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私は詰所へ行き、今までのことを話した。
違法だと分かっていながら、人工魔女を助け匿い、今まで保護してきたこと。その子が、禁術に手を染めていたこと。
家の場所を伝えると、街の治安を守る使命を帯びた魔法使い達は、一斉に詰所を出ていった。制止を振り切り、私はよろよろとその後ろをついていった。
禁術とは、決して触れてはならない禁忌なのである。どのように運用したって、人のためになんて使えない。何かを踏みにじり、蹂躙し、支配するために作り出されたものだ。たとえ使用の意思もなく、いささか過ぎた好奇心のために知ろうと試みるだけでも大罪なのに、あまつさえその呪文を口にし、誰かに差し向けようとするなんて、
……目もくらむような、許しがたい罪である。
私はきちんと教えた。何度も何度も教えた。触れてはならない魔法のあることを。魔法とは私たちの発展の為に使われるべきもので、誰かを害するために使われるものではないのだと、私は確かに説いたはずだ。
そしてそれを、ネクア自身も理解していたはずだった。
……人工魔女を造る技術などは、禁術中の最たるものである。その被害者であるネクアなら、他者を蹂躙して自分のものにしようとすることがいかに罪深いことか、理解できないはずもないのに。
玄関から引きずり出され、ネクアは混乱したように目を白黒とさせていた。雨に打たれて、その髪があっという間に濡れて重くなる。
「せん、せい」
人混みの隙間から私を見つけ、ネクアは呆然としたように呟いた。私は反射的に目を逸らそうとしたが、奥歯を噛んでそれを堪えた。ここで見ないふりをするのは、あまりに不誠実だ。
「先生、助けて、」
ネクアが身をよじる。ぐいと押さえつけられて、顔を歪めて呻いた。
「先生……っ!」
私はネクアにかける言葉を持たなかった。呆然と、その目を見つめるしか出来なかった。
ネクアが制圧されるのを目の当たりにしながら、私は動こうともしない。それを見て、ネクアは衝撃を受けたように動きを止めた。
「先生、どうして……」
ぽつり、ネクアが呟く。私は何か苦いものを奥歯で噛み締めるような思いで、口を開いた。
「禁術がどのようなものなのか、君なら知らないはずがないと思っていたよ」
私の言葉に、ネクアは大きく目を見開く。絶望したような表情だった。虚ろな表情で、ゆるゆると首を振る。
「ごめんなさい、……ごめんなさい、先生」
「私も罪人だよ。君に裁きを下すのは私じゃない」
私は静かに告げた。私も、人工魔女を匿ったという罪を背負っている。いずれ、私も然るべき罰を受けることになるだろう。
詰所から勝手に出てきた私を、数人の魔法使いが連行しようとする。抵抗の意思はないが、一度逃げ出してしまったのでそうともいかないらしい。後ろ手に両手を戒められて、私は思わず小さく呻く。なかなかしっかり縛られたものである。
「――先生に、触るなッ!」
荒々しい怒鳴り声に、私はそれがネクアの発したものであると理解するのに数秒を要した。私は振り返り、ネクアを見据える。私の視線が向くと、ネクアは急激に狼狽えたような表情になった。
「先生、待って、……行かないで、」
ネクアが手を伸ばす。私は曖昧に微笑んだ。ネクアは激しく首を横に振る。体を捻って、少しでも私に近づこうとするみたいに、必死に叫ぶ。
「助けて、先生!」
悲痛な声に、私は咄嗟に手を伸ばしそうになる。けれど腕は動かない。そのことに何故かほっとしている自分がいた。
「ネクア、ごめん」と私は呟いた。「私も魔女の一員だから、……君を見逃すことは出来ない」
ついに私は目を逸らす。ネクアが視界の端で青ざめる。
「嫌だ、や、いや、捨てないで、」
震える声で、ネクアが私を呼ぶ。私は無理やりその声を黙殺した。
「先生っ!」
それはもはや哀願だった。私は唇を噛む。雨が降りしきる。ネクアはずっと私を見ていた。……それを受け止められない私は、目を逸らすばかりだった。
――あのとき、はっきりと向き合っていれば、私はあの子の底が見えていたのだろうか。
***
……痛い!
