こぼれる記憶・二
松の木に触れるのを諦めたのか、少女は力無く腕を下ろした。ぱしゃん、と水面に叩きつけられた腕は、そのまま沈んで行く。滲んだ視界は何だか遠い世界の映画のように見えて、そう思う事がまた、彼女の現在と前世が繋がれているのを表しているかの様だった。
色々な感情がせめぎあって、押し潰されそうになるのを必死に抑えようとしても、どうにもならなかった。
転生なんてしたくなかった。大人しく死なせておいてくれれば安らかな気持ちでいられたのに。どうして?
すがるように島の縁に触れた。水に濡れた名も知らない雑草を握りしめる。積もる雪がサラサラと雪崩れ、水面に映る俯いた少女の顔を揺らしながら水に溶けた。
うまく纏まらない思考に頭痛と耳鳴りがするし、なんだか眩暈もする。そんな手一杯だったからか、遠く聞こえる蒸気機関の音に暫く気付かなかった。ドッドッドッドッと一定のリズムを刻むその音を彼女は始めとても耳障りに感じていたが、段々と大きく近付いてくるその音が、何かの乗り物が発する音だと漸く気付き顔を上げる。少女のいる場所からは乗り物の姿は見ることは出来ないが、川の上流、南の位置に噴出される灰色の煙が見えた。
南の桟橋に停泊させたのだろう。エンジン音は暫くすると収まり、トン、と桟橋に靴音が響く。やや乱雑に荷物を下ろしているのか、幾つも重なる重みに桟橋が小さく悲鳴をあげていた。
彼女は静かに水中へと肩まで浸かる。そのままそうっと、なるべく見つからないようにと島沿いに近づいた。
桟橋に水上オートバイに似た機体が停泊されている。この世界の金属独特の海老茶色だ。形状自体はとてもシンプルだが、モチーフはウミウシなのか、ちょっと可愛らしい。似たような機体の海底用スクーターがあるので、恐らく応用したものだろう。家主の姿を捉える。防寒の毛皮を纏っているが少し細身で、中背の男性だ。後ろ姿なので年齢は分からない。年期の入ったマスケット銃を背負っている。
不意に男性は、先程下ろした荷物──積まれた麻袋の影に身を隠した。背負っていた猟銃を素早く構え、その銃口を彼女に向ける。
「っ!」
まさか気付かれていたなんて。息を飲んだ彼女はそのまま固まってしまったが、向けられた銃が自分の命を奪うかもしれないと思ったとたん血の気がひいた。震え出した身体に共鳴した水面が揺らぐ。先程までは、大人しく死なせておいて欲しかった、なんて思っていたにも関わらず。
一方、男性は自分が銃口を向けたのが年端もいかない少女だと気付くと、唖然とした表情で銃を下ろした。彼は少女が思っていたよりも年若く見えたし、成熟した青年のようにも見え、だけどどこか狼のような野性的な面影がある。
ふたりは暫くの間、何も言わずに見つめ合っていたが、水中の少女が小刻みに肩を震わせていることに漸く気付いた彼は、慌てて手にしていた銃を畑の方へ投げ捨てた。先に意識を戻したのは彼の方だった。
「すまない、脅かすつもりじゃなかった。怖がらせて悪かった」
そう言いながら麻袋の影から立ち上がり、自分が無害であることを証明させるために、腰のベルトに下げていた短刀も外し、そのまま銃と同じように投げ捨てる。両の手には何も持っていない。それを彼女が良く見える様に、掌を彼女に向けて顔の横へ上げた。距離を置くように、一歩、二歩と後退る。
「あんた、もしかして人魚か?」
少女は何も言わない。ただ、何故分かるのだろうと思いながら静かに頷いた。ほんの少しだけ、震えは止まったようだ。その様子に安堵したのか、ふう、とひとつ息をついた彼は。
「まじかよ初めて見た…うおっ?」
桟橋から足を踏み外した。
「ええっ?」
激しい水飛沫と共に、彼の身体は凍る冷たさの中へと引きずり込まれていった。流石に彼女も驚いて水の中へと飛び込んだ。
流れは緩やかだが、深さのある川なので水底に叩き付けられる事は無いだろう。少女は彼が落ちたであろう場所を見やる。……あろうことか、気を失っているのだろう、彼の身体は静かにゆっくりと落ちて行く。
(ウソでしょ? まさか泳げないの?)
