疑念だらけの舞曲《ダンスミュージック》1
「エルネスト皇国皇妃陛下にご挨拶申し上げます。先だってラビリアン王国オルディア伯爵家よりディラン殿下の元に嫁いで参りました、リシェルと申します」
膝を深く折る最上級のカーテシーを披露すれば、しばらくののちに「顔をあげよ」と冷たい声が響いた。視線を上げたリシェルは、この国で最も高位の女性と相対した。
ロクサーヌ・ヴァインアート皇妃。皇王ゼノスの正妃であり、皇太子カイオスの母親である。数多の愛妾を侍らせて後宮に篭り切りの夫に代わって、国政を牛耳る権力者でもある。
さらに言えば、なさぬ仲の憎き第一皇子にリシェルをあてがった張本人でもあるのだが、だからといってリシェルがこの人に好かれているわけでもない。
「ふん、男好きのする下品な身体だこと」
第一声がそれなのだから推して知るべしだ。なんと言われようと、リシェルからは口答えどころか声を発することも許されないから、ただ黙して待つのみである。
「それで、呪われた皇子に嫁いだ感想は?」
血はつながらぬとはいえ長男の、その嫁となる女と友好的な関係を築くつもりは、やはりないらしい。
「おかげさまで、ディラン殿下にはよくしていただいております」
「本当に?」
「もちろんにございます」
あらゆる意味でそれ以外の答えなど持てぬリシェルは、視線を下げて淡々と答えるのみだ。
ロクサーヌは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「まぁ、敗戦国の男漁りしか能のない女には、畜生腹とはいえ第一皇子の妃の位は身に余る光栄でしょう」
繰り出す台詞すべてに人を蔑む単語を散りばめられるのは、ある意味才能かもしれない。そんなことを考えていると、「ときに」と話題が転じた。
「おまえ、ハモンド侯爵家の屋敷で湖に落ちたそうじゃない。何をどうすればそうなるのか疑問だけれど」
ハモンド侯爵は表向きは軍属派の貴族だ。だが本人はカメレオンのように色を変えるのが得意で、古参の貴族派や皇妃派ともうまくつきあっている。そんな彼の屋敷のパーティには三派がバランスよく招待されるため、リシェルのお披露目に使わせてもらった。
皇妃派の人間も多数いたし、そもそも嫁いできたばかりの皇子妃が湖に落ちるという前代未聞の事件だから、皇妃の耳に入らないはずはない。なんら不思議なことではないのだが、あの事件が鬼門となっているリシェルは、下げた視線のまま一瞬固まった。
ロクサーヌはそんなリシェルに気づくこともなく、面白そうに口を歪めた。
「まぁでも、ちっともおかしなことではないわね。アレの周辺ではよく人が死ぬから」
皇妃が第一皇子を軍に放り込んだ際、皇子の近くにいると死ぬという噂をばら撒いたことは知っている。ここでまたその嘘をリシェルに吹き込んで、恐れさせるか憎ませるか、そんなことを考えているのだろう。
彼女の浅い考えに乗るのは業腹だが、自分は異国から嫁いだばかりのうら若き新妻だ。ここはひとつ、怖がる素振りを見せておくべきか。
そう考えながら目を丸くするフリをすれば、皇妃は「あら?」と嫌な笑みを浮かべた。
「まさか知らなかったとは言わないわよね。私はあなたの祖国にも実家にもちゃんと伝えたわよ。かつてディランに持ち上がった縁談がことごとく潰れた事情を。呪われた皇子と縁ができた女の多くは、事故や事件に巻き込まれて大怪我を負っているわ。まるで呪いが移ったかのようにね」
皇妃の話が、想定していた内容とは少しだけ方向が違っていることに気づき、つい眉根を寄せた。それをさらに怖がったと捉えたのか、彼女の笑みは深くなった。
「本当の話よ? 一番ひどいのはロートレイ侯爵の令嬢かしら。野蛮な軍人関係者同士馬が合ったのか、よく一緒に出かけていたようだけれど、暴走した馬に蹴られて腰の骨を折ったそうよ。一年ほど前の話ね。今もまだ起き上がれないとか」
……本当に、そういう大事な話は一番早くに伝えておいてほしかった。出し惜しみする胡散臭い侍従のことを思い出して、心の中で舌打ちする。
「不幸な事故で、そのせいで持ち上がりかけた縁談も流れてしまって、だからあなたにお鉢が回ったのよ。だけどあなたも湖に落ちてしまった。これはもう、呪いというしかないでしょう」
くすくすと意地悪そうに嘲笑する皇妃と対峙しながら、内心は呆れ返っていた。リシェルが湖に落ちたのはリシェルの事情である。断じてディランのせいではない。名ばかりの夫を庇うのもまた業腹だが、それはそれ、これはこれだ。