わたしは前髪をぎゅっと握りしめた。頭が痛い。わたしの中で何かが暴れている。
「覚えてる……私、知ってる、」
自分の呼吸が耳の奥を擦った。わたしは頭痛を堪えるようにきつく目を閉じた。
「あの日は、ずっと、雨が降ってて、……そう、それで、私、あれから」
痛い。内側から叩かれるみたいにがんがんと痛むのだ。
『ねぇ、思い出して』
文字は囁く。
『はやく、はやく』
文字が急かす。わたしは頭を押さえていた手を何とか引き剥がし、日記に指先を伸ばす。見たくない、と、何かが叫ぶ。見てはいけない、と別の何かが叫ぶ。それらを諸共ねじ伏せて、わたしは次のページを開いた。
『さあ、怖がらないで。崩壊の時はもうすぐだ。崩壊は遠い昔のこと。あなたは今でも崩壊の中』
走り書きが嘲笑う。
『何も知らないでは、何も終わらないんだ』
***
釈放されてすぐ、私は家の中の荷物をまとめ、遠い異国へ引っ越した。
私の罪は人工魔女を報告せずに保護していたという程度のもので、自首したこともあり、ほんの数ヶ月の拘留で私は釈放された。魔女にとってみれば、そんな程度、大した時間ではない。
新たな住まいは、人里離れた森の中を選んだ。……どうせ、もう同居人もいない。買い物に行くなら転移を使えば良い。
しばらく、人の気配のしないところで過ごしたくなったのだ。ここでは何の情報も入ってこないし、私がここにいることを誰も知りやしない。隔絶された場所は思いのほか心地よかった。
ネクアはどうなったのか。それを考えないようにして生きていた。情報の入らないところを選んだのはそのせいもあった。
――緩やかな生活が続き、四年ほどが過ぎた。
その日はうららかな春の日で、梢の花々が開き始める頃で、馬鹿みたいに開けっぴろげで明るい空気が満ちていた。
窓際に置いてある花に水をやり、洗濯物を外に干して、私は外の空気を吸い込んだ。僅かに雨の匂いがしたので、そのうち洗濯物を取り込まなければならないだろう。
あんまりぼうっとしていられないな、と少し考え、それから私は大きく伸びをした。
重なり合う枝々の隙間から見える遠い空を、呆然と眺める。どうして、私はこんなところにいるのだろう。不意にそんな思いに襲われることが、時折ある。日々が空虚だった。何か大切なものが、すっぽりと抜け落ちたような感覚だった。何が足りないのかは分かっている。
何だか、現実味がなかった。本当に私は今、ここにいるのだろうか。一人で……そう、たった一人で。どうして……。
「……ネクア、」
おずおずと、私はその名前を唇に乗せる。あの子の名前を口にするのは、あれ以来、初めてのことだった。
――ちり、と首の後ろに何かが触れたみたいな感覚がした。ぱっと手で押さえるが、何もない。
「虫……?」
振り返って辺りを見回す。もう飛び去っただろうか。
「もう、虫が飛び始める時季、か……」
私は唇を尖らせて呟くと、そのまま家の中に戻った。
ふと、目を覚ます。窓の外では、しとしとと雨が降り始めていた。
机の上に突っ伏して寝てしまったらしい。慌てて体を起こすと、私は窓の外を見る。
「洗濯物、しまわなきゃ」
立ち上がり、急いで外へ出た。洗濯物は、木と木の間に渡した棒にかけてある。触れてみれば、音のない雨の中でしっとりとしていた。
慌ただしくそれらを回収する。天気が良いと思ってシーツまで洗ってしまったのは失敗だったかもしれない。両腕で大量の洗濯物を抱えた私は、よたよたとその場でたたらを踏んだ。
「……っ!?」
――そのとき、私は、薄暗い木立の向こうに、人影を見つけた。傘もささず、気配を消すように静かに、やや距離を保ったところに佇立している。
「え、」
この周辺には相当に広い範囲で封印をかけてある。弾かれる条件は、私よりも大きな生き物。熊や狼なんかの侵入を防ぐための結界のはずだった。
……だからといって、人間を弾かない訳ではない。
私は後ずさりする。結界が破られたことを、私は全く感知できなかった。何もだ。ここに辿り着くまでにも様々に報せが来るよう仕掛けがしてあるというのに、そのどれも、私にこの侵入者の存在を教えてはくれなかった。
雨のそぼ降る林床で、その人はじっと私を見ていた。距離があって、その顔は見えない。けれど、鋭い視線が突き刺さっているのは感じる。深くフードを被っていてはっきりとは分からないが、長身の男のように見えた。
