上書き
三題噺もどき―にひゃくきゅうじゅうさん。
外から、セミの声が聞こえる。
まだ時期的には早いと思いもする……正確な時期は知らないが、いまではないだろう。
「……」
しかし……この家の木の下に、セミの幼虫が埋まっていたのかもしれないと考えると、少しぞっとする。
ああいうのは苦手なのだ。
うねうねとして、ブニブニとしていて。
―地中にもぐって、隠れてしてまでも、生きようとする姿が。
「……」
生きようと願い、もがいたところで。
それが叶わぬことなんてザラにある。
生きることができると、言われていても、生きられなくなることだって、ある。
訳も分からず、死んでしまう事だってある。
―人間は、そういうことだってある。
「……」
彼らより大きな体の癖に、もがいてもかなわないというのは、少し。
そいう光景を、目の前で見てしまったこの身としては、彼らは、羨ましくも、妬ましい。
―まぁ、虫一匹にそんな感情を抱いたところで。
「……」
はぁ……本当に。
虫一匹に対して、何をうだうだと考えてしまっているんだろう。
あの日から。
あの日から、ずっと。
生きるものが、憎くて仕方なくて。
あらゆる“生”に、文句ばかりつけて。
こんな奴の方が、いなくなるべきだ。
―なんで、美しい彼女が、いなくならないといけないんだ。どうして、私じゃなかった。
「……」
あの日から。
彼女がいなくなってからずっと。
毎日を見下にしていって。
ただ、彼女が好きだった景色を眺めて。
和室から見える生き物に恨み言を言って。
「……」
今日もこうして、ただ外を眺めるだけ。
この日まで、生きているはずだった。彼女のことを―。
生きて、居るはずだったのに。
「……」
春の息吹が、彼女を、連れて行った。
「……」
そういえば、あの時外をひらひらと舞っていた蝶は、もう庭にはいない。
彼らは、どこかで羽でももがれてしまったかもしれない。それともまだ、美しく舞っているのだろうか。
「……」
どちらにせよ。
あの日から、こうやって醜くも生きている私に比べたら、美しく居るだろう。
美しいモノを美しいとも言えず、ただ周りを憎んでいるだけの私に比べたら。
「……」
彼女がいなくなったあの日から。
ずっと。
何度も。
何度も。
「……」
今日この日までずっと。
毎日。
毎日。
「……」
生きている意味も。
息をしている価値も。
ここに居る理由も。
何もなくなった私は。
「……」
ずっと。
彼女の後を。
追いかけようと、もがいた。
「……」
それでも、その度に。
彼女が。
その際に呟いた言葉が。
鼓膜を叩いた。
幾度も頭に響いた。
「……」
生きて。
というその言葉が。
何度も私の手をとめた。
「……」
「……」
「……」
けれど。
けれども。
だんだんと。
その言葉は残っていても。
「……」
彼女の。
声が。
「……」
聞こえなくなっていた。
「……」
何度も、あの言葉に止められた。あの声が響いていた。そのはずなのに。
そのはずなのに。
「……」
彼女の声は、こんなだったかと。思ってしまった。
これは、私の知っている誰かほかの人の声なのではないかと。思ってしまった。
彼女の声は、ほんとに、こんなだったかと。思ってしまった。
「……」
彼女の声は。どんなだったかと。
「……」
そう。思ってしまった。
「……」
その瞬間から。
私の中から、こぼれていった。
彼女の言葉と、記憶と、声と。
「……」
もちろん。
藻掻いた。抗った。何度も何度も。あとを追いかけようとするたびに、彼女の言葉を呼び起こした。どうにか、どうにか。
どうか―
「……」
だがもう。
気づいてしまったあとは。
ただ、こぼれていくだけだった。
「……」
何度でも、思いだそうとしても。
その度に何かに邪魔された。
「……」
ただでさえ、か細く消えそうな記憶を、手繰り寄せているのに。
「……」
季節外れの花火の音に消された。
蚊が飛び出したからと焚いていた、蚊取り線香の匂いごときに消された。
暑くなってきたからと出した、扇風機のモーター音にかき消された。
「……」
汗ばむ肌も、それを撫ぜる扇風機の風も、外で鳴くセミも、それに応えるように喚く子供の声も、変わりゆく季節も。
「……」
全部。
お題:花火・扇風機の風・蚊取り線香