黙るリシェルを、ロクサーヌは自分のいいように取ったらしかった。
「怖くて声も出ないってところかしら。でも白き悪魔に、あなた気に入られているのでしょう? 人前で厚かましくも口付けするほどですもの」
先日の軍の訓練場での出来事をあてこするとは、たいした地獄耳をお持ちだ。いくらディランが皇国軍内で人気があるとはいえ、軍人全員が信奉者ではないだろう。皇妃が軍という危険極まりない集団をディランだけに丸投げしているとは、確かに考えにくい。
もっとも、飼い慣らされたネズミがいることくらい、ディランもアゼルも見抜いているはずだ。
「そんな……。あれはただの戯れです。私が殿下に気に入られるなど、恐れ多い」
「おまえ、本当にこのままでいいの?」
「え?」
はっとリシェルが顔をあげれば、皇妃が一転、心配そうに視線を揺らした。
「このままディランの傍にいれば、いつか必ず酷い目に遭うわよ。湖に落ちたのとは比べ物にならないほどの不幸が、おまえを襲うわ。一生床から上がれぬ大怪我を負うかもしれなくてよ、ロートレイ侯爵令嬢のように」
「……」
「怪我で済めばまだ僥倖かもしれないわね。だって命はあるのだもの。でも死んだ者も多いからどうなるか……。そうそう、あの男の下賎な母親のように、苦しみもがきながら死ぬ運命さえ待ち受けているかもしれないわ」
「ディラン殿下の母君、ですか?」
すでに亡くなって久しいと聞いている彼の母親について話題に登るのは、そういえば初めてのことだった。リシェルが興味を持ったことに目敏く気づいた皇妃は、それはそれは満足そうな笑みを浮かべた。
「あら、まさかこれも知らないの? 呆れたこと。わざわざ遠い異国から嫁いできた花嫁に伝えてもいないなんて。かわいそうだから私が教えてあげるわ」
そしてロクサーヌは扇の先を鋭くリシェルに差し向けた。
「あの男は母親の腹を食い破って生まれてきたのよ。産婆が到着したときには、すでに血まみれで息絶えている母親の傍で産声を上げていたということだわ」
リシェルの首元を差していた扇が、ゆっくり下へと下がっていく。
「すでに皇子と閨を共にしているおまえには、そんな未来も十分ありうる話ね」
ぴたりと腹のあたりで止まる扇を見ながら、ごくりと唾を飲み込む。優れた演奏家はくだらない感情に惑わされないもの。事実かどうかもわからぬ噂話に惑わされるべきではないと、今優先すべきことに意識を向ける。
ロクサーヌは自分がより怖がる様を見たいのだろうか。脅しにもならない言葉を聞きながらそう思う。
リシェルとて暇ではない。早く離宮に戻ってディランを殺す方法を考え実践しなくてはならない。
それなら皇妃の望みどおり、呪われた皇子に怯える新妻を演じた方が早いかと、表情をこわばらせてみれば。
「ふふっ、そんなに怖がなくてもいいわ。おまえを守ってやることくらい、私には容易くてよ」
「え……?」
「ディランの呪いに引きずられることなく、対抗する手段がひとつだけあるのだけど、聞きたいかしら」
先ほどまでリシェルを貶めていた嘲りは鳴りを一切顰め、ロクサーヌは口当たりのいい薬のような声音を出した。
「おまえの一番の望みを教えなさい。ディランと添い遂げることかしら。それとも……多額の慰謝料を手に実家に帰ることかしら」
「実家に帰る、でございますか? そんなことが……?」
「私の力を持ってすれば容易いことだと言ったでしょう。ただし、それはおまえが独り身になって初めて許されることよ」
「独り身に……いえ、でも、私にはディラン殿下が」
「そのディランが死んでしまえばよいのよ。呪われた皇子がいつまでものさばっていることの方がそもそもおかしいのだから」
遠回しな表現さえ使用しない、皇妃の本音。怯えた素振りを見せるリシェルに、皇妃は畳み掛けた。
「おまえ、皇子を殺しなさいな。役に立つ物をあげるわ。それでなんとかしなさい」
近づいた皇妃が、リシェルの手に何かを握らせる。
「で、でも……、どうやって」
「そのためのおまえのその身体でしょう。閨で皇子を骨抜きにして、キスのひとつや二つ与えながらこれを口から送りこめばいいのよ。これは含んだくらいでは死なないわ。飲み込ませないと」
先ほどまで散々リシェルを蔑んでいたことなどなかったかのように、手渡す毒ごとリシェルの手を優しく握った。
「貧しい祖国も実家も、おまえが慰謝料を持ち帰れば歓迎してくれるでしょう。元皇子妃という格も十分役にたつわ。もちろん、この国の社交界に残りたいのであれば、それでも結構よ。おまえの面倒はこの私が見ると保証しましょう。何より……」
