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ふと、目を覚まして、わたしは体を起こした。長いこと寝すぎていたのか、体がぎしぎしとした。
「えっと……」
頭を搔いて、寝台から足を下ろす。裸足のつま先に毛の長い絨毯が触れた。
「わたしは、ここで、何を……?」
いやに頭が痛んだ。綺麗に整えられた室内を見回すが、この光景に見覚えがなかった。けれど、ずっと前からここにいるような気もするのだ。
眠る前は一体どこで何をしていたのだろう、と思いを馳せても、まるで霧の向こうに記憶が遠ざかってしまったみたいに、ぼんやりとしか思い出せない。
足を踏み出すたびに冷える頬の感覚から、そこが濡れていることに気付く。そっと指先で目尻に触れると、確かに湿った感触がした。
「わたし、泣いてた……?」
この眠りに落ちる前。それがどれくらい前のことだか思い出せない。まるでずっと昔のことみたいに思えたけれど、涙が残っているのならばそれほど前のことではないのだろうか。
壁際に置かれた鏡台に歩み寄る。そこに置かれた本に、何故だか興味を引かれたのだ。
近寄って手に取ってみると、それはどうやら日記のようだった。革の表紙に目を落とすと、どこかで見覚えのあるような筆跡が目に入る。でもそれが誰のものなのか思い出せない。
何も分からない状態は、まるで背後から何かが忍び寄るような恐怖だった。縋るようにわたしは表紙をめくる。そこに挟まれていた紙片を取り上げると、わたしは息を飲んだ。
『何も分からないあなたへ。どうか、どうかこの日記を読んで。あなたがあなたである内に、はやく』
切実な雰囲気の漂う走り書きに、わたしは背筋をぞわりとさせる。背後を振り返っても誰もいない。手を止めてしばらく考え込んだのち、わたしはそっと次のページに移った。
その瞬間、見える景色が一変した。
***
「――どうしたの、君」
雨が石畳に強く叩きつける夕暮れ、私は壁に体を押し付けるように身を竦める子供を見つけた。きょろりと大きな瞳を動かして私を見上げる。長い黒髪が頬に張り付き、明るい紫色をした目だけが爛々と光っていた。まだ十もいかないだろう。幼子と言って差し支えない小さな子供だった。
「いくところ、ない」
「孤児? こないだの事故かな」
身を縮めた子供の前にしゃがみ込むと、私は傘を傾ける。手を差し伸べると、子供はおずおずと指先に触れた。私はぐいと腕を引いて立たせると、にこりと微笑んだ。
「詰所まで連れて行ってあげる。おいで」
「や、やだっ!」
しかし、私が詰所という名前を出した瞬間、強く手を振り払われる。呆気に取られて立ち尽くす私から距離を取るように、子供は壁に背中を押し付ける。これではまるで私がこの子をいじめているみたいだった。
「詰所は変なところじゃないよ? 公的な機関で、迷子の子供もちゃんと保護してくれるところ」
「やだ、連れてかないで、」
震える声で首を横に振る子供を見下ろし、私は困り果てて腰に手を当てた。
腰まである長い髪は、しばらくの間風呂に入っていないようで、もつれ絡まりくしゃくしゃになっている。簡素な貫頭衣は寝巻きだろうか。多分女の子。頬がこけてはいるが整った顔だ。もう少し太れば可愛い顔になるのは容易に想像がついた。
……仕方ない、と私はため息をつく。見つけて声をかけてしまった以上、もうここに見捨てて立ち去ることはできまい。今は錯乱状態みたいだけれど、きちんと食べて寝れば落ち着くはずだ。そしたら然るべき機関に届ければ良い。
「じゃあ、うちにおいで」
「え……」
もう一度手を差し出すと、少女はふるふると睫毛を涙で震わせたまま、大きく目を見開いた。ぎゅっと噛み締められた下唇をちらと見る。
「美味しいかどうかは分かんないけど、ごはんも食べさせてあげる。……大丈夫だよ。私、一人暮らしだし、他に怖い人はいないから」
自分が魔女であるということは言わなかった。存在がきちんと認識され始めた現代でも、未だに魔法を操る人種に対する忌避感は強い。
「大丈夫、おいで。お名前は? 言える?」
