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ぱちり、と耳の先が弾かれたような感覚がした。私は本を検分していた手を止め、姿勢を正す。
「封印に、何か触れた……?」
私はものぐさで、鍵をかける手間すら厭うてしまうので、様々な場所に気軽に封印をかけてしまっている。どの封印からの報せなのか分からず、私は腕を組んで考え込んだ。
「何かあったら……いや、考えすぎかな」
家にはネクアがいる。もしも何か異変があったのなら、あの可愛い弟子のことが心配だった。
本を棚に戻すと、私は足早に本屋を出た。人通りの少ない道に体を滑り込ませて、石畳を爪先で打つ。ふわりと体が浮いた。
自宅の前に降り立って、私は玄関の扉を開く。封印をかけていそうな場所をざっと見回りながら廊下を歩きながら、家の奥まで進んだ。
「ネクア……?」
しかし、ネクアが見当たらない。血の気が引く。大股歩きになりながら、私はネクアを呼んだ。
「ネクア、ネクアっ!」
「先生?」
ひょい、とネクアが顔を覗かせたのは、私の部屋からだった。私は目を見開く。
「ネクア、私の部屋で、何を……?」
「お掃除、です」
私が声を低めて問うと、ネクアは肩をすぼめて答えた。
「駄目、でしたか……?」
「ああいや、……私の部屋は掃除しなくても良いと言わなかったっけ」
自室に肩から入り、さり気なくネクアを廊下に出す。部屋をざっと見回したが、特にこれと言って問題はなさそうだ。封印に何かが触れた報せは、私の部屋の扉にかけたものだろう。
「危険なものもあるから、私の部屋には入らないようにね」
「はい、先生」
どこかしょんぼりとした様子で俯くネクアに苦笑して、私は腰に手を当てた。
「ちゃんと言ってなかったとしたら私の責任だよ。ごめんね、いきなり」
「いえ……」
言いつつ、扉を閉める。後ろ手に封印をかけて、私はネクアと目を合わせた。
いつしかネクアの身長は私と並ぶまでになっていた。私が元々大柄な質ではないのもあるが、ネクアはここ一年ですらりと背が高くなった。
「ネクアの髪は綺麗だね」
揺れる三つ編みを撫でる。ネクアの腰の辺りで、筆のような毛先が跳ねた。
「たまには髪を短くしてみないの?」
「先生が、綺麗と言って下さるから……」
ネクアは目元を緩めて頬を搔く。ネクアはここに来てから、一度も髪を切っていない。三つ編みをして腰の長さなのだから、解けばもっと伸びていることだろう。
「別に、私のことなんて気にしないで、自分の好きな髪型にすれば良いんだよ」
「先生は、髪が短い方がお好きですか?」
ネクアが私をちらと窺う。私はうーんと顎に手を当てて考え込んだ。
「きっと、髪を切っても素敵だろうね」
「そう、ですか……」
少し掠れた声で、ネクアは物思いに耽るように呟く。「自分の好きなようにすれば良い」と私は腕を持ち上げてネクアを撫でてやった。艶やかな黒髪は、見た目の通り、滑らかな手触りをしている。
私はネクアの目をしっかりと見据えて、その肩に触れる。
「君は既に、自分の身体を他人のもののようにされるという不快感を知っているはずだよ」と、腕に刻まれているはずの印を暗に示しながら、私は告げた。
「君のすべては君のものだ。君の身体も、心も、魂も、何一つとして本当の意味で私のものになんてならない。すべて君のものなんだよ」
ネクアは目を見張った。その唇が、注視しなければ分からないほど僅かに動く。
「――わたしは、先生のものに、なりたいのに」
その次の日、ネクアは毎日時間をかけて手入れをし、今まで一度も切らずに伸ばしてきた長い髪を、ばっさりと切り落とした。
***
わたしは唇を噛んだ。今見たもの、その言葉を、私は確かに覚えている気がした。
「この気持ちは、何……?」
酷く裏切られたような痛みが胸に走る。喉元を抉られたようにわたしは顎を逸らして喘いだ。
裏切られた。ふつふつとそんな思いが湧き上がってくるのに、それがどういう意味なのかまるで分からない。
『裏切ったのは お互い様』
走り書きが、紙に置いた親指の下で嗤う。
『逃げないで。これはあなたの物語』
指先から絡みつかれるような思いだった。続きを見るのが怖い。嫌な予感がするのに、手を離すことが出来ないのだ。
『さあおいで。共にゆきましょう。これは、私が罪の代償を払わされるまでのおはなし。あなたがあなたになるまでの昔話。あなたがあなたでなくなるまでの、静かで仄かな物語』
