003
目を覚ますと、そこは一面の夜空だった。
真っ青に塗りつぶしたような深い空に、大小いくつもの月が浮かんでいる。星々は月に歪められるように軌道を変え、複雑な軌跡を描いていた。その異様な景観は、名画『星月夜』を想起させる。
界域【星月ヶ丘】。
このバーチャル世界には、断絶した様々な世界が存在する。ここはその末端の一つで、未攻略界域と言われる最前線だ。
しかし辺りには人どころか魔物の気配もなく、起伏に富んだ丘がただひたすらに続いている。
ザッザッと風になびく夜の草原を歩いていくと、丘の上にぽつんと腰を下ろす影があった。
「あっ、ジャスパー。三日ぶり」
ジャスパー、というのは僕の名だ。これはこの世界での名前で、そう僕に語りかけた中性的な少年の名はホクサイ。
僕とホクサイ、それからあと三人の仲間たちは、チームで活動することが多かった。
ゲームである以上時間を取るし、スパイダー専用のVRゲームは筐体を丸ごと買い取らない限りコクーンセンターに来る必要があるので、予定が合うタイミングは少ない。それでも個別に活動しつつ、週末は集まれることが多かったからか、やがて五人は固定パーティーのような間柄になっていた。
彼の隣に腰を下ろし、奇妙な夜空を眺める。
「このエリアも見飽きたなあ」
「少しは真面目に探索したら?」
背中を地面につけて大きくあくびをしていると、ホクサイは呆れたように肩をすくめる。
「ホクサイもサボってたじゃん」
「今日は息抜きの日だからいいの」
【星月ヶ丘】は四六時中夜の界域で、ただひたすらに星空と草原だけが広がっている静かな場所だ。ここに来ると、攻略のことを忘れてただ寝転びたくなる。
「やっぱそうそう、日常って変わらないよな」
空を仰いで、今日のことを思い出す。
可愛い女の子に出会ったら、何かが始まるんじゃないかと期待した。でも、どうだろう。次会う時、僕はどうするのだろうか。ないはずだった接点を持った所で、始まるはずのない物語はスタートしないのだ。
「それがいいんじゃない」
ホクサイは、いつもと変わらぬ調子でそう返した。
「人生は日常だよ。変わらないように変わりながら、私たちは生きていく。この世界でも、あの世界でも……君がどんな人生を送っているのかなんて知る由もないけど、それでも、きっと」
静かな時間が流れる。
なぜか彼といると、人生の毒気が一気に抜けたような気分になる。
事実気が合うもので、五人チームで活動し始める前からホクサイとは長い付き合いがあった。これでも昔は天下の脳筋コンビとして名を上げたものだ。最近はダラダラしている一方だけど。
深くため息をつき、目を閉じて風に耳を澄ます。柔らかな新緑の匂いと、夜を運ぶ風の香りが鼻孔をくすぐる。涼やかな月明かりと闇の冷たさが肌を刺す。
実質的に現実と同じ……きっと、五感の上ではそうに違いない。旧世代のVR技術がどんなものかは薄っすらとしか知らないけれど、今の僕たちは本当の異世界にいる。
異世界はあくまで異世界で、実質的に現実と同じかと言えば、本質的には現実ではないけれど。
それでも、僕はここにいる。
日常から離れた日常……VRゲーム『デイズ』は、僕にとってもう一つの現実なのかもしれなかった。