り上げ、ディランは嬉しそうに微笑む。
ちらりと覗いた書類には「白鍵合唱団によるエルネスト皇国公演に関する案内」という文字が踊っていた。