誰なのかも分からない、この文字の主は、一体。
『目を逸らさないで。私は、あなたを救いたいのだ』
誘い込まれる。手を引かれて、そして、わたしは、再び日記の中へ沈み込んだ。
***
違和感を覚えることが、増えた。何が、と言うことはできない。ただ、家の玄関に触れた瞬間、ネクアが微笑んだ瞬間、自室の扉を開け放った瞬間、――そんな、何の変哲もない日常の一瞬で、何かがチリチリとした。
自室を眺めながら、私は首を捻る。空気が違う。何かが動かされているような気がする。それはただの気のせいと切って捨てても差し支えのない程度の気がかりだった。
「先生」
一度、肩の高さですっぱりと切り落とされたネクアの髪は、再び背中の中ほどまで伸びてきていた。
「先生、どうされましたか?」
廊下で立ち尽くす私の顔を後ろから覗き込んで、ネクアが怪訝そうに声をかける。三つ編みが揺れた。少し前に私の身長を追い越したネクアは、心配そうに私の背に触れた。
「ネクア、君は、」
何を言おうとしたのか、私は自分でも分からなかった。
「……君は、美しいね」
そう囁くと、ネクアは緩やかに目を細める。
「わたしよりも、先生の方が、ずっと美しいです」
「君がそういうことを言うのは嫌味だね」
私が苦笑すると、ネクアは「そんなこと」と首を横に振った。
「先生の心根は、何よりも美しいです」
私の目をじっと見据えて、ネクアが真剣な表情で囁く。
「どんな宝石も、どんな花も、先生のその気高い心の前ではまるで霞んでしまうのです。宝石に価値があるのはそこに価値を見出す人がいるから。花に価値があるのはその美しさが儚く脆いから」
私は体を捻ってネクアを見上げた。ネクアはどこか恍惚としたような目をしていた。
「わたしのことを先生が美しいと言うのだって、先生がわたしの中に美しさを見つけてくれるからです。わたしがいつか、今のままのわたしでなくなるからです。でも先生は違う」
ネクアが私の手を掴んだ。少しひんやりとした手だった。一歩退こうとしたけれど、何故だか体が動かなかった。
「誰の前にあっても、どれほど時が経っても、先生の中にある芯は常に強くしなやかで、とても優しいのでしょう」
だからわたしは、と、ネクアが囁く。私は思わず目を逸らした。その続きを聞くよりも早く、捕まえられていない方の手でその肩を押す。
「……あんまり褒められると、照れるね」
照れ笑いで違和感を覆い隠して、私はネクアから距離を取った。ネクアは薄らと微笑むと、するりと手を離す。
「ありがとう。……うん」
喉に張り付いたような困惑を無理やり飲み下した。私は瞼の縁からネクアをそっと窺うと、顔を背ける。逃げるように自室に入り、扉を閉める直前、独り言のような囁きが聞こえた気がした。
「――どうすれば、先生の心は、わたしのものに」
私はそれを、聞こえないふりをしたのだ。
*
その日は、まるで私たちが初めて出会った日のようなどしゃ降りだった。
「あ、忘れ物した」
折しも私は仕事で数日間家を開けている最中で、しかもその忘れ物というのがなかなか重要な書類である。
「一旦帰って取ってくれば?」
魔女の知人が言ってくれたので、私はありがたくその場を離れて家へ戻ることにした。
激しく雨が石畳を打つ。傘は絶え間なく雫に叩かれて、私の手に振動を伝えた。都は人通りが多く、なかなか人目を避けて転移することが出来ない。どこか狭い路地はないだろうかと周囲を見回しながら、私はネクアのことを思い出していた。
ネクアを拾ってから、もう六年ほど経つだろうか。あの日もこんな雨だった。
「……そろそろ、誰か別の人に頼むべきかな」
ネクアはきっと嫌がるだろう。けれど、このままずっとネクアを私の手元に置き続けるのは、互いのためにならない気がした。
思えばネクアには、密接に関わってきた人間が私しかいないのだ。それは健全な状態ではない。
「学校にでも、入れさせてあげればよかった」
そう呟いても詮無いことである。ネクアは長いこと外に出ることも叶わない状態だったし、何より、立場が立場だ。
人工魔女は、存在してはならないのである。本来ならあの子を拾った段階で、私はあの子を公的な機関に届けなければいけなかった。それが正しい対応だ。
――でも、それをしたら、あの子は秘密裏に殺処分になっていただろう。それを知っていて、然るべき場所へ報告をするのは、果たして本当に正しいのだろうか。
