第7話 『――20年前のあのときのように、また守ってくれますか?』
上も下も、前も後ろも、右も左も、なにもない、ただ乳白色の世界。
こう真っ白で定点を置ける物体がないと、自分が立っているのか、寝そべっているのか、ただよっているのかすらあやふやになる。
「おーい、誰かいるかー?」
呼びかけてみるが反応はない。
反応がないのは誰もいないからなのかもしれないし、俺の声が届いていないからかもしれない。というのも、口を大きく開いて声を出しているつもりなのだが、俺の声が耳で感じ取れないからだ。
声だけではない。両手を打ち合わそうがひざをたたいてみようがなにも聞こえない。
痛みだけは残るので、そうした動作をしたことは事実なはずだ、おそらく。
このままでは非常にまずい事態なる。俺の理性が警鐘を鳴らす。
ここがどこかを考えれば、間違いなくリナリアの心の中だ。
あのメルヘン堕天使、【心の扉】を使って自分で自分の心の中に逃げ込んだのだ。
そんな荒技、どれだけの魔力を消費するか想像もできない。下手をすれば命も削られかねないのに、死ぬ気かアイツは。
そして俺は、おそらくそれに巻き込まれた。
プルサティラや勇者が巻き添えになっていないか心配だが、俺の見える範囲では誰もいないので無事だと信じたい。いや、勇者は別に無事でなくてよいが。
とにかく、ここにいるのは俺とリナリアの2人だけ。
そしてやっかいなのが、ここはリナリアの「心の中」ということだ。
「リナリアの思いどおりにできる世界」というのもそうだが、それよりも重要なのは「リナリアの心と同化しかねない」という点だ。
【心の扉】は相手の心の中をのぞくだけではない。その扉を通じて入れた物や言葉を相手の心に刻むことができる物騒な能力だ。
その能力で知能を持つものを入れたらどうなるのか。当然「相手の心に刻まれる」だろう。つまりそういうことだ。
現にいま俺は、自分という存在の境界線があいまいになりつつある。
このまま手をこまねいていては、次第に自我が崩壊し、アイツと一体になってしまうだろう。むしろそれがアイツの狙いなのか。
「リナリア、聞こえているのだろう? このままではまずいことなる。お前は分かっているのか?」
音のない声が俺の頭の中だけで響く。実際には無音。
ダメか――そう思った瞬間、乳白色の空間がぐにゃりとゆがみ、瞬時に闇の夜空に変わった。
※ ※ ※
夜空全体を埋めつくした暗色の雲の下にはいくつものビルが建ち並んでいる。
そのビル群に灯る明かりは少なく、道路には人も車も見えないことから、深夜の遅い時間帯なのだろう。
冷たい夜の街。はらりと雪も舞う。
俺はこの光景を知っている。20年前、ひとり忍び込んだ人間界の街だ。
不愉快だ、いまいましい過去の記憶など見せてどうするつもりだ。
そのとき、俺の視界の端でなにかが動いた。
見ると、手前のマンションのベランダにガリガリに痩せ細った男の子がひざを抱えてうずくまっていた。
乱れた髪にランニングシャツと短パン姿のその男の子は、歯をガチガチいわせながらくしゃみをしては鼻をすする。もっとよく見ると、身体中には大小さまざまなアザ、左頬と右目は赤くはれていることが分かる。
ベランダに面した窓に明かりはない。エアコンの室外機だけ重低音を響かせている。
男の子の唇が紫色なのを見ると、かなりの時間、この状態で放置されてるのだろう。
それなのに窓をたたいて助けを求めないのは、こうした状況に慣れてしまうほど繰り返されてきたのか、あるいはすでにあきらめてしまっているのか。
どちらにしても胸がムカムカする、最悪な気分だ。
気づけば、その男の子はヨロヨロと立ち上がり、ベランダの手すりにへばりついた。
そして、のそのそと手すりにまたがり、最後の力でその上に立った。
おい、まさか、冗談だよな?
手も足も、身体中すべてを小刻みにふるわせながら、下を見て、そして上を見る男の子。
そこは10階なんだ、冗談ではすまないぞ。
そのとき、男の子の心の声が俺に流れ込んできた。
「辛いからこのまま死にたい。でももし、この声を聞いている人がいるなら――どうか助けてください」
なんだそれは。人間ってのは自分のガキをこんなふうにしてしまうのか!