魔女であることを言わずに名を問うのは、一種マナー違反、あるいは騙し討ちに近い行為ではあった。とはいえ、自分が魔女だと分からなければ問題は無い。悪用する気もないのだし。
けれど、少女は私に向かって首を横に振った。
「ない」
私は瞬きを数度繰り返して、膝に手を当てた格好のままその目を見据える。
「名前が、ない、の?」
「うん」
なるほどこれは訳ありである、と察したが、今更退くに退けない。たとえ何かあったとしても、私は魔女である。いざとなればどこか遠くにでも高飛びすればいいやと少し考え、私は手を伸ばした。
「私はカンラ。……私は君を傷つけたりなんてしないから、一緒においで」
魔女が名乗るのは誠実さを示す証だったけれど、私が魔女であることを知らないのなら別に大した意味はないな、と名乗ってから気付いた。まあいい。
少女は目を動かして私を見上げる。宙に浮いたままだった私の手に、慎重に触れた。
「うん」
良いんだよね、と目線で窺うと、少女はこくりと頷いた。
***
「今の、光景は……?」
いやにリアルな夢のようだった。耳の奥に、まだ雨音が響いているような気がした。指先に触れた少女の手の感覚が、鮮明に残っている。
「――わたしが、見たのは、いったい何?」
ずきり、ずきりと頭が痛む。こめかみの辺りを抉られているような感覚だった。
『お願い。目を逸らさないで。私を見て』
ページの隅の殴り書きが、早く早くとわたしをせっつく。頭の奥が鈍く痺れる。わたしには何も分からない。ここがどこなのかも、自分の名前すらも、この日記の持ち主のことすらも……!
『これは私の物語。これは、あなたに伝えなくてはいけない、』
指先が震えた。再び意識が吸い込まれる感覚に、息を呑む。
『――私たちの、罪と罰のおはなし』
***
少女を連れて帰った私は、冷え切った体を温めるために風呂に入れようとした。しかしなかなか服を脱ごうとしない彼女に業を煮やして、私は手を伸ばしてその服を脱がせようとした。
「や、……っ!」
ぱん、とその手を強く振り払われて、私は咄嗟に身を引く。
「ごめん、」
言いかけたところで、私は体を強ばらせた。
床に尻もちをついて、子供は小さく震えていた。ずるりと肩から落ちた襟ぐりから、細い二の腕に刻まれた印が見えた。禍々しい、魔法による焼印だ。
「君は、あの、」
慌てて服を直し、脱衣所の床に蹲った子供を見下ろす。呆然と立ち尽くし、言葉を選びあぐねる私を、少女は怯えたように見上げた。
ぽつり、私は静かに呟いた。
「君は、あの事故から、逃げてきたんだね」
数週間前、この街の郊外にあった研究施設で、大規模な爆発事故が起こった。近隣の街並みを諸共に吹き飛ばし、死傷者の数は未だに明らかになっていない。
――事故が明らかにしたのは、およそ人道的とは言えない研究の数々だった。
「そうだね。それは確かに、公的な機関に保護される訳には、いかないね」
人工魔女。本来魔法を使用する能力を持たないはずの人間に、強制的にその能力を付与する、忌まわしき技術だった。無理に体の構造を組み替えるこの技術は、人体への負担があまりにも大きく、世に出るよりも前に闇に葬られたはずだった。
骨が浮き出たような腕に、黒く刺青のような文字が浮かんでいる。人工魔女を意味するマークと、およそ人間を表すとは思えない数字。痩せこけた体は、無理やり作り出されている魔力に体が蝕まれている証だ。
「ねえ、」
私が屈んで手を伸ばすと、子供は必死に足を動かして後ずさり、見てわかる程にがくがくと震える。
「や、カンラさん、助けて、」
頭を振り、子供は両腕で自らの体を抱いた。それを見下ろし、私は一度目を閉じて呼吸を整えた。逡巡が胸の内を駆け巡る。自分のすべき『正しい対応』は、はっきりと分かっていた。
人工魔女は、すべて、『処理』せねばならないのだ。野放しになってはならない存在なのだ。存在すら知られてはいけないのだ。その存在を知っているのはひとえに私が魔女だからだ。そして、人工魔女は生粋の魔法使いにとって、最も軽蔑すべき哀れな生き物だった。
自分たちを夢見て手を伸ばした、健気で矮小な存在。けして届くことのない手を必死に伸ばす、無垢で可愛い、しかし唾棄すべき紛い物である。