ネクアには、自分が人工的に作られた魔法使いであることは決して誰にも言ってはいけないと、小さな頃から言い含めてある。
「可哀想、よね……」
広がるように落ちてくる雨粒を見上げながら、私はため息をついた。
哀れな身の上の子である。せめて、私だけでも、あの子を大切にしてやりたかった。
人目から隠れるように細い路地に入り、私は爪先で地面を打った。体が宙に浮き、次の瞬間、私は家の前に立っていた。
一週間ほど家を開けると言ってあるので、いきなり帰ってきてネクアは驚くだろう。気を抜いているだろうところに悪いな、と思いながら、私は玄関の扉に手をかける。
その瞬間、軽い痛みとともに手が弾かれた。
「いっ……!?」
唖然として、私は玄関の扉を見上げる。……一体、何が起こった? まさか家を間違えた訳でもあるまい。
何が起こっているのだ、と総毛立つ。私は胸の前で指を鳴らし、扉にかけられた封印を強制的に解除する。……私の魔力の型ではなかった。
慎重に扉を開ける。音がしない。不吉な予感はなお一層強まった。
「ネクア……?」
廊下の空気は冷え冷えとしている。知らず知らずのうちに、足音を忍ばせていた。壁に指先を当て、私はそっと家の奥まで入り込む。外からは雨音が絶え間なく響き、空気に染みてきていた。
その、声が聞こえたのは、階段の途中でのことだった。
低く囁くような声だった。どう考えたって、男性の声だ。ぞわりと身の毛がよだつ。不在中に家に入るのを許すような関係の男性なんて、私にはいない。――知らない男が、私の家の中にいる。
ネクアが危ない、と、私は息を飲んだ。手すりに指先を乗せて、足を踏み出しかけたところで、私は動きを止めた。
唖然として、そっと唇の先で囁く。
「この、呪文は……」
対象の人間を、思うように操る魔法。心身ともに掌中へ収めようとする、あまりにも非人道的な代物で、紛れもない、
――――禁術、だ。
足がふらついた。階段を踏み外し、私は数段を転げ落ちる。狭い階段で尻もちをついた私は、壁に打ち付けた肩をさすった。
階段の上で、焦ったような物音がした。がたがたと何かを動かすような音が続いて、それから、扉の開く気配。私は慌てて、壁に縋るようにして立ち上がった。片手を広げ、小さな炎を呼び出す。
ゆらり、階段の上で、人影が動く。角に近づいてきて、気配はぴんと尖っているように思えた。
雨音が一層激しくなる。遠くで雷鳴が響いた。窓から射し込む光は、一瞬目も眩むような閃光を放ってから、ぐぅっと暗くなる。
足音は静かだ。まるで猫の歩みのように、柔らかで鋭い歩調だった。
角を曲がって、その人が姿を現す。階段の半ばで身構える私を見下ろして、そして、驚いたように呟いた。
「…………せん、せい」
そこにいたのは男だった。けれど知らない人間ではない。
長い黒髪を後頭で緩く括り、やや雑に捲られた袖から覗く前腕は白く伸びやか。透明感のある紫色の瞳は、あれほど見慣れたものなのに、どう見たって見慣れた少女じゃない。
「ネクア……?」
「先生、いつから」
いつもより一段低い声が、近づく。伸ばされた腕は、知っているようで、知らないものだ。
どうして今まで気づかなかったのだろう、と、私はぼんやりとした思考の中で呟く。
「ネクア、君は……」
私に向かって階段を降りてくる『彼』を見ながら、私はその肩幅が私の思っていた以上に広かったことに気づいた。差し出された手が、私の手を掬う。私の指先を包んで、それでもなお余裕のある掌である。
「おかえりなさい、先生」
普段聞いていた、息混じりの柔らかい声とは違っていた。私の数段上に立って、ネクアは低い声で私に語りかけた。私は目を見張ったまま、ネクアを見上げる。
「いつお戻りに?」
「つい、さっき…………あの、ネクア、」
「はい」
ネクアがすっと目を細めた。私が何かを言うのを待つような、探るみたいな視線だった。私は咄嗟に口を噤む。
――先程聞こえたのは、禁術の呪文ではなかったか。今それを問いただすのは、得策ではない。何故か反射的にそう思ったのである。
声を発する直前で、私は言葉を差し替えた。
「君は、男の子、だったのか」
「……がっかり、されましたか?」
「いや……」
私は言葉を選ぶように口を半開きにした。ネクアは暗い表情で俯く。
「初めから、君は、」
「……黙っていて、ごめんなさい」
ネクアが階段に腰掛けた。そうすると視線の高さが同じになり、私は目を合わせて口を開く。どんな言葉をかけるべきか考えあぐねて、そうして私は、師として最も模範的だと思われる言葉を選択した。
