トゥオネラ
トゥオネラは死の国だ。
そう言えば多くの人々は顔をしかめて見せるが、何も理由もなくその様な名が付いた訳ではない。
イルリクーテ帝国。
迫害される事が多かった亜人間と人間を同列に扱う事がほぼ無かった時代、莫大な資産を持ったひとりの商人により建国されたらしい。各地に点在していた亜人間国家を護衛兼属国として取り込み、また国民として守護してきた事により栄えてきた。それから千二◯◯年。いつの間にか、大陸随一の領土と軍事力を持つ巨大帝国として世界に君臨していることになる。
国民皆が帝王として誇らしくあれ。
その商人(後の初代皇帝)の思想は今も受け継がれている。だけどその歴史は「金さえ払えば誰でも客」を地で突っ走ってるとミルッカは思う。
トゥオネラに住む人魚達は元々、南北に広がる国土の最南端に位置する温暖な海で生活をしていた。豊かな海産物や珊瑚・真珠等の宝飾品は世界各地へ輸出され、また穏やかで暖かな海は観光地として、当時はキューラという名の彼等の都市は栄えていた。
そんな彼等の海にも、戦争の影は容赦なく広がっていく。産業廃棄物は海へ流され、瞬く間に汚染されて行く。美しかった海底都市キューラは見る影も無くなり、彼等は住み慣れた海を離れることを決意する。
そうして漸く見つけた安住の海は、かつての住みかには程遠い北極圏の静かな海だった。冷たい水に耐えられなかった半数の同胞は死んでいった。戦火を多少なりとも逃れられているとは言え、汚染が全く無い訳ではなく、弱い個体は病気で倒れていく。
人魚達は帝国に抗議し、帝国は賠償として都市の建設と、人魚達への近代化を推奨した。
そうした歴史から百五十年。残念ながら帝国と他国との小競り合いは稀にあるのだけれど、かつての世界大戦も今は遠い過去の話。
だけど多過ぎた犠牲者達を悼み、彼等の犠牲を忘れぬ様にと、人魚の都市はいつしかトゥオネラと呼ばれるようになった。
(抗議って言っても、帝国領すべての海岸線を崩す、なんていう脅迫まがいなものだって聞いたけどほんとかな?)
ぽやんとそんな事を考えながら、ミルッカはトゥオネラ領の海へと戻ってきた。
既に日の落ちた海底の世界は薄暗いのかと言えばそうではない。あたりにはミントブルーに点る氷水晶の外灯が等間隔に設置されている。街の軒先にかけられたランプの光も同じミントブルー。その光を受けて煌めくのは透明な体を持つクラゲや魚達。外灯の武骨な海老茶色の金属との対比がうっとりするほど神秘的に見えて、ミルッカはこの光がとても好きだった。統一された光は海底に広がる星空のようで、昼間の白い光の何倍も綺麗。そう思いながら街への門をくぐる。
トゥオネラは美しく整備された街だ。海底にはヘリンボーンの石畳が敷かれており、海底用の乗物を問題なく走らせることが出来る。花壇には手入れされた鮮やかな海藻が生けられている。廃棄煙を通すパイプはあちこちに見えるが、どれも街並み・外観に違和感なく溶け込むオブジェとなっている。この街の設計者は人間ではなく、まだ若かったふたりの人魚だったというのは当時話題になっていたらしい。
街の中央には螺旋状の塔が建てられており、そこから放射型に道が広がる。その塔『リュリュ・マウリ』が観光の拠点であり、トゥオネラのシンボルでもある。しかし、二十階建ての塔は全ての階が観光施設ではない。トゥオネラを拠点とする企業のオフィスや、トゥオネラに店を構える人魚達の居住区でもある。勿論観光客は彼等のエリアに入る事は出来ない。
螺旋の塔の内側は空間が開けていて、その中央広場には街一番の観光名所『アイノの大樹』がある。アイノの樹は北海の大陸棚にまれに生息する氷樹の一種で、前世のミルッカが知るポプラの樹に似ている。波に揺れると透明な氷の葉がサラサラと重なりあい、やがて水に溶けていく。葉は直ぐに再生されるのだが、そのサイクルの早さがトゥオネラ再建のシンボルとなり、一本だけ生えていたこの樹を中心に都市計画が進められたのだ。このアイノの樹は塔の内側どの窓からも見ることが出来、観光客の目を楽しませている。
塔の最上階からは幾本もの煙突が、まるで海上に手を伸ばすように突き出ている。これはトゥオネラの至るところにあるパイプラインから集められた廃棄煙の放射口だ。仕方のない事だとは思いつつも、ミルッカはやはり黒煙だけは好きになれない。世界が黒で染まりそうで気が滅入る。
その煙突に寄り添うように昇降機が二台、巨大な歯車により動かされている。このような大掛かりな施設は、いまだに主力の動力は歯車機関だ。昇降機は人間たちのために作られた移動手段だ。地上の空港から鉄の桟橋を渡り、『リュリュ・マウリ』を中継点に人々はこの美しい海底都市の観光を楽しむのだ。
この世界は蒸気機関で動いている。台所の動力も、海底スクーターも、観光潜水バスも、地上を行き交う鉄道や飛行船も、都市建設当時の最先端だった蒸気機関。しかし、根本的な所はおよそ五百年前の蒸気革命から何も変わってはいない。いや、最近は石油機関を動力とする自動車も出来ているらしいけれど、ミルッカはまだ見たことが無い。
二十一世紀初頭の日本を生きてきた前世のミルッカにとってはレトロにも程があるが、実はなかなか気に入っている。とりあえず不便に思うことは何もないのだから。黒煙さえ無ければの話だが。
カレワラでのトゥオネラは本当の意味で死の国でしたが、こちらのトゥオネラはやんややんやと忙しいところです。