慌てて彼の元へと泳ぐ。上体を起こして整えさせると、少女は自分の桜色の鱗を一枚、力任せに引き抜いた。チクリと一瞬だけ痛むが、こんなもの、すぐに生え変わってくる。その鱗を彼の唇の間に挟ませる。するとすぐに彼は意識を取り戻した。少女の色素の薄い金の髪と、硝子の様に輝く尾びれの鱗が僅かな光に反射し、キラキラと眩しく見えて、ああ、綺麗だなと、ぼんやりと思っていた。
ほっとした少女は人差し指を自分の下唇に当て、すぐに彼の咥える鱗にその指をつん、とつついた。彼女の、いや、彼女たち人魚の鱗にはほんの少しだけ魔力が込められており、水中への適応能力の効果がある。しかしゆっくりとはしていられない。その効果はせいぜい三十秒程なのだから。鱗に気付いた彼はひとつ頷く。それを確認した彼女は、彼の腕を肩に乗せると急いで浮上した。
ふたりは水面へと顔を出す。ゲホゲホと咳き込む彼の背を撫でながら小島へと誘導する。
「大丈夫?」
彼の顔を見る。青白でゼエゼエと荒い呼吸の彼は、幾度か頷きながらもやっとのことで陸地へと上がる。
「ごめんね、あたし陸地を歩けないの。悪いんだけど、もう少しだけ頑張って、そこの薪を持ってきてくれる?」
彼女が薪割り台の近くに詰まれた薪を指差す。正直、早いところ家の中で引き篭りたかったが、彼はよろよろとした足取りで薪を取りに行く。少女はよいしょ、と島の縁へよじ登り腰かけた。くしゃみをしながら薪を数本手にして彼女の元へと向かうが、力が思うように入らないせいで、バラバラと地面に転がってしまった。
「もういいよ。あとはあたしがやるから早く身体を拭いて着替えてきて。それからケトルも持ってきてね」
言い返すのも億劫なのか、彼はおとなしく、ふらふらと家の中へ入っていった。少女は薪をかき集め、それからまた自分の鱗を一枚引き抜いた。薪の上に鱗を置くとその上に人差し指と中指を添える。
(火の魔法はダメダメなんだけど大丈夫かな……)
と、少し不安になりながらも、すうっと息を吸い込んだ。そして彼女は歌い出す。彼女の声は少し舌足らずな高い声だったが、その歌声は全く別人のように柔らかい。
彼女の歌声は魔力だ。彼女たち人魚は、古くはその歌声で船乗りたちを魅了して海へ誘い、人間を虜にしていたと言われているが、実際は違う。魔力の篭る鱗を巡り、老若男女問わず殺され、鱗を剥がされていた。そのような業突く張り共の先手を取り、彼等を海に引きずり込んでいたのは保守の為だ。勿論、今の時代にそんな事をしたら互いに重罪になる。鱗の取引も禁じられている。
歌に乗った魔力は彼女の鱗を媒体に火を起こす。もう必要のない時代なのだからと、歌をあまり教えてもらえなかった彼女が歌える魔術歌はほんの十曲ほどだったが、その中に火の歌があったことは幸いだ。火が薪へ燃え移り、高々と火柱を上げた事を確認すると、巧く魔術歌が発動したことに安堵し彼女は歌うのを止めた。
(ほんとに大丈夫かな……)
物音のしない家の方へ首を向ける。ここ北極圏の冬の川や海の冷たさは、人間にとっては命を奪いかねない危険な代物だ。彼女の住む人魚の都市は、人間たち地上の生物が海中を観光する際には、潜水服の着用が義務付けられている。それでも、冬の間は最高でも一時間が限度だ。
(でも、あたしには確かめなくちゃいけないことが出来た)
それは勿論、先程見た松の木に刻まれた文字のことだ。あれは前世の彼女には馴染みのあるものだ。彼は何かを知っているのかもしれない。
だから暫く、水面にぺちぺちと尾びれでリズムをとりながら彼が出てくるのを待った。