メロウ
さて、ミルッカの実家である酒場『メロウ』も、塔のレストランフロアにある。目玉である新鮮なホタテ料理は観光客のみならず、同胞である人魚達からの支持も高い。また海底都市では滅多に手に入らないベリービールも扱っている。仄かに香るミックスベリーの香りと鮮やかなローズピンク色のエールは、ミルッカ達兄妹の美しい鱗を思わせると評判だ。残念ながらミルッカは未成年なので、まだ飲んだ事は無いのだが。
(そういえば、メロウって英語だよね……いままで気付かなかったけど、前世で馴染みのある言葉なのに、文字が全然違うんだ。どういうことなんだろう)
その辺について、いつかカウコと討論してみたいと思う。なかなか面白い議題かもしれない。
観光客たちが帰路へついているこの時間は一時営業休止の時間だが、そこそこ忙しい時間を抜け出していたミルッカは、先程カウコにアドバイスを受けた台詞をもごもごと幾度か口の中で反芻しながらも帰宅を躊躇っていた。
(やっぱ怒られるかなー。先手必勝で行くしかないかなー。先にキレた方が勝ちだよね)
あまり反省した様な思考で無いことは確かだ。
(そもそも開店のタイミングであんな話を切り出したバカニキが悪いんだ)
挙げ句の果てに責任転嫁である。
(カウコも、ワガママぶっこんでみろって言ってたし)
カウコのアドバイスはミルッカの脳内でだいぶ改変されていた。
そうして幾度か深呼吸をして、酒場の人魚用水路の入口をくぐった……ところで、どこか取り乱したように何かを叫びながら出てきた女性がミルッカに突っ込んできた。すっかりと油断していたミルッカはものすごく柔らかい何かに一瞬だけ顔が埋まったが、弾力により跳ね返された。
「きゃうぅ」
「ごめんなさい! 余所見していて……あら?」
間抜けな声をあげながら体勢を整え、目の前にいる人へ改めて視線をむけ……ぎょっとした。
ミルッカはその人を知っている。いつもにこにこ、ほわほわしているお洒落な人魚のお姉さん。お店で出すホタテやカキを養殖している業者で、そして……兄の婚約者。名前は確か、スーって呼ばれていた筈だと記憶を辿る。買付はシェフである兄の仕事だし、挨拶程度の交流しかしていなかったのでそれすらもうろ覚えだが。
しかしその出で立ちは見知った彼女のものではなかった。
ふんわりウェーブの長い髪はきっちりと編み込まれ、後頭部でひとつの団子状に纏められている。身につけた衣装も、何度か見たことのあるレースで縁取られた上品で乙女チックなコルセットにゆるふわドレスとはかけ離れた、小さな切り傷の沢山付いている厚手のレザーコルセット。腰のベルトにはサイズの違う三本のナイフと水中用小型ライフル。両腕にはブースターギミック付きのガントレット。大きな三又槍を携えている。どう見ても戦装束だ。
そんな彼女は心底安堵した様に「ミルッカ、ちゃん……」と呟いたと思ったら、次の瞬間には半泣きで抱きつかれていて、ミルッカは更に混乱した。
「よ、良かったぁ……」
「ぅえ? えっ、ちょ……」
「無事だったのね。本当に良かった」
「待って、待って! 苦しいしガントレットが当たって痛い!」
「あっ。ご、ごめんね」
のほほんと、さほど悪いとは思ってなさそうな口振りで、少しだけ腕の力を緩めてくれはしたが、それでもガントレットは痛い。無駄にゴツゴツしている。
「スー、どうした……って、ミルッカ?」
店の出入り口が騒がしいので顔を出して来た青年が、戯れている(様に見える)二人を見やると掛けていたゴーグルを一度外し、そしてまたかけ直す。これは、ミルッカの兄で酒場の経営者兼シェフのタハティが、物事を確認する時に必ずやる癖だ。彼のゴーグルは文字通り、水中眼鏡だ。
「お兄ちゃん……」
まずい。色々有りすぎて心の準備がまだちゃんと出来ていない。青くなるミルッカだったが、
「ミルッカ、お前、どこ行ってたんだ? 心配したんだぞ……」
大きな掌で頭を優しく何度も撫でられながら、ため息混じりだが咎められる事もなく笑顔を向けられ、ミルッカは何も言えなくなってしまった。
「え、あ、ご、ごめんなさい……」
「もう暗いのになかなか帰ってこないし、スーは探しに行くってきかないし」
「だって、海サソリの繁殖時期は危険だし、東で海竜の目撃情報もあったって聞いたから、いてもたってもいられなくて……」
もじもじと三又槍を回しながら、ほんのりと頬を染める彼女は、確かにミルッカの知るいつもの彼女だった。戦装束のせいで違和感は拭えないのだが。
「お兄ちゃん、その、彼女の出で立ちはなんなの? 貝の養殖って武装しないと出来ないの?」
「んな訳あるか。……ああ、知らなかったのか。スーは戦闘部族の戦士だぞ。北西の海を根倉に海獣狩りをしていたけど、長の親父さんが引退したから一緒にトゥオネラに来て養殖稼業をするようになったんだ。トゥオネラの私設兵士団にも入ってるぞ」
「うえぇえ?!」
「ふわふわ可愛く狩りをするもんだから『風花姫』なんて異名を……」
「ターくん、その話は止めて……恥ずかしいわ」
両手で顔を覆いイヤイヤと頭を振る彼女と、そんなスーも可愛いなぁなんてニコニコしながら彼女の肩を抱くタハティを、確かにこりゃ恥ずかしいわーと思いながらジト目で見るしかミルッカには出来なかった。
(ていうか、彼女相手だとこんな風にデレるのか。知りたくなかったよお兄ちゃん……)
「恥ずかしがらなくても、戦うスーだって綺麗だぞ?」
「そんなこと言わないで。本当は引退して静かに暮らしたいのに」
「でも、正義感が強くて優しくて凛々しいスーみたいな戦士は、この先も絶対に必要だよ。誇りに思っていいし、俺もそんなスーだから好きになったんだし」
「もう、ターくんてば。そんな風に煽てられたら調子に乗ってしまうわ」
この二人は放っておくと、いつまでもこんな感じでいるのではないだろうか。ミルッカがすぐ隣に居るというのに、手を取り合い「でも」「でも」と延々と繰り返している。さすがに飽きてきた。
「イチャイチャするなーっ!」
痺れを切らせたミルッカがキレて怒鳴り散らすまでおおよそ十分。それは続いていた。
メロウはアイルランドの人魚(merrow)ではなくて芳醇の方(mellow)です。
……まあかけてますけど。