「あの、」
声をかけても、反応はない。得体の知れなさに、私は身を竦めた。まさかここまで迷い込んでしまった訳でもあるまい。警戒すべきである、と私は判断し、身構えた。
睨み合う。私はじりじりと後ろに下がり、ゆっくりとした動きで腕を持ち上げた。無言で私を窺っていた相手が、焦れたように一歩こちらに踏み出す。
――その瞬間、私は地面に仕掛けてあった罠を発動させた。
白い煙が視界を覆う。身を翻し、扉を開け放って家に入ると、腕を一振りして家中の窓や戸に封印をかける。抱えていた洗濯物を長椅子に放り、部屋を大股で横切って私は貴重品の入った鞄に手を伸ばした。
鞄の取手に指先が触れた瞬間、激しい音を立てて、背後の扉が開け放たれる。私は息を飲み、弾かれたように振り返った。
俯いたまま、その人は扉の枠に片手を当て、無言で立っていた。毛先から雫が落ち、床に染みを作る。私は声もなく凍りついていた。
……罠で動きを止めたはずだった。新しく結界を張ったはずだった。鞄を引き寄せ、私は壁に背を押し付ける。転移をしようにも、動転して上手く目的地を設定できない。
「やっと、見つけた」
じりじりと壁際を移動する私に向かって、とん、と足を踏み出して、その人は片手でフードを押し上げた。
「――先生、お久しぶりです」
聞いたことのない声だった。けれど、その面影には、どう目を逸らしたって見覚えがあった。
いやに整った顔に、長い黒髪、紫色の瞳。でも、記憶にあるよりもずっと大人びていて、背も高いし、まるで知らない人みたいだった。……それに、
「どうして、」
……それに、ネクアは、もう死んだものだとばかり、思っていたから。
魔法使い達が、人工的に作られた魔法使いを生かしておくはずがない。ましてや、禁術に手を染めたような存在を、野放しになんてするはずがない。
もう四年が経ったのだ。とっくの昔に、……処理されているものだと、思っていた。
「先生が、呼んで下さったから」
ネクアは薄らと頬に笑みを浮かべて、私に手を伸ばす。私はその手を避けるように身をひねった。
「呼んでくださったでしょう、先生。僕のことを呼んでくれたでしょう。だからここに馳せ参じました、先生。先生が呼んだから」
「そうじゃ、ない……っ」
私は小刻みに首を振る。何かがおかしかった。有り得るはずのないことである。ネクアが、ここにいるはずがないのだ。
これ以上ここにいるのは危険だ、と直感が告げていた。
胸元に鞄を抱き寄せ、私は慎重に片足を持ち上げる。転移の際、地面に爪先を打ち付けるのが、私の癖だった。
「――先生。どうして、逃げようとするんですか」
爪先を床に向けた瞬間、ネクアは私の目から視線を逸らすことなく、低い声で囁いた。私は目を見張る。
…………気づかれて、いた。
息を飲むと、ぎゅっと目をつぶって私は足を振り下ろす。間髪入れずにネクアは私の肩を掴んで、荒々しく壁に押し付けた。
長い黒髪が、はらりと肩から落ち、彼の頬にかかる。私の足をもう片方の手で押さえつけ、感情を抑えるように肩で息をした。ネクアは呻くように囁く。
「答えてください、先生。……どうして、僕から、逃げるんです」
「……質問をするなら、それなりの礼節は守りなさい、」
ネクアの胸を両手で押し返し、私は鋭い視線を向けた。きつく睨み上げると、ネクアは「ごめんなさい、先生」と口角を上げた。
ふ、と拘束の手が緩む。持ち上げられるようにして壁に押し付けられていた私は、床に着地してすぐに横移動する。
「どうして君がここに」
「ですから、先生が」
「違う!」
私はネクアから距離を取り、扉までの距離を目の端で測りながら、慎重に足を運んだ。ネクアはそれを見透かしたように肩を竦め、私に向き直る。
「君は、拘留されたはずだ。本来なら今頃、」
「ええ、殺されていたはずです。……先生がそう仕向けたんですよ、どうしてそんな顔を?」
さらりと告げられた言葉に顔を歪めると、ネクアはポケットに手を突っ込んだまま、嘲笑するように鼻を鳴らした。
「あなたに、そんな顔をする権利が、あるとでも」
「禁術に手を出した魔法使いに、外を歩く権利があるとでも?」