手を汚したくないなら、放っておけばよいのだ。私はそれを知っている。
「……君は、早晩死ぬよ」
私は容赦なく告げた。子供は目を見張る。抑えた声で、私は淡々と続けた。
「君の体は元々魔法を扱うように出来ていない。今に魔力に生気を全て吸い取られて、体が朽ち果てるの」
子供が息を飲んだ。私は息を止め、最後の躊躇を飲み下す。厳然たる一線の上に爪先を掠めるような心持ちがした。首の後ろがヒリヒリとするような緊張感だった。
大きく息を吸って、私は身をかがめる。
「――でも私なら、君を救える」
魔女である私ならば、魔力に蝕まれて死にゆくこの子供を救うことが出来た。
これは罪である。私は知っている。けれどどういう訳か、私はこの子を見殺しにすることが出来なかった。
「君に、呪文を一つ教えてあげよう」
私は頬を吊り上げて笑った。
「……ネクア。それが君の名だ」
指先をその肩に滑らせ、私は囁く。刻まれた紛い物の証を人差し指で辿った。その動きをネクアはじっと目で追う。この印を消してやることも出来たけれど、何となくそれはしなかった。消したければいつかネクア自身が自分で消すだろう。
まるで気でも狂ったみたいだった。まさか私がこんな大罪に手を染めるなんて、今までの堅実な人生からはおよそ想像もつかなかった。
「服を、用意しておくね」
ぽつりと呟いて、私はネクアから距離を取る。ネクアは私の前で肌を晒すのが嫌なようだし、私とて風呂の世話まで見るつもりはない。
脱衣所を出て、扉を閉める。木の扉に背を当て、私はどこかぼんやりとしたままため息をついた。
たとえ生粋の魔法使いだって、魔力との付き合い方を学ぶことなく育てば、魔力に喰われておしまいである。逆に言えば、正しい扱い方さえ学べば、そんなことはないはずなのである。
たとえ、人工的に作られた魔女だって、同じはずだ。適性はやや劣るかもしれないが、……体に手を加えられてから今まで生き延びているのだから、恐らく相当に適合しているはずだ。きっと大丈夫だろう。
魔女もどきを、魔女の私が、殺さず、見捨てもせず、あまつさえ保護する?
――気狂いのような判断だと重々理解していた。それでも私は、ネクアを弟子に取ることに決めた。
***
『全部私のせいだ。きちんと分かってる』
浮上した意識のまま、わたしは日記の隅に綴られた文字列を指先でなぞった。ページをめくる度に眼前に広がる光景は、まるで幻か夢のようだ。誘い込まれ足を踏み入れ没入し、霧の中で踊っているみたいにふわふわとしていた。
文字は紡ぐ。これは本当にわたしに向けての言葉なのだろうか?
『あなたに謝らなくちゃいけない。私は致命的な罪を犯した』
あなたは誰だ。……あなたは一体、誰なのだろう?
頭がくらくらとする。誰もいない部屋の中は依然として静けさに埋め尽くされていて、わたしは形容しがたい息苦しさを覚えた。
『おねがい、どうかあなたがこの記憶を辿ってくれますように』
走り書きはやがて殴り書きになり、切迫したように荒れた文字がページの端を通り過ぎる。ペン先が跳ねたようにインクの飛び散った跡。皺のよった紙は、まるできつく握り締められたみたいだ。
『私は知らなかったの。まさかあのときの決断ひとつが、まさかあの馬鹿げた選択ひとつが、』
『私はあの子を裏切った』
文字列が加速する。どくどくと鼓動が耳の底を叩く。
『誰かあの子を救ってあげて』
『誰か 私を助けて』
『目を 逸らさないで』
『 ああ どうか 』
***
とん、と足音がして、私は振り返った。
「先生、夕飯の準備が出来ました」
エプロンを腕に掛けて、ネクアが私の部屋を覗き込む。白いワンピースの裾を揺らしながら、そっと部屋の中を窺うように視線を動かした。
「ありがとう」
開いていた本を閉じ、簡易的な封印をかけると、私は立ち上がる。この本に書かれているのは、まだネクアには早いものばかりだ。
本の表紙を五指の先で押さえ、私はじっと考え込む。……これはずっと昔の時代に手に入れたものだ。今のご時世では禁書にあたる可能性もあった。そういう本は私の部屋にいくつかある。その内どこかに寄贈するか、と考えながら、私は手の下の本をじっと眺める。
