こぼれる記憶・三
暫くすると木製の扉を軋ませ、くしゃみをしながら彼は姿を表した。幾分か服を着込み、もこもこのニットの帽子と、更に頭からは毛布まで被っているが、顔色は少しだけ良くなっている。手には小振りのケトル。彼は自分を心配そうに見る少女と、水際で赤々と燃える焚き火を交互に見た。
「火を起こしてくれたのか」
「うん」
庭先に置いてあったスツールを焚き火の前に置き、それから先が二つに分かれた頑丈な枝を地面に指すと、川の水を汲み入れたケトルを引っ掛け火にかけた。
「火種をもらっていいか。部屋を暖めて服を乾かしたい」
「もちろんだよ。ねえ、たらいか何かがあるなら、そこにお湯を入れて足を暖めた方がよくない?」
「そうする」
燃える薪を一本手にして、家の中へ入っていく。ケトルが湯気を噴射し始めた頃、再び戻ってきた彼の手には小振りのたらいと、木製のカップがふたつ。それぞれに木製のスプーンもつけられている。
ケトルを火から下ろし、一度雪の上に置いて少し冷ました後、静かに湯を注ぎ数度かき混ぜた。
「生姜と蜂蜜の白湯だが」
そう言って少女に差し出す。あらかじめカップに生姜と蜂蜜を入れておいたのだろう。そんな気遣いが嬉しくて、彼女は素直に行為に甘えることにした。カップを受けとると、指先から全身に暖かさが広がっていく気がした。
「ありがとう!」
ふんわりとした笑顔を向けられ、少し照れたようにしながらも、自分用のカップにもお湯を入れ、残りは全てたらいに入れる。それから再びケトルに水を汲み入れて同じように火にかけた。たらいの湯の熱さを調節するように雪を入れる。好みの温度まで下げると、ブーツと二枚重ねのニットの靴下を脱ぎ、ズボンの裾を捲り上げ、静かに足を浸した。そこで彼は漸く一息つけたようで、ふう、とひとつ溜め息をついてから白湯に口をつけた。
「白湯おいしい。あったまるね」
「ああ」
それっきり二人は、焚き火のパチパチという変拍子の曲を聴きながら、何も言わず黙って白湯を啜っていた。お互い、チラチラと横目で見ながら様子を伺いはしていたが。
ケトルが再び勢いよく湯気を噴射し始める。彼はケトルを火から下ろして、少しだけたらいに湯を追加した。そうしてからカップに残っていた白湯を飲み干し、湯を注ぐ。単純に暖をとるためだ。
「あんたはトゥオネラの人魚か?」
そこで漸く、彼は少女に問いかけた。トゥオネラは彼女達、人魚の住む海底都市だ。百五十年程前に移住してきた際、人間達、というか帝国の支援を受け築き上げられた。人魚達からして見れば、支援と云うより倍賞に近いが。今では先に述べたように、人間達を相手に観光地として栄えている。人間と人魚の関係は、ビジネス相手としては概ね良好だ。
「うん」
「何だってそんな遠くから」
「遠くって言っても、ちゃっちゃっと泳いで一時間ちょっとくらいだよ。ゆっくり泳いだら二時間くらいになるかな。ここまで遠出したのは、初めてだったけれど」
「だろうな」
項垂れながらそれはそれは大きな溜め息をつくと、暫くして顔を上げ、
「人魚を見るのは初めてだったし、ここまで来るなんて思わなかった。てっきり野生動物だと思って銃を向けたのは謝る。すまない」
「ううん。あたしこそ、勝手に家の回りをうろうろしててごめんなさい。めずらしさに負けてはしたない真似をしたわ」
ぷるぷると首を横に振って、それから彼女も謝った。互いに謝罪をしたところで、この話題は終わりだ。
「風邪ひかないでね」
「早いとこ引き篭って寝たいもんだぜ」
「この寒さじゃ、家の中も外もそう変わんないよ」
「違いねえ」
そう言って笑い合う。最も彼はほんの少しだけ頬を緩めただけのように見えたが、それでもこうして地上で初めて会う人間と談笑するなんて不思議な気分だと少女は思っていた。彼の言葉遣いは非常に悪い。それでも嫌な気持ちは全く無く、むしろ居心地のよさすら感じているのを少女は自覚していた。
「ここにはひとりで住んでるの?」
「ああ」
「川が氾濫したりとかはしないの?」
「ここ五十年くらい、そういうのは無かったって聞いてる。じゃないと住めねえ」
「泳げないから?」
「……」
意地悪くにこにこしながら訪ねると、屈辱的な顔で目を反らす。そんな様子がどことなく幼く感じさせ、なんだか可愛く思える。
「あんたこそ、ひとりでこんな所まで来て大丈夫なんかよ」
「平気よ。トゥオネラはね、綺麗だし穏やかだし、暖流だから多少は暖かいんだけど、やっぱりちょっと息苦しいの。さっき、少しだけその理由が分かったんだけど」
「はあ」
そう言った少女の顔が少し陰りを見せたけれど、彼はそれに見ない振りをした。ただ何となく、彼女が何かを話したい事はわかる。
「ねえ。ひとつ聞いてもいいかな?」
だから、躊躇いがちな彼女の言葉を受け入れた。
「何だ?」
「変なこと言ってると思ったら、聞き流してくれても構わないよ。でも、やっぱりどうしても確かめたくって」
言いにくそうに言葉を渋る彼女の方を、眉を寄せて見る。両の手でカップを揺らしながら「んー」とか「何て言ったらいいのかな……」とかもごもごと呟いているが、やがて意を決したように顔を上げ、上半身を彼の方へ向けた。
「あの……島の北にあった木に、何かの模様が刻んであったんだけど、あれは何?」
「模様……ああ、あれか? ああ、そうだな、模様に見えるよな」
模様と言われ、一瞬何の事だか理解出来なかった様だが、直ぐに心当たりがあったのだろう。一体どんな事を言われるのかと心構えをしていた彼は、拍子抜けしたように「そんな事か」と鼻を鳴らしながら答えたが、その様子に彼女は確信してしまった。
「あれを刻んだのはあなた?」
「ああ。あれは弔い木だ。この辺りの風習で、身内が死んだら庭先の木に故人の生年と没年、それとイニシャルを刻む。一四五二年……」
「一四五二年から一五四○年、三年前に亡くなられたアール・エーさんのお墓なのね」
彼の言葉を遮り、少女はぽつりと、しかし彼の方を見ること無く呟いた。弾かれた様に彼は彼女を見た。
「あんた、まさか……」
信じられない。彼の声はそう言っていた。そんな彼に少女は少し寂しそうな笑顔を向ける。それが答えのように。
「……そうか」
はあ、とそれはそれは長く息を吐いた。それに重なるように、一陣の風が二人の間をするりと通り抜けていった。
どうしてだか少しだけ、暖かく感じた。
ストック分投稿しました。続きはまったりペースです。