死にたがりの夢想曲《トロイメライ》
アゼルを下がらせ、コーヒーを飲み干してから、ディランは包帯の巻かれた左手を宙にかざした。
指は完全に曲げることができず、全体が熱感を帯びて、痺れるような痛みが二の腕にまで達している。皇族として軍属の人間としてあらゆる毒に慣らしてきたつもりだが、世の中には自分の知らないものがまだまだたくさんあるようだ。
思えば初夜の席で焚かれた香も、ディランの知らないものだった。リシェルやケイはよほど闇の深い組織に飼われているらしい。薬師を多く排出しているオルディア家出身だからかとちらりと思ったが、伯爵令嬢にしては威勢がよすぎるから、やはり家も国もただの設定で、関係はないのだろう。
多少の秘密を抱えていた方が、不思議と夫婦生活は長持ちするものらしい。ディランも己の事情すべてを打ち明けているわけではない。だからリシェルのことも詮索せずにいてやりたい気もするが、取るに足らない身とはいえエルネスト皇家の一員である以上、そうもいかない。それに彼女を丸裸にしてみたいという嗜虐的な気持ちも多少ある。
はたして彼女は、ディランの長年の夢を叶えてくれるのだろうか。
自分の呪いはなかなか厄介だ。
最初の犠牲者はディランの母親だった。貧しい男爵家出身のメイドという不安定な身分で皇王に見染められ、お手つきとなった。
無事第一皇子を出産すれば愛妾くらいには格上げしてもらえたのだろうが、最終的にはただの男爵令嬢として人生を終えた。産み月間近となったある日、ディランを産み落としたまではよかったが、出血が止まらず、そのまま儚くなったのだ。
ディランが普通の容姿で生まれていれば、出産時に母が亡くなった不幸な話として、静かに語り継がれるだけで終わったことだろう。
だが生まれたのは白い髪に赤い目を持つ、呪われた皇子だった。
そこから噂に尾ひれはひれがついて、今ではディランが母の腹を食い破って生まれてきたことになっている。
次なる犠牲者は乳母夫婦だ。当時まだ皇太子だった皇王は、婚約者ロクサーヌとの成婚間近だった。ロクサーヌの実家の公爵家の権勢を前に、しがない男爵令嬢が産み落とした第一皇子に傅く貴族はいるはずもなく、早々に放置されたディランを憐れんだのは、母の幼馴染だったいとこの女性だった。自身が産んだ子を亡くしたばかりの彼女は、誰もやりたがらぬ乳母の仕事に立候補し、夫ともども離宮に越してきた。
そのまま二歳頃まではディランの世話をしてくれていたが、二人して流行病にかかり、相次いで亡くなった。
庭師の男もまた犠牲となった者のひとりだ。年老いて足を引きずるようになった彼は閑職に追いやられ、離宮の庭を担当していた。
屋敷の中は自分を蔑む大人の目だらけで、自然と庭に逃げ出すことが多かった三歳のディランは、あるときから黙々と仕事する彼の後をついて回るようになった。寡黙な庭師はディランを特段かわいがるそぶりは見せなかったが、いつも植物の名前や手入れの仕方を淡々と語ってきかせてくれた。
そうやって静かな交流を保っていた一年後、木の剪定中に足を踏み外して転落した庭師は、打ちどころ悪くそのまま息を引き取った。
ディランが乳母夫婦や庭師に懐いていたことを知っていた離宮の使用人たちは、「ディランに近づく者は皆死ぬ」と噂を盛大に振り撒いてくれた。第二皇子カイオスを産んだロクサーヌが裏で嬉々として糸を引いていたことは言うまでもない。
次々と人が辞め、入れ替わりが激しい離宮の人員。最低限の関わりと世話しか提供されなかったにも関わらず、ディランはやはり死ななかった。
毒入りの食事を与えられても腹を下すか寝込むかくらいですんだし、着替えや湯浴みの世話もほとんどされなかったのに、風邪ひとつ引くことはなかった。誰も見てないからと振るわれる暴力に対抗するうちに、逃げ足と反撃が巧みになった。たまに擦り寄ってくる、第一皇子を傀儡にしたがる貴族たちをあしらううちに、人の表裏を読み分けることに長けていった。かろうじてつけてもらっていた家庭教師が嘘と欺瞞だらけの授業をするので、書物を読みこむことに没頭したら相応の知識がついた。食事を抜かれることや衣服を新調してもらえないこともしばしばだったため、見様見真似で家事を覚えたら、生きやすさが格段に上がった。ロクサーヌ皇妃から送られる刺客を相手にしているうちに、自然と戦い方も身についた。
たった十三歳で戦場に放り込まれても生きていられたのは、呪いだけでなく、そうした過去の積み重ねのおかげだ。この皮肉な結果を皇妃がどう思っているのか、尋ねる機会はないままだ。
戦いは武力だけで押し通せるものではない。情報戦も大事になってくる。国を牛耳る皇妃がそれを知らないはずはないのだが、憎しみは人の判断力を大いに狂わせるらしい。