――恐らくこれをネクアに与える日は永遠に来ないだろう。
簡易的な封印の上から、私はもう一度、略式でない封印をかけた。本を引き出しの奥にしまい、それから私はネクアの方に歩み寄る。
「今日は何を作ってくれたの?」
「牛すじ煮込みです」
「ああ、美味しそうだね」
後ろ手に扉を閉めると、私はネクアに気づかれないようにしながら、ドアノブにそっと封印をかけた。
ネクアは美しく育った。師の贔屓目を抜きにしても、それは疑いようがないだろう。長く真っ直ぐな黒髪は常に一本の三つ編みに結われ、ネクアが動くと跳ねるように揺れた。
「ネクアは何歳くらいなんだろうね」
まだ私の身長には及ばないものの、この三年ほどでネクアはぐんと大きくなった。こけていた頬はふっくらと丸みを帯び、もうじきほっそりし始める頃かもしれなかった。
「十歳とちょっと、くらいかな」
おおよそこの大きさなら、今までに見てきた通常の子供たちはそれくらいだった。
「先生がそう仰るなら、きっとそうなんですね」
ネクアはにこりと笑って、台所に足を踏み入れる。鍋を軽くかき混ぜ、器を手に取った。煮込みをよそうネクアを眺めながら、私は机の上を片付け、水差しの用意をする。
「最近はどう? 落ち着いてきた?」
「はい。先生のおかげです」
にこ、と肩越しにネクアが控えめに微笑む。片頬だけえくぼの出来るネクアは、それを少し恥ずかしがっているらしかった。
元々、生粋の魔法使いではない人種である。ネクアが今みたいに平然と暮らせるようになるまでには相当な苦労を要した。
枕から頭を上げることすら出来ない日々が続いたし、ようやく動けるようになったと思っても不意に倒れたりする。調整機能が働かず、変換してはいけない領域まで体力が魔力に吸われているのだ。その度に私は自分の魔力を受け渡すなどして甲斐甲斐しく世話をすることになった。
体内を巡る魔力を意識させるのに一年。それを調整出来るようになるまでにもまた一年。そして完全に普通の生活を送ることが出来るようになるまでにおよそ一年。計三年間の付き合いともなれば情も湧くし、それなりに懐かれるというものである。
「先生、どうぞ」
お盆に器を乗せて運んできたネクアに、私は微笑みかける。
「ネクアはいい子だね」
「そんな……」
ネクアは頬を染めて照れ笑いをすると、僅かに俯いた。少し唇を尖らせ、拗ねたように頬を膨らませる。
「先生は、すぐそういうことを言います」
「嫌だった?」
頬杖をついて頬を吊り上げると、ネクアはきゅっと目をつぶって首を横に振った。
*
ネクアが両手を広げ、器を捧げ持つかのように柔らかく指先を丸める。ふわり、とその前髪が浮いた。
ほのかな光が灯る。ネクアは真剣な表情で、手の中でゆっくりと明滅する光を見据えた。光が徐々に動きを変え、そして、宙を舞う蝶を形作った。
「せ、先生!」
「うん、よく出来てるよ」
ネクアは両腕を上に持ち上げ、蝶の形をした光を放つ。数度羽ばたくような動きを見せると、蝶は天井すれすれを飛び回り、それから音もなく掻き消えた。
こちらを振り返って、ネクアは紫色の目をきらめかせた。
「先生、今のって」
「成功だね」
分かりやすく首肯してやると、ネクアは誇らしげに破顔した。
……ネクアは、優秀な魔女だった。私の予想よりも遥かに早い成長で、あっという間に高度な魔法まで使いこなしてしまった。
そのうち教えることもなくなってしまうかな、と、私は少し寂しいような気持ちに襲われる。
「ネクアは凄いね」
そう呟いて、小さな頭を撫でてやる。ネクアは気持ちよさそうに目を細めた。こうして見るとまだ小さな子供である。あと数年もすれば美しい娘に育つだろうか。
「せんせい……」
ネクアが私を見上げる。とろんと融けたような目をしていた。紫色の宝石が眼窩でとろけているみたいだ。
それを見下ろしながら、私は苦笑気味に呟く。
「独り立ちする日も、そう遠くないか」
「えっ……?」
ネクアが息を飲んだ。大きく目を見開いて、ネクアは私の目の奥をじっと探るように見た。
「――先生は、わたしのことを、捨てるのですか?」