「――ずっと、つらかったね」
ぎこちなく腕を伸ばす。頭を抱えるようにしながら、私はネクアを抱き寄せた。
「……先生は、僕のことを女の子だと思って、引き取ってくれたでしょう」
胸元でネクアを抱きかかえる。ネクアは自分のことを僕と言うのか、と私はふわついた意識の中で考えた。
「先生に捨てられたらどうしようと思うと、怖くて、ずっと……」
「気づけなくてごめんね、……苦しかったね」
その背を撫で上げる。そうと気づいてみれば、この背は私が思っていたよりも広くて硬い。
そっと腕を解くと、ネクアは手すりを掴んで立ち上がった。
「やっぱり先生は、優しいです」
背を丸め、顔を寄せられたことに驚いて、意思とは別に体が逃げる。再び足を踏み外しそうになった私を支えて、ネクアが「ごめんなさい」と眉根を寄せる。
腰に回された腕に触れて、私は躊躇いがちに首を横に振った。体勢を立て直すと、おずおずとネクアの顔を見上げる。
「……今は、忘れ物を取りに来ただけなんだ」
ネクアの横を通って、私は階段を上がった。ネクアは大人しく私の後ろをついてくる。
「用事を済ませたら、すぐ戻ってくるよ。そしたらまた、詳しい話をしよう」
階段の上に立ち、私はネクアを見下ろした。ネクアは首を伸ばして私を仰ぐ。
「――はい、先生」
心底ほっとしたように、ネクアは頬を緩めた。
その視線を受け止め、微笑みを口元に引っ掛けたまま、私は荒れ狂う内心を必死に押さえつけていた。
どくん、どくん、と、それはまるで耳に聞こえる音みたいだった。鼓動が、激しく体内をかき混ぜる。気持ち悪い。吐き気がしそうだ。私は自分が恐ろしかった。
一体何を取りに来たのやら、まるで覚えていなかった。うわ言のように何か取り留めのないことを口から垂れ流し、ネクアの言葉にも適当な答えを返し、目に付いた本と小瓶を鞄に突っ込んだ。
「良い子にして、待っててね」
私は自分が怖かった。こうも、内心と言動を裏腹に出来る自分自身が。
つらかっただろう、あなたを受け入れる、と優しく抱きとめる、その一方で、私は冷静に、大切な弟子を協会に突き出す算段を組み立てていたのである。
玄関先、私に傘を手渡しながら、ネクアが柔らかく微笑んだ。
「いってらっしゃい、先生。お気をつけて」
「うん。行ってくる」
へらりと笑いながら、雨の中に踏み出し、最も近い詰所までの道を一目散に辿った。傘は開かなかった。開けなかった。
声を上げて泣きじゃくりながら、私は暗い色をした雲の下、雨の降りしきるどんよりとした街を走り抜けた。
***
……覚えている。私はこのことを覚えている。
『私はどこで間違ったのか』
文字列は嘆く。わたしは頭痛に耐えかねて額を押さえた。
『あの子を助けてしまったときから? あの子を大切に育てたのが駄目だったのか。あの子を裏切ったのが最大の間違いなのだろうか? ……わからないのだ』
――わたしは、誰だ。ずきずきと頭が痛む。わたしは確かに、今見た光景に既視感を覚えている。
どうしてわたしはここにいる? ここは一体どこなのだろう。どうして扉は開かない。この日記は、誰が誰の為に記したものなのか。
『どこで間違ったのか、もし分かったとしても。もし、そのときまで時を戻せるとしても、きっと私は同じ道を辿るのだろう』
これまでより少し落ち着いた字体になって、文字は静かに綴る。
『私はあの子と同じくらいに、愚かで馬鹿げた人間だ。それを否定することはもうしない』
わたしは呆然とその言葉を眺めた。これまで取り乱していた文字を書き残していた人物とはまるで別人のようだった。……否、本当に別の人間が書いているのではないか?
『私はただ、あの子を救いたいだけ。あなたを、救いたいだけ』
それなのに、と、顔を近づけなければ分からないような小さな文字が囁く。
『私はあの子を傷つけてばかり。――あの子はあなたを傷つけてばかり』
ざわりと鳥肌が立った。遠くから雨音が近づく。時折、暗い空を稲妻が横切った。
雨に濡れるような心地がした。痛い。雨粒が肩を叩く。頬を殴るみたいに横なぎの風が、私たちの間を切り裂いた。
近づいてくる。急速に雨音が蘇る。うるさい。うるさい!
「助けて、先生!」
あの子がこちらに手を伸ばす。
「嫌だ、や、いや、捨てないで、先生っ!」
取り押さえられたあの子が、泥混じりの水たまりに這いつくばった。
わたしは、私は、あの子は、あなたは、一体――!