甘美な毒が、皇妃の黒い瞳と手からとろりと流れてくる。
「このような綺麗な身で早逝するなど、あまりに哀れだわ。人生まだまだこれからよ。呪われた皇子など捨てて、幸せを掴みなさい」
「わ、私……」
あまりの馬鹿馬鹿しさに笑い出しそうになるのを抑えながら震えていると、部屋に人の訪れがあった。
「ごきげんよう、母上」
「カイオス……! なんですの突然。おまえを呼んだ覚えはありません。それにナタリエまで」
「母上の元に義姉上がお越しのようだと、ナタリエから聞きまして、私も挨拶をさせていただこうかと思ったのですよ」
「おまえやナタリエが顔を合わせる必要はないわ。下がりなさい」
「まぁそう言わず」
そしてロクサーヌと同じ黒い瞳をした青年がリシェルに近づいてきた。
「ふぅん、おまえがディラン義兄上の妻か」
「エルネスト皇国カイオス皇太子殿下、ならびにナタリエ皇太子妃殿下にご挨拶申し上げます」
咄嗟にカーテシーの姿勢を取る。だが、カイオスはそんなリシェルの顎をさっと掴んだ。
「……っ」
「おまえ、美人じゃないか。決めた、俺の後宮に入れてやる」
「カイオス!」
「カイオス様……!」
皇妃とナタリエ皇太子妃の声が重なる。見れば苛立ちも顕に憤怒の表情のロクサーヌと、そんな義理の母と夫を見比べて顔を青白くする皇太子妃という、修羅場一色の光景が広がっていた。
(人が穏便に退出しようとしたところに、妙な不協和音持ち込んでくるんじゃないわよ!)
顎を取られながら心のうちで舌打ちしたリシェルは、震えるフリをしながら小さな悲鳴を上げた。
「お戯れを、皇太子殿下。皇妃様にも皇太子妃様にも失礼です」
「母上はともかく、ナタリエのことは気にしなくていい。後宮の取りまとめも正妃の仕事だ。母上もよくわかっていらっしゃる」
愛妾を侍らせ、政務も疎かな父王へのあてこすりか、そんな王の心を掴めぬ母皇妃への嫌味か。そこまで考えて言っているのだとしたら、少しは頭が回ると判断できるのだが。
「カイオス! その者は皇国の皇太子に相応しい存在ではないわ。そなたの隣に似合うのはナタリエよ。わかったらその手を離して出ていきなさい。ナタリエ! そなたももっとしっかりしてちょうだい、それでも私の姪なの!?」
「も、申し訳ございません、皇妃陛下」
青い顔を通り過ぎて紙のように白くなったナタリエが、必死で頭を下げる。一瞬だけリシェルから視線が逸れた隙に、カイオス皇太子とその妻ナタリエをざっと確認した。
黒い瞳以外にロクサーヌの面影はほぼないカイオスは、確か二十歳のはず。妻となるナタリエは公爵家出身で同い年だ。ディランとは似てはいないが、カイオスもまた世の女性が放っておかない煌びやかな容姿の持ち主だった。妻となるナタリエも美しいは美しいが、ロクサーヌやカイオスに比べると陰が薄い。おおかた皇妃が同じ家門から、御し易い血統書付きの令嬢をあてがったのであろう。父王に似て享楽的な空気も持つ息子を制御する目的なのだろうが、初対面で義理の姉を後宮に勧誘しようとしてくるあたり、手綱捌きが今ひとつだ。
さてどうやって逃げるかと算段をつけようとしたとき、「もうよい!」と皇妃から思わぬ助け舟が入った。
「リシェル! そなたはもう下がりなさい!」
「承知いたしました。皆様どうぞご機嫌よう」
顎にかけられた手を振り切って、再び膝を折る。皇妃が下がれといったのだ、皇太子が不躾な視線や手を寄越そうが、皇太子妃がおどおどと視線を彷徨わせようが、知ったことではない。
衛兵が待機している部屋の扉へと足を向ければ、カイオスが不意にリシェルに手を差し伸べた。
「せっかくお会いできたのに、もうお別れとは切ないな。せめて入口までエスコートさせてほしい。義姉上」
ちらりと視線を皇妃と皇太子妃に遣れば、表情は先ほどと変わらないものの、口を出してくる気配はない。
この辺が落とし所かと、リシェルも己の手を預けた。
そのまま何事もないことを祈りながら歩みを進めたのだが、やはりそうはいかず。
扉に差し掛かる直前、カイオスがリシェルに耳打ちした。
「冗談ではなく、今度ゆっくり時間をとってほしいな。俺たちはいい関係が結べると思うんだ。たとえば……俺を廃して義兄上を皇太子にする相談をしたり、とかね」
はっと目を見張るリシェルに、カイオスは黒い瞳を揺らして「またね」と告げた。
リシェルの目の前で、扉が音を立てて閉じられた。




