厚き忠誠の助奏《オブリガート》
自身の部屋に戻ったディランの元に、アゼルが薬箱を持って現れた。
「また無茶をなさいましたね」
「かすり傷さ。それに僕はこの程度では死なない。おまえもわかっているだろう」
「確かに死にませんが、痛みは別でしょう。あなたが傷つくのが平気というわけではないのです」
血で染まった手を清拭し、慣れた手つきで消毒をしていく。ディランの元に侍っている限り、アゼルにとっても怪我や毒は日常茶飯事だ。
「毒の種類はわかりますか?」
「いいや。だがこの感じはアゼーラの球根毒に似ているな」
「効くかどうかわかりませんが、解毒薬を塗っておきます。毒の残った武器をお借りできればきちんと特定できますが」
「これは渡せない。新妻からの心温まるプレゼントだ。忠臣とはいえおまえに下げ渡したとなれば、リシェルが悲しむかもしれない。知ってるか? 男が思ってもいないようなことで妻は機嫌を損ねることがあるらしい。“夫の心得”の後書きに書かれているよ」
「……」
真面目に聞かなくていい話だと判断したのか、忠実な侍従は会話をやめて解毒薬を塗ることに集中した。
巻かれた包帯ごと痺れの残る左手を見返せば、やはり動きが鈍い。妻の言葉通り、なかなかの威力を持つ毒のようだ。
左手は数日使い物にならないかもしれないが、たいしたことではない。
治療を終えたアゼルが報告がてら切り出す。
「妃殿下とメイドの背景についてですが、この一ヶ月調査を続けても、やはり何も出てきませんでした」
「エルネスト皇軍が誇る元諜報員をもってしても不明とは、恐れ入るね。さすがは僕の妻」
ディランの元には彼を慕う退役軍人が多く集まっている。その中にはかつて諜報員として活動していた者もいる。
今回の縁組は寝耳に水の出来事だった。ディランたちが知らぬ間に、彼を毛嫌いしているロクサーヌ皇妃が勝手にまとめたものだ。昔から皇妃とは折り合いが悪かった。皇太子が己の息子に決まったあとも執拗に自分の元に暗殺者を送り続けた。
後宮に篭りっぱなしの皇王に代わって国を牛耳る皇妃が、唯一手に入れられなかったもの。
母親の出自に寄らず、エルネスト皇家の第一皇子に与えられる「エルネスト」のミドルネームをディランが持っていることが許せないという、なんともちっぽけな理由。
ディランとしてはどうでもいい名前であり事情だが、エルネスト皇国の由緒正しい公爵家出身のロクサーヌにとって、それが我が息子のものになっていないことが相当に悔しいらしい。そのほかにも、自分が嫁ぐ前にゼノス皇王が城で働いていた男爵令嬢風情に子を産ませたことも、気に入らない理由のひとつだろう。自分の母はとっくに女神の御許に召されているというのに、ご苦労なことである。
嫉妬深いだけなら害も少なかったが、思いのほか頭が回る皇妃であったことが、ディランの周辺を慌ただしくさせた。
どれだけ暗殺を試みても死なない第一皇子を、戦場に派兵させることを思いついた彼女は、まだ十三の自分に将軍位を与え、軍に押し込んだ。呪われた皇子のせいで人が死ぬという、嘘の噂つきで。実力も人望もないお飾りの将軍のために命をかけねばならない軍人たちが、ディランを粗末に扱い、彼に歯向かうのを期待してのことだ。
だが予想に反してディランは軍功を上げてしまった。呪われた皇子のせいで人が死ぬという噂はすぐに、呪われた皇子は絶対に死なないという噂に塗り変わった。そしてそれは、呪われた皇子の傍にいればまた自分も安全だと、軍人たちにいいように解釈された。
事実ディランはどんなに劣勢な状況であっても、ものの見事にそれをひっくり返した。国同士の戦争である。自軍の人間が一人も死なないとまではいかないが、戦の規模や本国の無茶な命令を天秤にかけても、ディラン率いるエルネスト軍が出す死者の数は圧倒的に少なかった。
以来、軍内部では誰も呪われた皇子とは呼ばない。部下たちにとって彼は、自分たちを守り国を勝利へと導く軍神殿下であり、敵国にとっては自分たちを蹂躙し屠る白き悪魔だ。
この戦功に歯噛みしたのはロクサーヌ皇妃と皇妃派の人間、それに女神信仰に厚い古参の貴族たちで構成される貴族派だ。対してディランの派閥は、軍功を上げて爵位を賜った新興の貴族たちで、軍属派と呼ばれている。
軍属派の願いは、ロクサーヌ皇妃とカイオス皇太子を退け、ディランが皇太子となること。
だがその動きを放置する皇妃ではない。婚姻という手っ取り早い手段で自分が後ろ盾を得ないよう、取るに足らない娘をあてがったのだ。
それが敗戦国ラビリアン王国出身のオルディア伯爵令嬢リシェル、というわけだ。
皇命をもって下されたこの婚姻を拒否することはできなかった。ディランたちにできることといえば、相手の女性の素性について徹底的に調べ上げることくらいだ。
リシェルの素性に怪しいところはなかった。戦争によって若い貴族男性が目減りしたラビリアン王国の女性たちは、婿がねを求めて他国で婚活をしていた。リシェルもそのひとりだ。
なんらやましいところはない、身綺麗な女性。だがその身綺麗さがあまりに怪しかった。
警戒していたところに、あの初夜騒ぎである。
だがディランは、アゼルにもその他の使用人たちにも、リシェルとケイを拘束するよう求めなかった。
その理由は——。
「やっと僕を殺してくれそうな女性に巡り会えたんだ。これこそ慈愛の女神の思し召しだろう」
生まれてこのかた、祈ることなどしたことのない自分が、妻となった女性と女神を嬉しそうに崇める。その姿は忠臣の目にどう映っていることか。
「まさしく、殿下が求めておられた女性ですね」
「アゼル、おまえならわかってくれると思っていたよ」
かつて戦場で自分とともにあり、自分と対を成して「黒き悪魔」と呼ばれたアゼルが、失った右目の眼帯に手を当てた。かつての日々を思い出しているのかもしれない。
「私では殿下を殺せませんでした。今でもきっと無理でしょう。私が殿下に抱いているのは、愛というより忠誠ですから、女神のお望みからは外れています」
薬箱を片付けたその足でコーヒーを淹れたアゼルがカップを差し出す。温度といい濃さといい、すべてがディラン好みでつい笑みを深めてしまう。
「殿下が無事殺されますよう、私も陰ながら応援いたします」
元エルネスト皇軍の軍人であり、一度は皇妃派の人間としてディランの元に送り込まれ、右目を失ったことで第一皇子に従うようになったアゼルが、慇懃に頭を下げた。
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助奏
独唱や独創をより効果的にするために、伴奏とは別に演奏される音楽。