過去の記憶だと分かってはいるが全身の血が沸騰しそうだ。
いまの俺がその場にいたなら、契約違反にならないギリギリをついてどうにかできたものを。
なぜ他のヤツは誰も気づかない。このガキは「自分はここにいる」って叫んでいるのに、どうして誰も返事をしてやらないのだ!
誰か、誰かいないのか!
しかし、静寂に包まれたこの場所で、この男の子以外に動くものはない。
男の子もそれを悟ったのだろう。
一瞬、悲しげに口元をゆがめると、急に力が抜けたように前に倒れた。
音もなく落下する男の子。
ダメだ、助からない――そう思った瞬間、神々しい光の玉が厚い雲を突き抜け、男の子を包み込んだ。
その光は少女へと姿を変え、男の子を優しく抱きしめる。
頭の上に輪があるので天使だろうか。しかし翼がない。まさか、飛べないのでは?
俺の予想どおり、光の少女は男の子を抱えたまま落下する。
なにしに来たんだ、アイツは!
そこに、黒い影が急接近する。
その影は2人の服をつかむと、背中の翼を激しく羽ばたかせながらゆっくりとマンションの駐車場に降り立った。
黒い翼を持つソイツは、間違いなく20年前の俺だった。
そうか、20年前、俺はそうやって助けてしまったのか。そして、助けたこの2人がリナリアと勇者というわけか。
「ワタシはあなたの声を聞きました。あなたはこの世界にいていいのですよ」
20年前のリナリアが、もうろうとしている20年前の勇者の耳元で優しくささやく。
勇者はリナリアのひざの上でうれしそうに笑顔を見せたあと、安心したように目を閉じた。
ああ、なるほど。勇者がリナリアを手に入れたかったのはこれが理由か。
このときの思い出をずっと自分のものにしておきたかったのか。
リナリアがゆっくりと手をかざすと、幸せそうに眠る勇者がすうっと消えた。
おそらく勇者の部屋のベッドへと【瞬間移動】させたのだろう。
「あなたは天使なのですか?」
ふり返ったリナリアが20年前の俺にたずねる。
本当にコイツはいまも20年前も変わらないな――幼児体型が。
「黒い羽根を持つのは悪魔だけだ。お前こそ天使のクセに空も飛べないのかよ」
「はい、ワタシは飛べないのです」
屈託なく無邪気に笑うリナリアに、ばつが悪そうに鼻頭をいじる20年前の俺。
このときの俺は、自分がしでかしたことの重大さをみじんも考えていなかったのだろうな。
本当にバカだよな、俺は。このことをいままで忘れているほどにな。
俺が忘れてしまった20年前のリナリアは、ゆっくりと立ち上がると、かしこまってお辞儀をする。いつの間にか翼を持った白い馬がリナリアの背後に付き従う。
「助けてくださりありがとうございます。ワタシの守護天使さま」
「な、なに言ってる! 俺は悪魔だって言ってるだろ」
「いいえ、天使なのです」
頬を上気させ、大きな青い瞳を輝かせながら、リナリアはニコリと笑った。
「ワタシの声を受け取って、あなたはきちんと返してくれたではありませんか。相手の声に応え人を救う存在を天使と呼ぶのですよ」
※ ※ ※
遠ざかる20年前の光景。そして広がる乳白色の世界。
俺はまた、白いだけのなにもない世界にただよいはじめた。
20年前のあの出来事のあと、俺は父親につかまり、勝手に人間界に入ったことに加えそこで子どもを助けたことがバレてしまう。
父親は真面目な悪魔だった。
真面目だったので魔界の秩序に従い、俺がしでかしたことを包み隠さず申し出た。
その結果が下級悪魔への転落と一家離散だ。
すべては俺のせい。
その重圧に耐えかねて、俺は20年前のことを消し去ってしまった。
しかし。
しかしだ。
それをわざわざ見せつけてきたということは、あのメルヘン堕天使、心を閉ざしたフリしてこちらをしっかり見てやがるということだ。
そう確信した俺はあらん限りの声で叫んだ。
「すねてないで出てこい、この堕天使が!!」
しばしの沈黙、そして。
『そんな声ではワタシにまで届かないのです』