不意に、その双眸が硬く結晶のように尖る。私は思わず気圧されたようになって息を止めた。ネクアは手を伸ばし、私の手首を指先で掴む。身を引こうとした私をぐっと引き寄せ、ネクアは一歩踏み出して踵を浮かせた。息の重なりそうな距離で目を合わされて、私は及び腰になる。
ネクアの瞳の奥では、まるで篝火でもたいているかのように、小さく熱い何かが揺らいでいた。絡め取るような視線をして、ネクアがもう片方の手もそっと持ち上げる。
「先生。わたしはまだ、先生には遠く及びません」
私の手を両手でひしと掴み、胸元で握りながら、ネクアが囁く。
「先生に教わりたいことが、たくさんあるのです。……ねぇカンラ先生、お願い」
瞳を潤ませて、ネクアは切実な表情で私に訴えた。何も、今すぐ独り立ちをして貰おうなんて言っていないのに、やけに過敏な反応を示す子である。
本当に懐かれてしまったものだ、と私は内心でため息をつく。
「……大丈夫だよ、ネクア」
ぎゅっと握り込まれた手を抜いて、私はネクアの頭を撫でた。
「君がもう私から学ぶことがないと思うまで、ずっとここにいれば良い。……今は私のところにいたいと思うかもしれないけれど、いつか君はもっと広い世界に出ることを望むようになる」
そんなことない、と、ネクアはふるふると首を揺らす。私は苦笑して、腕を組んだ。
「その時を私は待つだけだよ。大丈夫、無理に君を追い出そうなんて、思ってない」
「ほんとう、ですか?」
「もちろん」
ネクアはぱぁっと表情を輝かせ、心底嬉しそうに私の顔を見た。私は長い息を吐いて、それから僅かに頬を緩めたのだった。
***
『今思えば、あのときから、何かが狂い始めていたのかもしれない。けれど私はそれに気が付かなかった』
幾分か落ち着いた筆跡になって、文字は告げた。わたしは震える手で胸元を押さえる。
「わたし、どこかで、今の、」
まるで思い当たる節のない光景ばかりだと思っていた。けれど、今見た光景が、頭のどこかをちらりと刺激する。けれど明確な感覚は何も無いまま、迷子の子供のごとく、わたしは途方に暮れた。
「わたしは、誰……?」
呟いても、何も分からないのだ。鏡台の前に立ち尽くしたまま、わたしは天板に両手をつく。眼下の日記が音もなく悲鳴を上げる。
『あのときの約束は守られなかった』
『期が熟すまで、私たちはずっと共にあると、そう約束したのに』
『約束を破ったのは、私の方』
一歩後ずさると、暗い赤色の絨毯に、裸足の踵が埋まった。予想していなかった感触に驚いて体勢を崩すと、寝台に背中から倒れ込む。大きくて寝心地の良い寝台である。私が昔使っていたものとは全然ちが――
「……むか、し?」
呆然と呟く。わたしは今、どこの何を思い浮かべた?
頭が痛い。何故だか思い出してはいけないような気がするのだ。わたしはこのことについて考えてはいけないのだ。どうして。……どうして?
「わたしは、あなたは、誰」
よろよろと体を起こし、わたしは部屋を見回した。それほどだだっ広い部屋ではない。大きな寝台と小さな机、それから鏡台と戸棚、箪笥。
窓はなく、扉はひとつきり。腰を浮かせると、わたしは扉に歩み寄った。
ドアノブに指先で触れた瞬間、ぱちり、と何かに弾かれたような感覚がした。咄嗟に手を引いてしまったが、もう一度慎重に手を伸ばしてみても何も起こらない。
ドアノブを捻って、扉を押してみる。動かない。押しても引いても動かないのだ。
「鍵が、かかってる……?」
一度手を離してまじまじと観察してみるが、特につまみのようなものも、鍵穴も見当たらない。
「――わたし、出られない」
そう思い当たった瞬間、恐慌にも似た混乱に襲われた。扉から離れ、わたしは呼吸をわななかせる。絨毯の上にぺたんと座り込み、自分の体を抱いた。
ここがどこなのか分からない。自分が誰なのかも分からないし、今までわたしが何をしていたのかも分からなかった。ずきずきと頭が痛む。わたしは肩で息をした。
――『何も分からないあなたへ』。
あの日記にはそう書いてあった。それならば、とわたしは床に手をついて立ち上がる。鏡台の前に立つと、開かれたままの日記に手を伸ばした。
文字列は謎めいた言葉でわたしの指先を誘う。
『あの日、あの瞬間まで、私達は完璧な師弟だった』
『……その、はずだった』