疑念だらけの舞曲《ダンスミュージック》3
「ほら、リシェル。林檎だよ。はい、あーん」
「いえ、結構ですわ。自分で頂きますので」
「そんなこと言わずに。夫婦で囲む食卓は円満家庭の基本だって、“夫の心得”十七ページに書いてあるんだ」
「その教本今すぐ持ってきて! 焼き捨ててやるから!!」
くわっと見開いたリシェルの口に林檎が差し込まれる。ご丁寧にうさぎの形に切り分けてくれたのは、無駄に顔のいい夫だ。林檎の皮剥きだけでなくこんな小技まで巧みだとは、本当に無駄もいいところだ。
反射的に咀嚼せざるを得なかったリシェルを見ながら、紅玉の瞳を嬉しそうに細めた。
「暴走する馬車から飛び降りたって聞いて、肝が冷えたよ。お転婆はかわいい君の長所だけど、やりすぎは禁物だ。こんなふうに足を捻ってしまって、ベッドの住人に逆戻りじゃないか。……あ、もしかして」
細めた瞳に突如として不埒な色が散らついた。
「僕をベッドに誘いたいって、そういう合図だったのかな? だとしたら大歓迎だよ」
「違うに決まってるでしょうが!?」
叫ぶと同時に本能で繰り出した拳を、ディランは綺麗に避けてみせた。その上で悲しそうな顔をする。
「リシェル、いつもの暗器はどうしたの?」
「暗器もタダじゃないので! 効かない相手には節約してるのよ!!」
「なんてことだ……! 新妻からのプレゼントが潰えてしまった! もしかして僕が君に何も贈り返していなかったから拗ねているのかい? でも君にはドレスや宝石は山のように準備したよね?」
「暗器や暗殺をプレゼントにカウントしないでもらえます!?」
暗にリシェルの失敗を当てこすられているようで、心が抉れる。確かにリシェルの演奏は失敗続きな上に、あの日投げ捨てたヒールをケイが拾って足元に並べてくれたことに気づかず、立ち上がり様に踏みつけてバランスを崩し、盛大に足を捻っていまったことは暗黒歴史以外の何物でもない。
包帯の巻かれたリシェルの足に触れながら、ディランがふと真面目な顔つきになった。
「馬車の事故もそうだけど、ロートレイに抱き抱えられて戻ってきた君を見たとき、僕がどんな気持ちだったかわかる?」
「どんな気持ちって……」
あの日、ロートレイ軍団長は離宮にいるディランを訪ねる途中だったそうだ。だがディランはそんな予定聞いていなかったと言う。急ぎの相談が浮上したため、約束も先触れもなく訪ねることにしたと、リシェルを送ったその足でディランに告げた。そして、そんなに急ぎの相談だったというのに、リシェルのことが大変だろうからと、何も言わずに帰って行った。
ロートレイがあの場にいたこと自体は、何も不思議ではない。侯爵の身分を持つ彼なら、皇城内のどこにでも入ることができる。
リシェルの馬車を襲った者たちの正体もわからないままだ。そもそもなぜリシェルが襲われることになったのかも判然としない。
(もしロートレイ軍団長が企んだのだとしたら、目的は……)
ディランとデートを重ね、婚約がまとまりかけていた彼の娘は、馬の暴走事故に巻き込まれ大怪我を負ったという。詳しい容体は知らないが、皇子妃を務められるだけの健康体ではなくなったのだとしたら、彼女の後釜にまんまと収まったリシェルを、父親である彼が疎ましく思うのも納得できる。
そんな事情に考えを巡らせていたら、ディランが拗ねたように口を開いた。
「君は僕の妻なのに、ほかの男に身体を許すだなんて」
「言い方……っ。ていうか真面目にあれこれ考えた私が馬鹿だったわ!」
どう見ても親子ほど歳が離れているロートレイ軍団長とリシェルの間に何かあるとすれば、それは不審な思惑だけだ。
(あぁもう! こういうドロドロしたこと考えるのが得意なのはケイの方であって、私じゃないのよ!!)
