風邪っぴきの狂詩曲《ラプソディ》1
ゲホゲホと激しく咽こむ主人に薬湯を差し出しながら、メイドのケイは心配そうに声をかけた。
「リシェルお嬢様、大丈夫ですか? 滅多に風邪などひかれないお嬢様が熱を出されるだなんて……」
「心配してくれてありがとう、ケイ。でも私はもうお嬢様じゃないわ。ディラン殿下の妻になったのだから妃殿下と呼んでちょうだいと、いつも言っているでしょう?」
「それは失礼いたしました。リシェル妃殿下。でも、妻となられたのだからいい加減お転婆は控えていただかないと」
「まぁ、私がいつお転婆を?」
「突然湖に飛び込んで寒中水泳を嗜まれたりですとか」
「いやだケイったら、面白くない冗談ね。私がそんなことするはずないでしょう?」
「そうでしょうか」
「そうよ」
「あはははは……」
「うふふふふ……」
「…………」
「…………」
エルネスト皇国皇城の外れに位置する離宮の皇子妃用の居室で、風邪を引いて寝込んでいる女主人を看病する、まだ十二歳のあどけないメイド。焦茶の髪を首元で二つのお団子に結び、細い手足をきびきびと動かして甲斐甲斐しく働くよくできた姿は、当然ながらハリボテである。
リシェルが薬湯を受け取った瞬間、ケイがアーモンド色の瞳を歪め、盛大にため息を吐いた。
「はああぁぁぁ。また失敗したのかよ。なんで神父様はコレを黒鍵のエースだなんて持て囃したんだろ……ダッサ」
「しょうがないでしょう!? あの男が突然避けるのが悪いのよ! それにただ避けるだけならまだしも、バランス崩した私の足を掬い上げたのよ!? そのせいで落ちるはめになったのよ!? どんだけ陰険なの!!」
苦い薬湯に顔をしかめながらそう返せば、先ほどのしおらしいメイド姿の衣なぞさっさと脱ぎ捨てたケイが、小馬鹿にしたように笑った。
「それで一月の湖で寒中水泳して熱出すとか、どんだけマゾなの」
「うるさい! 名誉の負傷よ」
「間抜けの負傷の間違いじゃね?」
「〜〜〜〜〜〜っ!!」
顔が赤いのは熱のせいなのか怒りのせいなのか、自分でも判別がつかないリシェルは苛立たしげにブランケットを叩いた。
「いったいなんなのあの男! 呪われた皇子だか軍神殿下だか白い悪魔だか知らないけど、なんであんなに死なないわけ!?」
「そりゃ、簡単に死なないから演奏依頼が来るんだろ」
「それにしたっておかしいでしょ! 毒は効かない、矢は避ける、刃物で狙えばなぜか刃の方が欠ける、暴れ馬からも落ちない、高いところから突き落としても平然と着地する、急所は逃れる……! 最後の手段と思って心臓発作を狙えばそれも経験済みって、なんなの? 歩く非常識なの最終兵器なの死神に喧嘩売ってんの!?」
「ここまでくれば信じてやってもいいな。“呪われた皇子は絶対に死なない”だったか」
女主人のために用意したであろう口直しのお茶を自分で啜りながら、ケイが呟く。リシェルが顔をさらに顰めたことを受けて、ケイは面白そうに嫌な笑みを浮かべた。
「ってことは、もうひとつの方も真実なんじゃね? “皇子を愛する人にしか皇子を殺せない”って」
「馬鹿言わないで。そんなこと……あるはずないでしょう」
「なんで? 慈愛の女神様の呪いだってよ。オレらの立場で否定するとか、許されんの?」
「——っ」
その名前を出されると自分たちは弱い。まさかディランがそこまで見抜いていて女神の名前を出したとは思いにくいが。
大陸に三十近くある国々に広がる、“慈愛の女神”信仰。これだけ広い領域で、国も民族もバラバラであるのに、ひとつの信仰が根付いているのは、ある意味凄いことだ。