「届いてるではないか」
『そうではありません。きちんと、あなたがいることを知ってますよーって気持ちで返すのです』
面倒くさいメルヘン堕天使だ。どんな気持ちなのだそれは。
『聞こえてますよ、ニグルムさん』
いかん、この中では意識がつながっているのでなにもかも筒抜けなのだな。
それにしてもなんだ、さっきからのこの胸の高鳴りは。頭は熱を帯びてまるでのぼせたようだ。全身もなんだかほてってきたような気がする。
『――私はニグルムさんが好きです。大好きです。愛してます』
いま俺が自覚しているこれらの現象は、あのメルヘン堕天使の気持ちということなのか。
『ニグルムさんはどうなのです? ワタシはずっとずっと声を出し続けてきたのにぜんぜん返事がありません』
そして続く沈黙……ずっと沈黙。
このまま無が続くと乳白色の世界に溶けてしまいそうだ。
俺がなにか言うまでだんまりを決め込むつもりなのだろう、アイツは。
これはもう立派な脅迫だ
「脅して引き出した言葉にお前は満足なのか?」
『ワタシの守護天使さまはその場しのぎの言葉は言わないのです』
なんだその信頼感は。お前は俺のなにを知っている。
ったく。わかった、もうどうにでもなれ。
「一度しか言わないからよく聞け。俺はお前を嫌ってはいない。これでどうだ」
しばしの間、そして。
『まだですね』
「聞こえているなら返事ぐらいしろ。いい加減、俺の出世のために戻ってきてくれ」
『さっきよりひどくなりました』
「お前、いつまで自分の心の中に引きこもっている気だ」
『どうでもいいのです。ワタシはひとりでワタシの中にずっといますから』
「それだから危なっかしくて見てられない――俺の目の届くところにいろ。そうでないと俺がフォローできん」
俺の胸の奥にうっすらと温かななにかがわき上がる。これは俺のものなのか、それともリナリアのものなのか。
……そして。
『――20年前のあのときのように、また守ってくれますか?』
「いや、それはできない」
俺の身体の中で寒風が吹きすさぶのを感じる。これはリナリアの意識の方だ。
「俺はお前に見せられるまで20年前のことを忘れていた。さっき見せられたが、正直、それでも思い出せない。なので20年前と同じ気持ちではできない」
そう、これが俺の正直な気持ちだ。できないものはできない。
約束できるのは、過去ではない、未来だ。
「――ただ、20年前の俺ではなく、いまの俺がいまの気持ちのままお前を守ることなら約束できる」
『…………』
刹那、はじける乳白色の世界。
急に吹いた強風が白の破片を吹き飛ばす。そして強風が残した甘い香りが充満する。
――これは花の香りか?
乳白色の世界の先に現れた、空間すべてを埋める大小さまざまな花のつぼみたち。
俺に気づかれたことを知ったつぼみたちは、恥ずかしそうに身を揺らしたかと思うと一斉に花を咲かせはじめた。
色とりどりの花びらが宙を舞う。
天を見れば、乱れ飛ぶ花びらとそれを囲む花々が円を描いている。
それら花びらの祝福を一身に受け、輝く光の中から少しずつ少女の姿が形作られていく。
その少女は、頭上に光の輪を乗せ、プラチナブロンドの髪をたなびかせ、大きな青い瞳をまっすぐに俺へと向けている。
そして、いままで見せた表情の中で一番の、満面の笑顔。
――そんなにいい顔しても、なにも出ないぞ。
天から降りてきた少女の、白い、細い腕が俺の首にからみつく。
近づく顔。頬に息があたる。思えばこんなに近づくのは初めてだ。
『まだまだぜんぜんですが、今回はこれで許してあげるのです』
耳元でそうささやくと、少女は柔らかいピンクの唇を俺の頬に押しあてた。
いま俺の身体中を埋めつくしている感情は、リナリアのそれが流れ込んでいるに違いない。
俺だけの意思であるならば、絶対に、そんなことをするはずがない。
もう一度言うが、絶対にだ。
「ふざけるな。このメルヘン堕天使が」
俺はそう言いながらリナリアの頭を優しくなでた。