目の前に迫る夫が一筋縄でいかないことは、もう十分すぎるほどわかっている。
「殿下! ロートレイ侯爵令嬢とはどういう関係だったのですか!」
まどろっこしいのは自分の性に合わない。単刀直入にそう切り出したリシェルに、ディランの目が丸くなった。
「ロートレイ侯爵令嬢って、ヴィクトリア嬢のことかい? リシェルは彼女と面識があったのかな?」
「殿下の婚約者候補だったと聞きました」
「婚約者候……まぁ確かにそう噂する連中がいたことにはいたけど、婚約はしていないよ。ロートレイが取り下げた」
「それはロートレイ侯爵令嬢が怪我をなさったからですか?」
「さてね。取り下げた事情まで僕は知らない」
「でも、二人でよくデートしてたって……」
「リシェル、もしかして君、ヤキモチを焼いているの?」
「へ……?」
話の先を変な方向に折られて、今度はリシェルが目を丸くした。
「な……っ」
「心配しなくても、僕の妻はリシェル、君だよ。でも、君のヤキモチはなんだか高揚する気分になるから歓迎だな」
「やっ、ヤキモチなんて、そんなことあるわけが……っ」
「話は変わるけど、君、ロクサーヌ皇妃に会ったんだよね。どんな話をしたのかな」
再び林檎の欠片を口に放り込まれ、もぐもぐと口を動かしたリシェルは、もうひとつの厄介な難問を思い出した。
皇妃はまだいい、想定内だ。影の薄い皇太子妃も、とりあえず考えなくていいだろう。
「……殿下はカイオス皇太子殿下とどういう関係なんですか」
「ふぅん、カイオスに会ったんだ。想定外だな。皇妃が君に合わせるとは思わなかった」
「予定にはなかったようですが、ナタリエ妃とともに部屋に入っていらっしゃいました。私の顔を見たかったようです」
「へぇ。それで? 口説かれたの? 俺の女になれ的な?」
「ちょっと、言い方!」
「やっぱり。君の容姿を見て放っておくはずないと思ったんだ。毛並みのいい珍獣はあいつの好みだ」
「珍獣って何!?」
褒められているのではなく、貶されているのだろう、間違いなく。爪を立てる勢いで睨みつければ、ディランが下ろしていたリシェルの髪を弄んだ。
「カイオスのことはよく知らないんだ。面と向かって話したこともないからね」
「え……」
「かたや皇妃が溺愛する皇太子、かたやメイドにすぎない男爵令嬢が産んだ皇子。交差する人生じゃないだろう」
確かに二人の置かれた状況ならさもありなんだ。憎み合っていると言われたらもっと納得する。
しかし、それならなぜカイオスは自分を廃し、ディランを皇太子に据えることができるなどと言ったのか。それもまるで皇太子の座が惜しくないような軽妙さだった。
一瞬考え込んだリシェルの髪を、ディランが面白くなさそうに軽く引っ張った。
「ちょっと殿下、いたずらはやめてください。今考え事していて……」
「何をそんなに気にしているの? もしかしてカイオスに僕を皇太子にする相談でもされた?」
「な! なんで知ってるの!?」
「知らないけど、カイオスの考えそうなことだと思って」
ダークブロンドのリシェルの髪を弄ぶだけに飽きたのか、器用に編みながらディランは話を続けた。
「カイオスを皇太子に推しているのはロクサーヌ皇妃だけど、本人にその気はないよ、きっと」
「それって、カイオス殿下は皇太子の座を嫌がってるってことですか?」
「嫌がっているというか、興味がないんだろう。皇王と同じさ。かといって面倒だと投げ出す情熱もない」
「投げ出すのに情熱って関係あります?」
「好きの反対は無関心ってよく言うだろう。カイオスは好きとか面倒とか、そんな感情は持ち合わせていないよ。カイオスだけじゃないけどね」
「それって……」
皇王、つまり父親と同じだと、ディランは今ほど言った。後宮に籠ったまま政治を皇妃に丸投げしているのは、よほどの女好きだからだと思っていた。
「ある意味、これも慈愛の女神による呪いだよ」
あっという間にリシェルの横髪を一房編み終えたディランは、反対の髪にも手を伸ばした。
「呪われた皇子だけの話じゃない。エルネスト皇家の人間は皆、愛を知らないんだ。何かを焦がれるほど好きになることも、誰かを愛するという感情も、知らないまま生まれてきて、知らないまま死んでいく。だから世事に対する興味関心も薄い。唯一女神に与えられたのは欲だけだ」
「欲って……」
「食欲、睡眠欲、それに……性欲だよ」
人間の生理的な三代欲求は、なるほどすべて後宮という場所に揃っている。カイオスもまた後宮を持っているようなことを匂わせていた。
「それは、あなたも、なの」
ディランもまたエルネスト皇家の一員。第一皇子にして、呪われた皇子だ。
彼もまた、人を愛せない性質なら。
「なのにあなたは、私に、“愛せ”と言ったの……?」
ディランを殺すためには、ディランを愛さなければならない。何度も告げられた真理。
彼を愛し、彼を殺して——残るのは何か。ただ、自分は彼に愛されなかったという事実、それだけなら。
固まるリシェルの髪を撫ぜながら、ディランは小首を傾げた。
「——ねぇリシェル。君はまだ、僕を愛せそうかな」
両側の横髪だけを編まれたリシェルは、まるで幼子のようだ。愛など、その辺にいくらでも転がっているものだと信じていられた、黒い鍵盤に触れる前の。