その信仰の総本山となるのが、大陸中心に位置する聖主国だ。国というよりも宗教機関と言った方がしっくりくるその場所には、大陸大聖堂と呼ばれる教会しかない。国民は教会に所属する聖職者や宗教関係者、その身内のみで締められる。
国王はおらず、聖下と呼ばれる最高位聖職者をトップに戴く。聖下をはじめ、その下に仕える神父もまた、一律して慈愛の女神の僕だ。
小さな国ながらも唯一の宗教機関ということで、各国をも従える絶大な権力を持っているわけだが、俗世の事象には立ち入らないことを明言しており、国同士の争いなどには不干渉を貫いている。各国の為政者にとってもある意味都合がいい宗教であり、国主たちも聖下には表向き膝を折ってみせる。
そんな聖主国は、万人に愛を注ぐ女神の教えのもと、教育や貧困対策にも熱心だ。大聖堂には巨大な孤児院や教育機関が隣接しており、身寄りのない子どもを大勢養いつつ、彼らが女神の僕として独り立ちできるよう、教育も与えている。
黒鍵は、その教育機関の末端に名を連ねていた。もっともその名が組織図に直に記されることはない。
聖主国の中にあって、存在しないとされる裏組織の稼業は暗殺だ。大陸中から秘密裏に寄せられる暗殺依頼を、黒鍵内部では“演奏依頼”と呼んでいる。これは聖主国が芸術の振興に力を入れており、孤児たちにも熱心に音楽教育を施していることに由来している呼び名だった。
聖主国の孤児たちで構成される白鍵合唱団は、その音楽性の高さと団の背景事情から大陸中で人気の合唱団で、各地で出張公演を開いていた。表舞台に立つ白鍵合唱団に紛れるように、裏の黒鍵は演奏を請け負う。
リシェルもケイも、演奏家の才能ありと見なされ、物心つく前から組織で訓練を受けてきた。
組織の教えは絶対。それは、表では白鍵合唱団の、裏では黒鍵の指揮者として子どもたちを率いるマキシム・ドレイヴン神父によって徹底的に教え込まれている。
リシェルたちが信じるのはマキシム神父と、聖主国の根幹でもある慈愛の女神。
その慈愛の女神が、エルネスト皇家に呪いをかけ、白い髪に赤目を持った皇子が生まれるのだと、ディランは言った。
「ほんとに馬鹿らしい話よね。だって絶対に死なないって、それってものすごくラッキーじゃない。皇家の人間にとってはむしろ祝福でしょう。それを “呪い”と言い換えるなんて」
暗殺稼業に手を染めている自分からしても、喉から手が出るほど欲しい祝福だ。
「それはアレだろ。呪いの皇子が生まれた時代は荒れるっていう言い伝えのせいだろ。現にエルネスト皇国はこの十年で大陸中に戦争をしかけまくってる。敗戦に追い込まれて弱りきったところに、さらに別の国が戦を仕掛けて泥沼ってとこも一つや二つじゃない」
「その考えでいくと、呪いはエルネスト皇家にとってではなく、ほかの国々にとって、ということになるわね」
「だからあちこちから恨まれてるんだよな、あの皇子サマ。今回の演奏がどこからの依頼かなんてオレらも知らないけど、リシェルのでっち上げた設定のラビリアン王国が復讐を企んで依頼したっていうのも、十分ありうる話だぜ」
演奏依頼の出元は、末端の演奏家にすぎないリシェルたちまでは降りてこない。楽器を演奏するのに、作曲のあれこれの事情はいらないのだ。
だから今考えるべきは、いかにしてディランを殺すか、なのだが。
「だからってなんで、愛することが殺すことになるのよ! さっぱりわかんない! っていうか、愛する人間に殺されるとかって、すっごい悪趣味なんだけど!」
あらゆる演奏手段が失敗に終わった今、八つ当たりでもしなければやってられない気分だ。
そう思いながらブランケットを叩けば、「少し違うな」と聞き慣れた声がした。