人殺しよりなおおぞましい。禁術は葬り去られるべき、悪しき技術である。
私は震える手をかざし、ネクアとの間に結界を張る。ネクアはそれを少し眺めてから、にこりと屈託なく笑った。
「禁術に手を染めたからこそ、僕は外を歩く権利を自ら手に入れたのですよ、先生」
その言葉が示す大罪に、私は全身を強ばらせた。もはやこの弟子が、私の手の及ぶ範疇にいないことを、無言のうちに悟る。
扉に一歩近付く。ネクアはそれよりも大きな歩幅で距離を詰めた。
「私のことを、怒っているの」
「……先生は、とても善良で、気高く輝かしい魂を持った人です。だから、先生があの通報に踏み切ったことを、とやかく言うことは出来ません。隠し通せなかった僕の責任です」
ひょいと肩を竦め、ネクアは飄々と答える。身構える私に美しい微笑みを投げかけて、ネクアは両腕を差し伸べた。
「四年近くずっと待っていたのに、一度も呼んで下さらなかったのは、少し業腹ですけど」と低く吐き捨てつつ、まるで『おいで』と言わんばかりに腕を広げてみせる。
「先生、帰りましょう。先生がここでの生活を望むんなら、僕がこちらで暮らしたって良い」
「何を、」
一点の曇りもない笑顔だった。それがいっそう恐ろしいのだ。
「僕はまだ、先生に教わりたいことがたくさんあるのです。その限りはずっと共にいると、先生が約束して下さったでしょう?」
「……何を、言っているの?」
私たちの師弟関係は、あの瞬間、……私がネクアを通報した、あのときに、崩壊したものだとばかり思っていた。
顔を引きつらせる私をよそに、ネクアは機嫌良さげに私に歩み寄る。
「せーんせい、」
ネクアが歌うように呟き、手を伸ばす。甘えるみたいな声音だった。とろけるような目をしていた。絡め取られるような感覚に、私は立ち竦む。
「僕の隠れ家まで連れて行って差し上げます」
おいで、とネクアが私の手を取った。咄嗟に私はその手を振り払っていた。
「や、やだっ!」
――それはまるで、私たちの出会いのようだった。外では雨足が強くなり、林冠に打ち付けられる雨粒がばらばらと音を立てている。
ネクアが、黙った。俯いたまま、無言で立ち尽くす。その様子に不穏なものを感じた私は、様子を窺いながら一歩下がった。片足を上げ、床に爪先を打ち付けようとした、その瞬間、ネクアの腕が私に向かって伸ばされる。
「どうして、先生は、……ッ!」
「何を、」
長椅子の上に押さえ込まれ、私は体をよじった。先程自分で放った洗濯物の山に埋もれる。日光の柔らかな香りと、重苦しい雨の匂いが同時に立ち上る。
ネクアは俯いたまま、表情が抜け落ちたような顔で私を見下ろした。背もたれに肩を縫い止めるその手に爪を立て、私は声を荒らげた。
「……離しなさい、ネクア」
「ああ、やっと呼んでくれた」
しかしネクアは心底嬉しそうに破顔し、身を屈める。私の頭を胸に抱き寄せて、ネクアが長い息を吐いた。
「僕は、先生のすべてが欲しい。先生の身体も、心も、その魂でさえ、この掌中に収めなくては気が済まないのです」
……馬鹿な、ことを。私は額をネクアの胸に押し付けたまま、歯を食い縛った。ネクアはうっとりとしたような声で私に囁く。
「先生は以前仰っていましたね。たとえ僕がすべてを先生に捧げたとて、僕は決して本当の意味で先生のものにはなれないのだと」
「私も、同じだよ。……君がどれほど私に尽くしてくれようと、私は決して君のものにはならない」
唸るように吐き捨てた。ネクアは静かにわらった。切なげな色を含む自嘲のように聞こえた。それともこれは私の願望だろうか。
「禁術が、禁じられた術であるのは、限りなくそれに近いことを、本人の意志を介在させることなく成し遂げるからです。違いますか」
「……よく、自分でその事に気づいていながら、このような」
私はネクアの胸を押しのけた。ネクアは抱え込んでいた私の頭を解放した。
私を囲うように、両腕を背もたれについて、ネクアが私を見下ろす。落ちてくる黒髪は、まるで檻か鳥籠みたいだった。
「僕は本当の意味で先生を手に入れることは出来ないかもしれない。けれど僕には、限りなくそれに近い状態を作り出すすべがある」
ネクアが私の額に人差し指を当てる。その指先が、熱を帯びる。禁術だ、と目を剥いた私は、死に物狂いで身をばたつかせる。それを難なく組み敷いて、ネクアは淡く微笑んだ。
