こぼれる記憶・一
ふわふわ。ふわふわ。
揺蕩う冷たい波に揺られながら、少女はひとつ、それはそれは深い溜め息をついた。
昨日までの吹雪は何処へやら。ガラス越しに眺める、珍しく雲のひとつも無い空を眺めていても彼女の気分は晴れない。好きな曲のワンフレーズを口ずさんでみても、少しも楽しくない。
間昼間だというのに白と黒しかない世界は本当に楽しくない。これというのも全部あの馬鹿兄貴のせいだ。
何が「彼女との結婚を許して欲しい」だ。意味が分からない。あたしに言うな。勝手に結婚でも何でもすればいいじゃない。妹のあたしより、大事な人なんでしょう?
プリプリと憤慨しながら、彼女は着けていたゴーグルをくい、と上げて額に固定した。たいして透明度の高くない量産品のゴーグル越しだった景色は、ほんの少しだけ鮮やかに見えた。
そう、今日は久方振りの晴れた天気なのだ。それに、今の時期は日照時間がとても短い。
楽しまなくっちゃ、つまらないわ!
でも、どうしようかな。
彼女は身を起こして周辺を何度か見回した。
ゴツゴツとした熔岩の浜辺。岬には海底への直通昇降機用の、ちょっと可愛らしい煉瓦の建物。そして整備された観光飛行船の空港。三台の蒸気飛行船が停泊されている。陸地はそんな殺風景な風景しか見れない。
反対側は凪いだ藍色で広がる海原。少し沖には数本の錆色の鉄製煙突。そこからもくもくと黒煙が広がっていく。その周辺だけ、空はいつも鈍色だ。あんまり見たくないから目を反らしていたのに、見えてしまった。げんなりとした表情でもっともっと北の沖に目をやる。海底火山からの黒煙が吹き出ていた。ここ百年程、ずっと噴火活動をしているらしい。自然現象なら仕方ない、と溜め息をひとつついて、終わりにする。
こんな時は植物の緑色が恋しくなる。
河口から一時間程泳いで行くと、森が広がるのを彼女は知っていた。季節柄、落葉樹の白樺の樹は寒々しい幹を晒しているだろうけれど、針葉樹なら、きっと……
スイスイ、と少女は優雅に泳ぎ始める。熔岩の岩山を器用にすり抜けて、ゆっくりと、そしてたおやかに。
打ち上げられた溶岩ばかりだった岸辺は、少しずつ痩せた、でも植物達を育てる事の出来る暖かな土へと変わって行き、それと平行するように水は海水から淡水へと変わっていく。彼女は海水と淡水の混ざりあう瞬間が好きだった。まるで緩やかな風が肌を優しく撫でる時のように、一瞬、淡水が彼女の鱗をするりと愛撫するのだ。心地よさに顔を綻ばせる。豊かな金髪とドレープラインのスカートがゆらゆら揺れる。
額へ固定していたゴーグルを再び装着する。そしてとぷん、とその淡水の奥深くへと身を沈めた。清らかな流れは凍えるほど冷たいけれど、だから何だと言うのだ。
昨日までの吹雪が嘘のように透明に澄んだ川の水は、海の中とはまた違う。青と碧。時に不気味な顔を見せる海中と比べると、本当に平和で穏やか。すっかり機嫌を良くした彼女は、流れに逆らい身体を旋回させながら、どんどん上流へと泳いで行く。
この川は入り組んではいるものの、基本的には一直線だ。くねくねと曲がる度に流れは緩やかになっていく。森の針葉樹も濃くなっていき、降り積もった雪とのコントラストが不思議と幻想的に見える。
海藻の緑とは全然違うわね。そんな事を思いながら更に奥へと泳いで泳いで。普段には来ないような、更に奥までずっと泳いで行くと。
(あ……)
その家はそこにあった。
急に川幅が広がったと思うと、流れを分割するように、川幅の中央に小島が浮かんでいる。
彼女が本気を出して周囲を泳げば五分と掛からないだろうその小さな島は、面白いことに上流のてっぺんを中心に滴のような形をしている。上流、つまりこの位置から見ると北側にはこんもりとした木々が立ち並び、島のほぼ中央にちょこんと佇む、赤いペンキで塗られた屋根のログハウスを囲んでいる。家の前は畑が耕されていて、何かしらの根菜が植えられているようだ。昨日までの雪は綺麗に掻き分けられていた。
南向きのドアの両脇にはテラコッタの植木鉢が行儀良く並べられ、紫色と橙色のパンジーとノースポールが咲き始めている。向かって左、家の西側にはハンモックがかけられている。その下には丸いスツール。木のかたちそのままを使ったデザインはとても可愛らしい。ここで読書をしたりお昼寝をすると気持ちが良さそう。でも今の季節は少し辛いかもしれない。東側の日当たりの良さそうな場所には薪割り台と林檎の樹。たくさんの赤い果実がたわわに実っている。
島の南にはボロボロの桟橋。だけど船は見当たらない。ログハウスの煙突も静かなままだ。どうやら家主は外出中のようだ。
(こんなところに家があったのね。でも周辺には他に家がないし、どこからも煙が立っていないから、集落がある訳でもないのか)
見知らぬ他人の家と言えど、彼女にとってはほぼ初めて見る地上の家だ。好奇心のままにぐるぐると周囲を幾度か泳ぎ見て回る。
(折角だし、もっと良く見てみたいな。でも陸地になんて上がれないし……)
不意に違和感を感じたのは、一番北に静かに佇む常緑樹を見たときだ。確か松だったと思う。
他の木々とは違う、何らかの神聖さを感じる不思議な木。その幹の一部分が人為的に削られていて、丁寧に磨かれた剥き出しの木目に文字と数字が刻まれている。
見たことの無い文字の羅列。
見たことのある、文字の、羅列……。
『一四五二~一五四○ R・A』
そのアラビア数字は、この世界では使われていない。
そのラテン文字は、この世界では使われていない。
それを彼女は知っている。
「うそ……」
震えた声が無意識のうちに漏れていた。
胸を強く押さえる。心臓が激しく鼓動をしている。気付いてしまった。思い出してしまった。
彼女は青ざめた顔で恐る恐る手を伸ばし、松の木に触れようとするが、川の中からは当然届かない。それでも、それでも彼女は懸命に手を伸ばす。白い指先が空をつかむ。
ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。その涙に釣られるように、彼女の過去の、生前の記憶が次々と溢れ、彼女の身体に染み渡り融けていく。
あたし、前の世界でもこの世界でも、いらない子なの━━?
性癖のままにらくがきしたキャラから物語を作ってみました。世界観は今までずっとあたためてきたものをリサイクルしてます。