こぼれる記憶・四
「あたしミルッカ。女子高生だったよ」
「カウコだ。東京でリーマンやってた」
「うそ、あたしは埼玉だったよ。お隣だったんだね」
二人はそこで漸く名乗りあった。
少女――ミルッカはカップに残っていたすっかり冷めてしまった白湯を、くぴ、とひと飲みし「ね、お湯ちょうだい」とカップを差し出した。しかし火から下ろされていたケトルは殆どの熱を失っている。
「沸かし直すから待ってろ」
温くなった湯を捨てると、新しく水を汲み入れて火にかける。彼――カウコは少し考える素振りを見せると、纏っていた毛布でがしがしと足を拭い、靴下とブーツを履いて家の中へ入っていく。直ぐに戻ってきた彼の手には何かの袋があった。暫くして湯が沸くと、袋に手を突っ込んでその中身、適当な量の茶葉をケトルへ投入した。
「紅茶?」
「ポットが無くて作法も何も無いけどな」
「ううん……嬉しい。ありがとう」
互いに、少しばかり長い話になりそうだという予感はあった。コゼーの代わりに毛布でケトルをくるみ、暫く蒸らしてから彼女のカップへ紅茶をそそぐ。茶葉も幾分か一緒に入ってしまったが、それでも芳醇な香りを辺りに漂わせている。ミルッカはそれをひとくち飲むと、自然と笑みがこぼれた。
「紅茶なんて久し振り。トゥオネラでは高級品だよ。なんか知らないけどコーヒー派のひとが多くて」
「……あんまし人魚のこと知らねえんだけど、意外と人間と変わんないんだな」
「近くに住んでるのに、トゥオネラには行ったこと無いの?」
「無い。近すぎると逆に行かないもんだな」
「そっかー。でも分かる気がする」
「言っとくが、決して泳げないからじゃねえぞ」
「何も言ってないよ……でも別に、泳げなくたって何の問題もないんだよ。海中の交通手段は幾らでもあるんだから」
海底都市トゥオネラで人間達が観光できるエリアは限られている。しかし海中アクティビティも盛んに行われているし、点在する観光名所や宿泊施設へ向かうバス等も設備されている。
今はオフシーズンだが、短い夏にはそれはそれは賑わいを見せるのだ。
「はーん……どっちにしても、ここはトゥオネラに行くには微妙な立地だ。定期便は街に出なきゃねえし、歩いて行くには遠すぎる。川を下るにしても、そいつじゃ無理だ。機動性やら速度的な意味でもな」
くい、と顎を向けた先では水上オートバイが揺れている。
「うーん残念。顧客ゲットならず」
ミルッカはぷう、と唇を尖らせる。童顔だとは思っていたけど、実際にもまだ子供なのだろう。恐らく、女子高生だったと言っていた年齢よりは少しだけ下なのだろうと感じられた。
「……林檎でも食うか」
「食べるー」
カウコは庭先の林檎をひとつもぐと、畑の方へ投げ捨てられていたままだった短刀を拾ってスツールに座り直した。
「トゥオネラはどんな感じだ」と、スルスルと皮を薄く剥き始める。
「うーんそうだなぁ……話を戻して、人間とそんなに変わらないって話でもしよっか」
生活面が向上されて『人間化』されたのは、人魚がここ、イルリクーテ帝国領北部の海洋に移住してトゥオネラが出来てからだ。それまで彼等は水中での生活が主だったが、空気中での生活に緩やかに変わっていった。建物は水中だが、感覚的には地下室に近い。しかし人魚は歩けないので、床には海水が流れている。食事も人間と同じ様に料理をするようになり、衣服を纏って布団とベッドで寝て、でも建物から出ると海水の中……という、何とも不思議な事になっている。
「それが普通だと思ってたけど、こうして振り返ってみると色々おかしいね」
「カルチャーショックすぎる」
四等分に切った林檎を手渡した。ミルッカはいただきます、と小さな口へ林檎を運んだ。酸味が少し強くて瑞々しい。
「そんな生活が出来るのも、人間とチェインドムーンのお陰なんだけどね」
「チェインドムーン…人間の作り出すあまねく全てのものは、三連月の魔力の加護で全ての環境に適応するってアレか。意味が分からん」
「今まで疑問を持たなかったけどそれもおかしいね。月の魔力ってなんだろね。意味が分かんないや。ま、あたし達は助かってるからいいけど」
「五年程疑問に思ってたけど、考えてもわかんねえから考えるの辞めてたぜ。逆に新鮮だな」
「五年……」
長そうで意外と短い月日。前世の記憶を持ったまま、それだけの時間を彼はどう過ごして来たのだろう。
「俺が前世を思い出してからまだ五年、いや、もう五年経ってる」
そう言う彼の真直な視線は、例の弔い木の方を向いているようだった。カウコは手にしていた残りの林檎をしゃくしゃくと平らげ、果汁のついた指をぺろりと一舐めした。
「あんたは? いつ思い出したんだ」
「さっき」
「は?」
「弔い木のアルファベットを見たときに、思い出したの。見たことある文字だって思ったら、あとはもう一気に」
「おう……それは、うん、すまなかった」
「ううん。何がトリガーになるかはわからないもん。きっと遅かれ早かれ、どこかで思い出してたと思う」
その時、果たして今の様に多少は冷静でいることは出来るのか、ミルッカには分からなかった。だから今このタイミングで思い出す事が出来たのは、むしろ幸運だ。
「それに、同じ様に前世の記憶がある人にすぐに会えたのは、運がよかったのかな。こんなこと、普通に他の人には話せないよ」
「……まあ、確かにそうだな」
そうしてミルッカも、残りの林檎を食べ終えた。ごちそうさま、と手を合わせる。
「でも、本当は思い出したくなかった。だって、前世の記憶が戻った時に、一番始めに思ったことは『やっぱりあたしは、向こうの世界ではいらない子だったんだ』って事だったんだから」
ぴくり、と、カウコの肩が跳ねた事には気付かなかったのだろう、ミルッカは更に続ける。
「遠出をした理由にね、お兄ちゃんの結婚が決まった事もあったの。まだ婚約の段階で、ちゃんとしたことは何も決まってないんだけど」
「ブラコン拗らせて我が儘言ってんのか」
カウコが呆れたように言うと、ミルッカはムッと頬を膨らませてジロリと睨んだ。
「悪い? まあそれもあるね。あたし親がいないから、お兄ちゃんに育ててもらったようなものだし。だから、あたしよりも大事な子が出来たのが悔しかった。あの二人がそんな関係だったなんて全然知らなかった。本当は幸せになって欲しいよ? 相手の人も可愛くていい人だし。でもまだ、兄離れ出来てない、から、複雑……」
「……」
「記憶が戻って次に思ったことは『ここでも、いらない子なんだ』って、事だった……あたしがいなければ、二人はもっと、円滑に、祝福される夫婦になれたんじゃないかって、思っちゃって……」
カウコは黙って話を聞いている。初対面の人に話すような事ではない。けれど。
「ねえ……今からの問いは、あたしと同じ転生者であるあなたにしか聞けない……だから、出来れば茶化さないで真面目に答えて欲しい」
今のミルッカには、ほんの少しでも共通点があるカウコに話すしか出来ないのだろう。それを理解していたから、すがるような彼女の瞳をしっかりと見つめ直した。
「……分かった」
「ありがとう」
ホッと胸を撫で下ろすミルッカは今にも泣き出しそうに見えた。
「今のあたしって、いったい誰なんだと思う?」
やっと名前が出てきました。