暗殺者という他力に頼らなくとも、簡単にディランを殺せる方法がある。
(僕を殺したいなら、僕を愛してくれたらいいのに——)
愛すら与えずに殺すことは不可能なのだが、そんな呪いの本質はなぜか一般にはほとんど知られていない。聞こえてくるのは「呪われた皇子の傍にいると死ぬ」という、いささか曲解した噂ばかり。いや、知っていながら見ぬふりをしているのかもしれない。愛など与えずとも簡単に殺せると、みくびっている可能性もある。
周囲を恐怖に叩き落とす呪いだが、ディランにとってはある意味幸運のお守りだった。そのおかげで生き延びてきた自分に、ある日突如として持ち上がった皇命による結婚話。
その話を聞いた第一声は「なんと哀れな」だった。自分が、ではない、呪われた皇子に嫁ぐことになった花嫁が、だ。
ディランの周囲で人がよく死ぬのは、本来の呪いのほかに、皇妃をはじめあらゆるところから送り込まれる刺客のせいでもある。ディラン自身が気づけば防いでやれたが、知らぬ間にやってきて知らぬ場所で襲われてはさすがに庇いようがない。
嫁いできた花嫁もまた、遠からず命を落とすことになるだろう。万に一つの可能性でディランを愛するようになったとしても、か弱い女性の細腕で夫を殺すことなどできず、結局は呪いの犠牲となって被害を被る。過去に自分の傍にいたりあてがわれたりした哀れな者たちのように、運がよくて大怪我、悪ければ死だ。
皇命でもある結婚だから、逃げることも断ることもできない。どういう未来を迎えるにせよ、再起不能となることだけは決まっている哀れな花嫁のために、せめて残りわずかな人生を穏やかに過ごさせてやろうと、入念に迎え入れの準備を整えた。良き夫としての姿勢を保つために教本だって読み込んだ。
ところが花嫁の身辺調査をする中で、どうやら少々事情持ちだということが判明した。純粋に守ってやらねばならぬ対象でないなら話はずっと楽だ。罪悪感も薄れるというもの。
一応警戒だけはしておくかと身構えつつ、その一方で、安堵と落胆と、相反する気持ちを抱いたのは、分不相応にも結婚というものに多少の夢を見ていたせいかもしれない。
どんな女が来ても、未来は変えられない。はたして夫婦生活は何日もつだろうかと、さすがに賭けをするほど悪趣味ではなかったが、少なくとも期待は一切していなかった。それなのに——。
初夜の席に現れたのは、自分を殺そうとする女だった。
過去にも、閨の席に潜り込んできた暗殺者がいなかったわけではない。味方のフリをして長期間ディランの傍に侍り、熱っぽい視線を絡ませる演技をしながら、ある日突然牙を向いた女もいた。ディランを油断させて毒を仕込む女も枚挙にいとまがない。
だが過去の彼女たちとリシェルの間には、決定的な差があった。リシェルは暗殺に失敗したあとも、ディランの元から逃げ出さなかった。
正確に言えば一度は脱走しかけたが、その後は考えを改めたのか、未だ皇子妃として彼の傍に居続けている。
何がなんでもディランを殺したいという、そんな思いが透けて見え——つい期待をしてしまった。
この気持ちをどう言い表せばいいのかわからない。だが自分はおそらく嬉しかったのだと思う。だからこそ饒舌に、呪いの本質に近いところまで語って聞かせてしまった。
死なない皇子を殺すための絶対条件は明白だ。
(ロクサーヌ皇妃も、リシェルも、僕を愛してくれさえすればいい話なんだけどね)
ディランを殺せるだけの能力を持つ彼女たちなら、あと一息のはずなのだ。長年そのことに気づけない皇妃には超えられぬ壁だろうが……リシェルならば。
いつか。きっといつか、そう遠くない未来に。慈愛の女神の元に至って、その喉元に剣を突き立ててやれる日が来るかもしれない。女神の御胸に抱かれるには、死に至らしめた者の数が多すぎるから。
記憶にない母や、乳母夫婦に庭師、皆——死んだ。
『呪われた皇子……! あいつの周りでは誰も彼もが死ぬ!』
『実の母親さえ死なせた悪魔の子!』
『慈愛の女神にすら見放された性悪な忌み子が……!』
二十三年間何度も繰り返され、どこまで行っても終わることのない不協和音を止める術は、はたしてあるのか。
いつか、きっといつか。誰でもない、自分こそが——笑って命を終えられると信じて。
生まれてこの方、晴れ渡ることのない己の空にかざした左手が、冬の低い日差しを受けて影を作る。
言葉にならぬ思いをこめて、ディランは動かぬ左手の傷に唇を落とした。
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夢想曲
幻想的・夢想的な趣を持つ曲。