「――先生。僕はいつだって、あなたに笑ってほしいだけなのに」
私の頬に、雫が落ちた。額に当てられた指が、痛いほどに熱を持つ。
「おやすみなさい、カンラ」
私の手のひらに口付けて、そして、ネクアは私の頭を撫でた。
意識が、遠ざかる。
――次に目が覚めたとき、わたしは見知らぬ室内にいた。
窓はなし。扉はひとつ。大きな寝台と小さな机。壁際の鏡台。戸棚と箪笥。
寝台から身を起こすと、わたしは鏡台に歩み寄った。鏡を覗き込み、わたしは真っ直ぐに自分の顔を見つめる。
少し童顔で、垂れ目で、頼りない顔をした女だ。くすんだ金髪、茶色の目。特に冴えたところのない、ただのしがない女である。
「わたしは…………誰?」
鏡面に指先をあて、わたしは呆然と呟いた。
***
同じ顔が、鏡の中からわたしを見返している。
少し童顔で、垂れ目で、頼りない顔をした魔女。記憶の中では顎の高さで切りそろえられていた髪は、腰ほどまで伸びていた。
『私はカンラ。かつてのあなたのいずれかだ』
日記が静かに告げる。私は唇を噛み、ゆっくりと頷いた。
『私たちは何度でも蘇る。幾度も記憶を封じられるたびに、そして記憶を取り戻すたびに、私たちはあの子の目を盗んで、あなたのためにこの日記を記してきた』
頭痛は未だに続いていたが、先ほどよりも僅かに遠ざかっていた。
「思い出した、……全部、」
私は拳を握って、重々しく呟く。これまで私の記憶が蘇るのを阻んでいた何かを、ぐっとねじ伏せる。
そして顔を上げた瞬間、私は目に映った光景に、無言で目を見開いた。間抜け面をした私の後ろに、記憶の中とさして変わらない見た目の男がいた。
「――それは、いけませんね」
私の背後、鏡越しに、ネクアが笑う。彼は艶やかな長い黒髪を、まとめもせずに背中に流していた。私は弾かれたように振り返り、言葉に詰まる。
ネクアは目元を和らげて囁いた。
「おはようございます、先生」
「……君は、自分が何をしているのか分かっているの?」
「ええ、すべて。痛いほどに」
ネクアが私に手を伸ばす。私は後ろに下がろうとして、鏡台に腰をぶつけた。これ以上下がれない。
「先生が扉に触れた報せがあったので、急いでここに来ました。何も知らない先生を、部屋に一人にしておくのは可哀想だと思って」
「扉……?」
私は眉をひそめる。――なるほど、今回の敗因はそれか。
脇を抱き上げ、私を鏡台に乗せる。冷たい鏡面に背を当て、私は警戒を顕にネクアを睨んだ。
「でも先生は全部思い出したんですね」
鏡に手をついて、ネクアは息混じりの声で呟く。
「……何度やっても、先生は、僕のものにならない」
「私はずっと昔に、そう言ったはずだよ」
魔女は歳を取らない。ネクアも同様だろう。一体どれほどの間私はここにいるのか、まるで見当もつかない。それを恐ろしいと思う心はもはや麻痺してしまった。
先生、とネクアが私を呼んだ。甘えるように私の頭に頬ずりして、背を撫でる。
「君はいつまで、こんな不毛なことを続ける気なの」
「いつまでも」
ネクアはあどけない笑顔で答えた。私はネクアの肩を押して、その体を遠ざける。
「先生は、いつになったら、僕のところまで落ちてきてくれるんですか」
乞うように私の手を包んだ。ひんやりとした手をしていた。紫色の双眸が熱く融ける。
「まだ、教えて貰いたいことが、たくさんあるのに」
「私には、君のような人間に教えるようなことは、もう何ひとつとしてない」
私は強く突っぱねた。ネクアは眦を下げ、「はい」と息を漏らした。
「そんなことは分かっています。それでも、……ねぇ、カンラ」
名を呼ばれた瞬間、体から力が抜けた。息をするように禁術を使った。私は自由に動く目だけを大きく見開いて、ネクアを見上げる。
くたりと鏡に寄りかかった私を抱き寄せて、ネクアは人形でも抱くみたいに私を揺すりあげた。
「それでも僕は、あなたの中の中まで、すべて知りたいのです。その魂に至るまで、どうしてあなたがそうも気高いのか。……僕はあなたに遠く及ばない」
幼子が駄々でもこねるような、心底不思議そうな声だった。私は力の入らない体を委ねたまま、開くことのない扉をじっと見つめていた。